第2話
空調が効いているはずの店内なのに、妙に暑い。
総一郎は席に座ったまま、バックヤードにある店内空調の設定温度を思い出して首を振る。
開店前の清掃時にエアコンのスイッチを入れたのは他ならぬ総一郎だ。設定温度はいつもと変わらない。
つまり、平常でないのは初デートに緊張している総一郎自身ということだった。
バイトを上がった後、待ち時間で読むために買った文庫本の中身も、まったく頭に入ってこない。さっきから同じページを何度も読み返している。
「黒川先輩。すみません、お待たせしましたか?」
不意に声をかけられる。総一郎が文庫本から顔を上げると、いつの間にか清香が目の前に出現していた。
「いや、さっき来たところだよ」
内心の驚きを隠して、総一郎はにこやかに返す。
緊張しているのはきっと清香も同じだ。自分がしっかりしなければという思いが、ある意味では余計に総一郎を緊張させていた。
「え、でも午前中はバイトだったんですよね」
セオリーどおりの台詞にあっさりと突っ込みを入れられて、総一郎は慌てて言いなおす。
「さっき上がったばっかり、ってこと。全然待ってない。本当に」
「ふふ、すみません。ちょっと、いじわるなことを言いました」
清香が笑いながら、総一郎の向かいの席に座る。
総一郎は文庫本を鞄の中にしまうと、照れ笑いを浮かべた。
「せっかくのデートなのに、俺のバイト先なんかが待ち合わせ場所で、ごめんね」
「大丈夫ですよ。駅前で待ち合わせ、とかにしちゃうよりも、黒川先輩と一緒にいられる時間が長くなりますもん」
さらりと返された言葉で緩みそうになる頬を総一郎は引き締める。
春香が「うちの清香はかわいい」と自慢するときの表情を、緩みすぎていると何度も指摘したことのある総一郎だった。自分が同じような顔をするわけにはいかない。
どうにか顔の筋肉をごまかした総一郎は、テーブルへ視線を落としてミスに気がついた。二人がけのテーブルに乗っているのは、飲みかけのコーヒーが一杯だけだ。
「清香ちゃん、何が飲みたい? 買ってくるよ」
「あ、いえ、そんな。黒川先輩の手を煩わせるわけには」
慌てる清香を手で制して、総一郎は立ち上がる。
「俺が行けば一割引。アルバイトの特権はちゃんと使わなきゃ」
総一郎は別にデートの代金は全部男持ち、などという脅迫観念に縛られているわけではない。しかし、アルバイトをしている大学生と、アルバイトを禁止されている高校生のどちらがお金を持っているかと言えば、考えるまでもない。割引があると言っておけば、清香も譲りやすいはずだった。
「それじゃあ、ええと、黒川先輩と同じやつを」
「コーヒー? 了解、ちょっと待っていて」
総一郎の目論見どおり、すまなそうな表情をしながらも清香は引いてくれた。しかし、引け目に思わせるくらいなら、割り勘にするか、切りの良い分だけでも出して貰う方が良いかもしれない。
姉妹だというのに、隙あらば総一郎にご飯をたかってくる春香とは大違いだった。
◆
「ご注文は?」
「ブレンドひとつ。ホットで……って、お前今日バイト入ってないだろう」
総一郎がオーダーを通したカウンターの向こうに、当然のような顔で春香が立っていた。
「成り行きでねー。すぐに帰るつもりだったんだけどさ。スタッフルームに入ったら、ちょうど店長に見つかっちゃったのよ。壁井くんが遅れるらしいから、それまでのヘルプってことで」
そう返されて、総一郎はなるほどとうなずいた。いつもの春香ならキッチンに入るときはバンダナで髪をまとめているはずだが、今日はそれがない。予定外のヘルプで、用意していなかったのだろう。
総一郎と目を合わせて、春香がにやりと笑った。
「別にあんたたちのデートを監視しに来たわけじゃないから、安心しなさい」
物騒な笑顔に、総一郎は思わず一歩引いてしまう。
それは春香が琴留高校の生徒会長だったころ、近隣の不良たちを震え上がらせていた表情だ。副会長として隣に立っている分には良かったが、総一郎自身がそれを向けられる立場になってみると、なんとも恐ろしい。
「お前が言うとシャレにならないぞ、それ」
「だから、成り行きだって言ってるじゃない。信じなさいよ。で、注文はブレンドひとつだけで良いの?」
春香はすでに手早くカップを取り出して、コーヒーの用意を始めている。
「ああ、俺の分はさっき頼んだ奴があるから」
「なあに、これ清香の分なの?」
「そうだよ」
ちょうど小銭があまっていたので、総一郎はつり銭が出ないように代金をカウンターに置いた。
「はい、毎度」
少し遅れて、春香がコーヒーを出してきた。ソーサーにはミルクとスティックシュガーが二つずつ乗っている。
「なんだこれ」
「あの子、ブラックは飲めないのよ」
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