第3話


 生まれ変わった楓 秀也、要するに今の自分が通学路を歩むのは初めてだった。だから目に映る景色がとても新鮮で、簡素なものでも関心が惹かれる。あそこには桜の並木道があるのかと知ったり、あそこには眼科があるのかと把握したり。

 一度だけ、退院した次の日に学校へ……というより教員室へ訪問している。心配している先生方もいるだろうからと、両親に言われて。父の運転する車に乗せられて、気付けば着いていたためその道のりはあまり確認していなかった。

 柊木の街並みは大体こんな感じの落ち着いた住宅街ねと、母は言う。一軒一軒の敷地は広いようで、綺麗な塗装の二階建て、時に三階建ての一軒家に庭が添えられているような家が多い。庭にはその住人により様々な木々が植わっており、梅の花が落ちる家もあれば、一本だけ細い桜の枝が伸び、丁度今花が咲き誇っているような家も。

 我が家は木ではなく花壇のようだが、同じような家も多かった。名前も知らない紫の花やオレンジの花びらが目についたり、食べれるかもわからない真っ赤な果実を実らせた所もある。

 総じて言えることと言えば、こうやって自宅でも草花を楽しめるような、優雅な趣味を持つ裕福な家が多いのだという事だ。

 敷地の大きさもさることながら、多くの家はその外装だけでも充分に凝った代物だと分かった。一つとして同じ印象を覚えるようなものはなく、一軒ごとにその家主の趣味が窺えた。

 ここは確か部活のお友達の家だったかな。ここはクラスメイトのお家よ。そんな母の声は聞こえてはいるけれどそうすぐには覚えられない。さっき伝え忘れたらしいけれど、自宅の斜向かいの家は陸上部の先輩の家らしい。

 この辺りから紅葉谷に進学する人が多いと言われたのを、それらの言葉により実感した。少し歩くだけでまた、俺の知り合いだった誰かの家。けれども、そこに住む友の顔を、俺は思い出すことができなかった。

 進めば進むほど、また違った花の香り。甘ったるい匂いがしたかと思うと、次に香ったのはもっと爽やかで控えめなもの。空気が歩くたびに顔色を変えるようで面白いな、などと考えながら歩いていると、鎖が鳴る音がした。耳の端をこっそり駆けるような小さな音。何かと思えば、そんな呑気な俺を驚かせようと犬の吠える大きな声が響き渡った。大型犬の低く唸るような声に気圧されて、大袈裟なリアクションをとってしまった。


「あら、随分かわいらしく驚くわね」


 小学校の頃に戻ったみたいよと微笑む母親。なるほど、今度からこの家の前は避けるような通学路を確保しよう。



 柊木を抜けると、紅葉谷学園のある椿姫つばき町へ。その様相ががらりと変わった。市の境目を隔ててきっぱりと別の町になっているようだった。

 西行きの一方通行の大通りと、東行きの一方通行の大通り、それらによって柊木市と椿姫町とは分かたれている。椿姫町は紅葉谷学園を中心として、学生が喜ぶような店が数多く展開されている。それゆえ住宅の立ち並ぶさっきまでの町並みとは一風変わった景色を見せつけていた。

 ゲームセンターにファーストフード店、コンビニにカラオケなど、遊びたくなるような場所や部活帰りに寄りたい飲食店など様々だ。その向こう、ほんの少し坂を登ったところに、高いフェンス、そしてネットに区切られた広い土地が見えた。奥には、大きな時計が側面に掲げられた、ちょっと古ぼけた校舎。歴史は遡ること約130年。全国的にも一番を争うほど昔に設立された学校。移転により、校舎自体は還暦を迎えるか迎えないか、といったところではあるが。

 坂の下から校舎を見つめても別段頭痛はしなかった。だが、大通りを渡り椿姫の道に踏み入れ、その匂いを嗅いだ途端に懐かしさがやってきた。パン屋の正面に漂う焼き立てのパンの芳香。精肉店がコロッケを揚げている小気味良い音と香ばしさ。それらはきっと、部活帰りの俺がかつて口にしていたもの達だろう。

 またしても、傷口が疼くような感覚。俺はここで、誰と笑い合いながら道草食ってたんだろうか。それは、今日のクラブ活動の後に誰かに教えてもらえばいいか。押し寄せる鈍痛などには屈しない。向かいたい場所があるのだから。


 坂と言ってもずっとなだらかで、特別登るのはしんどくなかった。それは当然、母親こそ息は上がっていたものの、怪我をする前は毎日のように走っていたらしい俺にとっては息が乱れることもない。

 ふうふう息をもらす彼女に歩幅を合わせる。まだ、着くべき時間までは十分ほどある。学園自体は目と鼻の先だし、遅刻は無さそうだ。この辺りに差し掛かると、同じ制服を着た生徒が多数見受けられた。サイズの合わない服の袖に手が隠れている。埃も皺もついてないその様子と、初々しさと緊張の溢れる表情から彼らが新入生かと理解した。校章は錆で色褪せてないし、並ぶ学年証も一本線。

 何処と無く全員誇らしげなのは、ここの高校に受かったと言うだけの自負があるのだろうか。


「去年の秀也達もこんな風だったのかしらね」


 多目的ホールで行われるため、スペースの都合で保護者抜きで入学式は行われるのだとか。何せ入学式は一時間と少々ですぐ終わり、そのまま一年生達はそれぞれのクラスでのホームルームに長いこと時間を取られる。そこまで大袈裟な式にする訳にもいかず、保護者を招くほどのものではない。それに親御さんがこぞって生徒達の写真でも撮ろうものなら時間を奪われて仕方ない。

 俺が彼らの前で話すのは式の中頃の事だとか。原稿は予め先生方が書いてくれているのだとか。用意周到で有難い。例年は会長が自ら作っているらしいのだが、今年はそれどころでは無かったから仕方ない。

 入学式くらい代役を立てるかと以前副会長を推されたが、最初から人に任せっぱなしで業務など達成できはしない。ちゃんとやり遂げると決めた以上、俺の中に最初から投げ出すと言う選択肢は無かった。

 そんな俺を見透かしてか、はたまたただの偶然か、後ろから一つの風がやって来た。緩い坂を上りながら肩で空気を切るように、自転車に跨った彼女は俺たちを追い抜いた。


「あら」


 なんて声がして、こちらに気が付いた彼女は漕ぐ足を止めた。ブレーキをかけ、ハンドルごと振り返る。ショートカットの黒髪、美しい切れ長の瞳は、本人にそのつもりは無いのだが、冷たく鋭く、睨んでいるようだった。それなのに、とても綺麗だった。肌が白い事からも、雪女ではないかと思ってしまう程に。制服の袖と、手袋の間、少しだけ覗いた手首は艶めかしい白磁のようだった。

 スカートの丈は膝より十ずっと上でかなり短い部類だが、その代わりに黒いストッキングで足全体を覆っている。細い足の輪郭が浮かぶ。これでバスケ部だと言うのが信じられない。華奢な体つきだが、うちの次期エース、なのだとか。

 才学非凡、文武両道、雲中白鶴だが今一人望が足りない。彼女は自分でそう言っていた。自分で言ってはいたが、最初にそう書かれたのは新聞部の発行する学内新聞だったそうだ。そこの言葉をそのまま借りただけ。

 記憶を失ったばかりの俺が唯一会った事のある同じ高校の同級生、副会長だ。

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これは、再開の物語 狒牙 @hiGa

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