2話 再会 前編
18年。
先輩が殺人事件で殺されて今年で18年が経った。
同じマンションでありながら何故気づけなかったのか、その後悔がうねる冷たい波のように、いつも心に押し寄せる。
心がその波の水底へ飲まれるたびに
「あぁ、きっとあの人はもっと苦しかったのだろう」
と感じてしまう。
西実由季は夏の高く青い空を見上げながら、今この瞬間も冷たい波が心中に降りかかる。
西実が現在刑事になったのも、府中の地に移り住んだのも、全てはあの事件が切欠だった。
忘れもしない大学に入って2年目の"あの日"。
蝉の声がけたたましく響く、長いながい夏休み。剣道部の部活の帰りであった。
帰ってきて最初に、丸一日練習に励んだ体を癒すべくシャワーを浴びていた。
風呂は本当に偉大!湯船に入れば、体から疲れが染み出して癒やしてくれる。
さぁこれから夕飯だ、という時に刑事が訪ねてきたのを今でも覚えている。
真面目そうな雰囲気で丸眼鏡をかけ癖っ毛の、どこか爽やかで元気そうな風貌の男性だった。
「夜分遅くに失礼します、西実由季さんですね。
警察のものです、下の階で西実さんの所属する研究室の先輩・・・えっと、南美代子さんですね。
が、遺体で見つかっておりまして・・・。
それで不躾ながらお話など聞けないかなと思いお訪ねしました」
それを聞いた瞬間に、膝から力が抜け泣き崩れた
玄関マットの柔らかい感覚が、あの日は無機質に硬く感じた。
私の心と体は、あの時氷のように冷たく脆かった。
一番に学科でも部活でも信頼し世話になった人が無惨に殺された現実。
それはまだ20の女学生には耐えがたいほど辛い出来事だった。
不意に世界の半分が消えた。自分の世界を一番に照らす太陽が落ちた、陽はもう差さない。
以来その悲しみと憎しみが心のどこかに常に住みつづけることとなった。
日々犯人を捕まえるべく執念を燃やす人生のはじまるの日。
人の心の力というのは偉大なもので、一見不可能に見える物事も時には容易く超えてしまうものなのだ。
西実が気づいた時には、市政の一警察官になっていた。
特に警察という職が好きだった訳ではないが、元より正義感も強く、厳格な父に武道全般教わっていたためか、抵抗も無く就いた。
何より真面目かつ素直な性格から結果的に西実には適職だったのかもしれない。
いや、或いは新しい陽の光をそこに求めたのかもしれない。
矢のように月日は流れ、仕舞にはここ府中で刑事になっていた。
そんな流れ着いた地で、なんという巡り合わせだろうか。
いや呼び寄せられたのだろうか。
府中で出会ったのは、18年前のあの日に私の部屋を訪ねて南美代子の死を知らせた警察、寿々木聡その人だった。
西実と顔合わせをした時、寿々木は心底驚いた
まさかあの時の事件関係者が、自分の下に配属されるとは思ってもみなかったのだろう。
西実もまさか寿々木が自分を覚えているとは思いもかけなかったが。
「あの時はすまなかったよ。結局未だに事件を解決できていないのは自分達の未熟さゆえだった。」
初めての仕事の日、帰りがけに寿々木から西実に向かって投げかけられた言葉だ。
何をこの人は謝っているのか。
悪いのは彼ではない、殺人犯なのだ。
西実はそれを言葉として、投げかけたかった。
あなたは悪くないという精一杯の気持ちを声で伝えようとした。
だが、その男の横顔を見た途端に、言葉が喉から出ていくのがためらわれた。
何かを決したような強さと、どこまでも深い悲しみと後悔。それを両の目に讃えていた。ように感じた。
実際はもっと多くの複雑な感情が入り混じっていたのだろう。
だが、少なくとも先輩であるこの人の心にも、事件に対する大きすぎる感情を抱えていることは一目で分かったのだ。
事件の負い目もあったのだろうか。寿々木は徹底して西実を指導したし、人一倍温かく接してくれた。
まるで、とても仲の良い兄のような従兄弟のような、そんな感覚を残した間柄である。
西実自身も常に必死であり、また努力家だった。
その裏には良き上司に応えようという気持ちと、精一杯仕事をこなす先に、憎くてしょうがない殺人鬼がいる。
そんな確信。その二つの感情が相重なっているが故の必死さだった。
そして、今。
西実は殺人事件の現場にいる。
場所は府中市内の多摩川の河原だ。
目の前の遺体は、年の頃も20前後の若い女の子。
着ている服はいわゆるゴスロリファッションと言えばいいのだろうか、特徴的な服装だ。
髪は黒々として伸ばし、黒と白を基調にしたフリルドレス、猫をデザインにしたニーハイソックス。
なんと形容しようか。その…実に「個性的な」若い女性だ。
この都会的な個性の塊が何の変哲もない、普段のほほんとしてるであろう河原と草原の中に倒れているのはあまりの不釣り合いに感じられた。
川のせせらぎが耳に優しく、日差しの暑さが夏を感じさせる。
こんな日は、麦わら帽子にタンクトップの少年の姿の方が、目の前に横たわる個性が際立った服装と趣味が全面に感じられる遺体より似つかわしい。
今この場所は、アンバランスの極みだ。
ただでさえ自分の世代には無い感覚や、ジェネレイションギャップが目の前に横たわっているせいか言葉も言いよどむ。
近くには争って切れてしまったのか、数珠らしき珠と、十字架が落ちている。
服装と相まって、なんというかこういうのを「堕ちている」というのだろうか?
ヴィジュアル系のファッションだろうか。まるでバンド楽曲のPVで見かけるバッドエンドだ。
完全にステレオタイプなイメージで必死に考えているが…正直ヴィジュアル系に疎い西実は慣れないことを考えて途端に恥ずかしさを感じた。
ともかく見た通りは普通、ではないが遺体としてに異常はなく見える。だが、その実この遺体は異常な点がある。
体の一部が切り取られているのだ。
その被害者のあり様を知ると、西実はハッと何かを思い出して心が冷たくなっていくのを感じた。
「18年前のことを思い出した?」
年齢よりも溌剌とした若々しい聡の声が、西実に向けられた。
「いえ、先輩。いち早く犯人を捕まえ、牢屋にぶち込んでやることを考えていました。
手口は凶悪で、残忍極まりないです。
こんなことをする人間を、私が愛する街に野放しにしておくことも、市民が恐怖に震えて眠るようなことも、あってはいけないことです」
「はははは。そう気張らなくていいよ。
さて、今回の手口。18年前のように死因が溺死、遺体から一部切り取られいてる点が類似しているから余計に思うところがあるかな?
『今回の事件は18年前の手口にそっくりだ、もしかしたらあの時の犯人にたどり着けるかもしれない!』とか」
心中で小さく感じていたことに、彼は鋭く切り込んだ。
「やっぱりね。実を言うと、僕も全く同意見だ。
不謹慎で君には失礼な話だが、あの時は僕の人生初の殺人事件で、浮足立っていた上にすぐ解決すると思っていたんだよ。
その時の自責の念もあるし、当時の先輩の執念を受け継いで、今も解決したいと独自に捜査しているくらいさ。
だからこそ、今回の事件には並み以上の緊張が走っているよ」
張り詰めた緊張をほぐすためか、努めて明るい声で会話をしてくれているのが分かる。
けれども、その言葉の裏には明確に強い意志を感じずにいられなかった。
「飄々としている割に、相も変わらず見透かされていますね。
仰る通り、今回の手口は当時に似ている部分が散見されます。
川に顔を埋められ溺死。
少しは抵抗した様子も見られます。
溺死もそうですが、遺体の損壊状況が類似しています。
体の一部、右手・足首、そして胸部。部位は殆ど違えど、持ち去り方も類似点です」
淡々と西実は語る。
「対して18年前の事件と違う点は、あちらは遺体の姿勢がきれいに寝ているような状態でしたが、こちらは身奇麗に整理されてないこと。
あと、片手で握っている・・・アワビ?ですかね。真ん中にナイフが突き立てられています。
なにかのメッセージ性があるとは思いますが、これは現在調査中ですね。
ナイフの出処も調査すべきです」
「ふむ、来て早々に冷静に分析をしているのだね。
優秀な後輩というのは嬉しいものだなあ」
「茶化さないでください、続けますよ。
総じて相違点はあれど、私たちの知るあの事件。
想起するには十分な状況です。それ故に気張るところがあるのも、ハッキリ言ってしまえば大いにあります。
ですが、先輩もあの事件は胸中に深く突き刺さっていたのですね。
先輩の先輩の執念、ってところまで話が及ぶとは・・・・。」
その瞬間に聡はきょとんとした顔をする。
「おや、守咲先輩の話をしたことはなかったか。
あの人はねぇ、熊狩りの守咲って呼ばれていたんだよ。
白肌に高い鼻の白人のような顔立ちの反面ね、筋肉つきの良い長身で武骨そうな人だった。」
遠くを見て、懐かしむように西実に語り始めた。
「そんな外見と反して、すごく緻密に証拠をくまなく探す人でね。
熊狩りってマタギのように熊の居場所を糞とかの証拠を探って熊の居場所を特定する様子から来ていると、署内で当時評されていたんだよ、体格も相まってね。
そんな緻密な捜査を行う先輩だったから犯人をお縄にするのは彼の十八番だった。
けれどあの時の犯人だけは、そんな凄腕の手を逃れ、平穏無事な生活に戻ってしまった」
くるりと背中を向けながら、聡は語る。
「犯人は、今もどこかで人一人殺した罪すら意識せず、のほほんと生きている。
それを僕は許せないし、何より、先輩は長い刑事人生の中、唯一人検挙できなかった犯人だと言っていた。
まだ現役とはいえ、指導する側として回ってしまった今では捜査もできないから、本当に無念そうだったあの顔を忘れることは出来ない。
だから僕が刑事として全てを教わった人の、心残りに僕がケリをつけてやるんだ」
いい切ったところで、聡は西実の方へ向き直った。
寿々木の目は真っ直ぐ見据え、濁りない渓流の沢のように澄んでいた。
それは西実には西実自身の物語があったように、寿々木には寿々木の歩み進めた物語があったことを示していた。
そして各々のドラマははお互いの思いや生活に根差し、深く影を落としている。形が違っても、確かに静かに鳴動するように影を落としていた。
呪い。あの冷たい波はそう表現してもよいのだろう。
それが一生、人生の長きにわたり付きまとう。
払拭も解決もされない、いつ晴れることも分からない。
目を逸らさず見ずにはいられない、一生向き合う瑕そのもの。
だが一つの目標を須々木と西実はそれぞれ持っていた。持っていたからこそ前へ前へ歩む原動力となった。
人間とはそういうものなのだろう、到達したい結果がある限り、折れない気持ちがある限りは前に進めるのだろう、と西実は勝手に納得した。
また自分だけではなく、寿々木という男もこの呪いと戦ってきたのだと知ると、西実は何故か心強く感じた。
この呪いと戦っている人間が自分だけでない、それゆえの奇妙な安堵感と他の誰かが共に抱えている闇である、一体感からだろうか。
ようやくあの後悔と喪失の波間から抜け出せるのかもしれない。
西実は密かにそう思った。
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