食べさせてください

「カイくん。出ておいで」

彼女がそういうと、逆さまの帽子の中から黒い靄のようなものが、ガスが破れた隙間から噴き出すように出てきた。しかしそれは勢いよく出てきた割には広がることもなく、瞬時に野球ボールより少し大きいくらいの球体となる。その変化には感動すら覚えるほど滑らかだったが、靄に黄色い楕円が二つ現れて、その下に赤い横長の楕円が形成されたのを見て、感動が畏れに変わる。3つの楕円はちょうど目と口に相当していた。一見するとヌイグルミに見えるが、見えるが...

あれ?なんか可愛くね?

「なんだそのカワイイ...なんだぁそれはぁ!?」

『えぇ!?』

互いに驚愕の声を上げる。この瞬間にさっきまでの空気が一気に吹っ飛んでいた。

この訳の分からない状況に苛立ちとか恐怖とか、只でさえ鬱々とした日々に追加で化学兵器を投入されて精神汚染がマッハで有頂天に達しようとしていたが(?)、それは些細な問題となった。

「いや、むしろ登場のシーンを加味するとカッコいい気がする...」

「カッコイイって!初めて言われたよ!おねーちゃん」

「えっえっ」

「カイくん」と呼ばれた黒い球体が、彼女の周りを黒い尾っぽを引きながらぐるぐる漂う。浮かび上がっていた黄色い楕円は、よく見ると山の形に変わっていてニコニコマークみたいになっていた。表情があるのか。なんだか、見れば見るほど愛嬌のある生物に思えてくる。「おねーちゃん」と慕われている彼女が羨ましい。

「よっと」

漂っていたカイくんが彼女の肩に乗る。飼っている動物が、ああやって自分に寄ってくるとすごく嬉しいんだろうな。触り心地とかどうなんだろう。

「触らせていただいてもよろしいでしょうか」

「え?あぁ、はい」

急な申し出に、若干、呆然としていた彼女が元のたじたじ状態へと戻る。さっきとは別の意味でうろたえているんだろうが、ずっとそれだと構えてしまう。

...会社にいる時の俺みたいだな。

そう思うとため息混じりの変な笑いが出た。

「では、どうぞ...」

と肩のカイくんを両手で持って差し出して、

「...あっ、いや、すいません!ダメですダメです!お触り禁止!」

急に引っ込めた。

「兄ちゃん。ぼくに触るとやけどするぜ」

「とてもそんな風には見えないけどな?」

ドヤ顔をする黒玉くん。それを口元に、顔半分を隠す盾のようにしながら彼女は言う。

「火傷じゃ済まないよ。消えて無くなっちゃうよ」

...えっ?消えるとこだったの?

サラッと生死の分け目から九死に一生を得ていたらしい。まったく実感がないけど...

まぁ、非現実的なモノに簡単に触れようとした俺も悪い...のか?いや、現時点で一方的に意味不明な状態に巻き込まれてしまっているのは此方であって。俺は被害者だろ、被害者。簡単に消されそうになったんだから怒るべきところだな。まったく想像できないけど。

現実離れしたことが一つ二つと重なって、きっと混乱してるんだ。

「でも、あの兄ちゃん。死にたがってるんでしょ?べつによかったんじゃない」

その一言が、俺の頭に冷水を掛けた。

一気に現実に引き戻された気分だった。彼女が現れる前の、長い間、もたれ掛かられている感情。いつのまにか巣食っていた。消えたと思っても、心の何処かに残り滓を引っ付けて。いつまでも、いつまでも、居続ける。

この心はどれだけ俺を苛めば済むのだろう?ふと、自分の汚点に気付いた時、どんなに晴れ渡っていようとも鈍色に早変わりするのだ。

そして思うことは決まっている。

ああ、はやく死んで−−−

「あの、ちょっと」

突然、彼女が話し掛けてきた。

急に押し黙ってしまったから、ビックリさせてしまったのだろうか。彼女は、いつの間にか自分の目の前まで近づいてきていた。

「ごめんな。急に黙って。いま地図出してやるから...」

「あ、いいえ。そうじゃなくて」

トンッと俺の眉間に指を突き立ててきた。

「その心。要らないですよね?」

「はい?」

「それ、どうか私たちに食べさせてはもらえないでしょうか」

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