なりたいと望むもの
佐藤ぶそあ
第1話
コンコン、と軽いノックの音に続いて、すぐに声がかけられた。
「清香、ドア開けっぱなし」
床に広げた二着の服とにらめっこをしていた清香は、声に驚いて入り口の方を振り向く。
「お、お姉ちゃん」
姉の春香が、ドアへ寄りかかるようにして立っていた。呆れたような顔で清香を見て、ため息をつく。
「なんでフローリングに正座してるかな。や、分かってるけどね」
にんまりと目を細めた春香はそのまま部屋の中に入ってくると、清香の隣にしゃがみこんだ。
「今日、総一郎と初デートでしょう」
「う、うん」
顔を赤くして清香はうなずく。
春香にはしっかりばれているようだった。元々、総一郎は春香の同級生で、清香から見ると三つ上の先輩だ。つい先週まで、総一郎と清香の関係は間に春香を挟んでいるのが当然だった。
面と向かって春香に付き合い始めたことを報告したわけではない。けれど、清香がリビングでメールや電話をやりとりするのを見ていたはずだ。
聡い姉が、察していないはずはなかった。
二着の服と清香を順々に見比べた後、春香は淡い桜色をしたタートルネックをびしりと指差す。
「こっちにしなさい。清香は何を着てもかわいいけど、ピンクの方が似合うもの。青よりも春らしいしね」
それに青い方は胸が開きすぎ、総一郎にはもったいないわ、などと呟きながら部屋を出て行こうとする姉の袖を引き、清香は笑顔を浮かべた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
ぐっと春香が息を呑み、体の動きを止めた。次の瞬間、きゃー、などと叫びながら清香に抱きついてくる。
「ああもう、なんでこんなにかわいいのかしら。駄目よ、清香。誰彼かまわずにそんな顔見せてたら、変な人にお持ち帰りされちゃうんだからね」
ぐいぐいと姉に抱きしめられながら、清香は呟く。
「い、今はお姉ちゃんが一番変な人だと思う」
「良い? 女の子はね、かわいかったらどれだけ男を焦らしても許されるっていう法律があるんだから」
まったく聞く耳を持たない姉にますます強く抱きしめられて、清香は腕から逃れようとじたばたする。
「お、お姉ちゃん。痛い、痛いってば」
「あら、ごめんね。強すぎたかしら」
ようやく抱きしめ攻撃から開放されて、清香はほっと息をはいた。その視線をベッドの上に置いてある目覚まし時計に持っていって、叫び声を上げる。
「ど、どうしたの。太郎さんでもいたの?」
バイト先での癖か、黒い悪魔を符丁で呼んで部屋の中に視線を走らせはじめている姉に、清香は時計を指差して告げた。
「バス、出ちゃった」
アナログ時計の針は、十一時をすこし回っている。次のバスは十二時半過ぎで、それに乗ったのでは約束した時間に遅れてしまう。
「待ち合わせ場所と、時間は?」
春香が素早く確認してくる。清香はすがるような目で姉を見つめた。
「ワールドエンドのカフェコーナーに、一時」
「なんでそんな色気の無いところ……あ、そうか。今日の午前中、あいつバイト入ってたんだっけ」
姉の言葉に、清香はこくこくとうなずく。
ワールドエンド・ブックストアは地下一階、地上二階のそこそこ大きな書店だ。総一郎と春香は、地下にあるカフェコーナーのキッチンスタッフとしてアルバイトをしている。
「幸運に感謝しなさい、清香。お姉ちゃん、今日は午後からバイトが入ってるから乗せていってあげる」
春香はそう言うと、清香の頭をぽんぽん、と叩いた。
「お父さんに車の鍵を借りておくから、さっさと着替えて下りてくるのよ。時間があったら髪もやってあげる」
「うん、すぐに用意する。ごめんね、お姉ちゃん」
「ついでよ、ついで」
春香が小さく苦笑して部屋から出て行くのを、清香はすまなそうな表情で見送る。少しすると階下から、お父さん車貸してー、という春香の声が聞こえてきた。
その声に我に返り、清香は慌てて出かける準備を始める。こまごまとしたものをハンドバッグに詰め終えると、床に視線を投げた。
清香は広げたままになっていた二着の服をじっと見つめると、姉の勧めてくれたピンクの服を拾い上げて、きゅっと抱きしめた。
◆
若葉マーク付きの軽四が、滑らかに駐車スペースへと収まる。春香は後方を見るために開けていた窓を閉めてから、車のエンジンを止めた。
日曜日の昼間。まだ結構な数の空きスペースがあるのに、入り口から最も遠い駐車場の隅には、何故か他にも三台の車が止めてある。
「端の方でごめんね。バイトは基本的に隅に止めないといけないのよ」
その言葉に清香は納得する。おそらく他の車も、春香と同じようなアルバイトか、社員のものなのだろう。
清香はシートベルトを外してから、ちらりと腕時計を確認した。
「ううん、大丈夫。まだ二十分もあるし」
「あら、結構余裕があったわね。編みこみは無理でも三つ編みくらいできたかも」
ブラシで梳いて、ヘアピンで留めただけの髪を名残惜しそうに見つめてくる姉に、清香は首を振る。
「良いよ、そんな。そこまで迷惑かけられないよ。うーん、わたしもお姉ちゃんみたいに短くしちゃおうかな」
清香は額にかかる前髪をもてあそびながら呟く。
去年の秋に、春香は長かった髪をばっさりと切ったのだ。姉の真似をして髪を伸ばしていた清香は、なんとなく切るタイミングを失ってしまっている。
「やめてよ、もったいない。清香の髪をいじるのは私の趣味なんだから」
「切らなかったら自分の髪もいじれたのに」
「あら、私は短い方が似合うもの」
そう言って春香は笑う。首までしかない髪が小さく揺れた。
大学二年になる姉は、かわいい女の子をすっかり脱却して、綺麗な女の人になってしまっている。三年後の自分が同じようになれるのかを想像してみるたび、清香は密かに落ち込んでいた。
そもそも、高校生だった頃の春香を思い出してみても、今の清香よりずいぶんとしっかりしていた記憶があるのだ。自慢の姉は、清香からあまりにも遠い。
「どうしたの? ため息なんかついて」
「ううん、なんでもない」
「憂い顔も良いけど、笑ってた方が総一郎も喜ぶと思うわよ」
春香がにやにやしながら言う。
「そうだよね。よし、行ってきます」
気を取り直した清香は、車から降りる。春香と話していたおかげで、ちょうど良い時間になっていた。
「はいよ、行ってらっしゃい」
そう言って送り出してくれる姉を、清香はきょとんとした表情で見返した。
「お姉ちゃんは降りないの?」
「なんで」
春香が不思議そうに問い返してくる。
「午後からバイトって言ってた」
「おっと、そうだった。私も降りなきゃ」
春香がシートベルトを外している隙に、清香はサイドミラーに自分の顔を映してみた。隙をついたつもりだったけれど、しっかりと春香に見られていた。くすくすと笑われる。
「大丈夫。清香は今日もかわいいわよ」
やっぱり、綺麗とか美人とかではないのだ。サイドミラーに映った顔の眉間にしわがよった。清香はあわてて、笑顔を作りなおした。
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