第2話
部屋から一歩外に踏み出せば、急に現実に戻ったような心地だった。広々と感じられたフローリングの廊下が、急に狭苦しくなる。とは言っても、一人で歩く分には決して窮屈では無いのだが。リビングに向かうために、玄関の前を通り過ぎる。父親の革靴がもう無い。起きた時には出勤してしまっていたからだ。
大体父親は七時ごろに家を出る。それは、普段の俺が学校へ向かう時間と同じだったらしい。母親は、毎日のように二人の背中をまとめて見送っていたのだとか。対して今日は、入学式が十時から行われる。俺は九時半に着けばいいとのことだったので、八時ごろまでゆっくりと寝過ごしていた。起きて、ダラダラとご飯を食べて、歯を磨いて着替えて、そして今。
時計は九時ぴったりを指していた。今から出れば、徒歩でも二十分ごろには着くことができるだろう。何となく、遅れてはならないとうずうずしてしまう。十分前行動が染みついているのだな、俺には。それを察してか、リビングの方から母親の姿。そろそろ見慣れてきた、彼女の容姿は、年齢を感じさせないほどに若々しかった。
楓
準備も万端な俺の様子を見て、やはり貴方は変わらないねと、嬉しそうに相好を崩す。何だか、ギリギリまで待つのが違和感があって。などと取り繕って本心を隠した。どの口で言えたものだろうか、やはりと言われても、変わらないと告げられても、彼女を真に喜ばせているのは俺ではない別の誰かだなんて。貴女の望むその子は俺ではないだなんて。
小さな手提げかばんと、先生たちに贈るであろう菓子折りの入った少し大きな紙袋を提げた、彼女と共に玄関の方へと戻る。部屋を出るのがあれだけ億劫であったのに、家から出ようとする足は驚くほどに軽かった。彼女と一緒だからだろうか。共にいるだけで、気の休まるこの関係が、家族だというのだろうか。
靴ベラを使ってスニーカーを履く。足がピタリと収まり、履き慣れた靴であると実感した。つま先の辺りが少し削れて、靴紐の先の方がほつれている。いっそそろそろ買い替え時ではなかろうかとも思うが、白い部分が思ったほど汚れておらず、靴底もまだ残っていることから問題ないかと考え直した。何となく靴ベラを使ってみたけれど、実際にこの靴には踵を履き潰した様子など無い。実際にこれが、僕の普段の靴の履き方で合っていたようだ。確証こそ、無いけれど。
扉の先には黒い門があった。門の両脇には、茎をすくすくと伸ばしている途中の草花が花壇に根を生やしている。園芸が両親の、週末の細やかな趣味らしかった。この前埋めたばかりなのに、すくすく伸びて可愛らしいと、母親は笑っていたっけな。
その言葉をいつ聞いたものかと思い返す。記憶喪失を患ってからのこの短い期間に、そんな軽口を叩くような機会があっただろうか。自覚すると共に、脳を抉るような激痛が、また。なるほどこれは、かつての俺の記憶だったようだ。痛みに呻けども、かつての自分に近づけたような気がして、少しだけ嬉しかった。
四月の朝、冷たい空気が頬を撫でた。数歩踏み出して日向へ。温かく、柔らかな印象の日差しに当てられるとより一層に冷たい風を実感する。春一番が吹くと言うだけあって、この時期は少し風が強い、そんな感慨を胸にして。光に匂いなんてついている訳が無いのに、どうしてだか俺は春の匂いをその陽光に感じてしまった。
「ね、秀也」
一足先に外へと出た俺が振り返れば、スマートフォンを構えた母の姿。
「時間、取らせないから。ちょっと門の外に出たら立ってみて」
二年生となって、初登校。その記念に写真を残したいのだろう。だから俺は、いいよと短く答えて、顔を綻ばせる。そんな事で喜んでくれるなら、十枚でも二十枚でも、好きにとってくれて構わない。
街並みに咲き誇る花びらと同じ、桜色のスマートフォンを手にして、彼女は俺の前に立つ。自宅を背にして俺は、心ばかりのピースサインを顔の横に並べて、シャッターの切られる音を二、三度その耳に。撮った写真を確認し、ぶれていないかを確認したら彼女は、良しと言ってスマートフォンを手提げかばんの中に入れた。
「じゃ、行こう」
「そうね。先輩なんだから、秀也が遅れちゃ駄目よね」
学校へと向けて、歩き出す。十六年という歳月をかけて暮らしてきた、家の周りの景色さえ今の俺には新鮮だ。近くのコンビニやスーパーまでの経路はもう覚えたが、それでも俺には引っ越してきたばかりの土地に思える。引っ越しなどした試しはないけど、どうせこのようなものだろう。
とは言っても、この辺りは少し栄えた住宅地になっている程度だ。東京や横浜とは訳が違う。K
歩く道すがらも俺は、これから俺が通う紅葉谷学園について母親に色々と尋ねてみる。彼女は、こうやって説明するのも何だか懐かしいわねと、上品な笑みを漏らした。別に、お金があるからだと偏見を持つつもりはないが、彼女のその声に、この人も育ちがよさそうだ、などと考えたりして。
「紅葉谷はね、県で一番の進学校よ。公立の高校で、生徒は一学年三百二十人。普通科だけで成り立っているわ」
よくそんな所に入学できたものだなと、俺は中学校時代の自分の努力に感心した。きっと当時の楓 秀也その人は、さぞかし努力したに違いない。誰のために頑張っていたのだろうな。親のためかな、それとも、自分のためか。偏差値の高い高校へと進んだ彼は、一体何になることを目標に生きていたのだろうか。
「学校の掲げる校風は主に二つ、『文武両道』と『生徒の自主性』ね」
勉学に優れていることなど、わざわざ自慢するような事ではない。できて当然なのだから、授業さえきちんと受ければ優秀で当たり前なのだから。高校で学ぶべきは学問の知識だけではない、クラスという共同体と、そして部活動と言う場、それらの中で他者との関わり方を学ぶべきだという理念がまず、文武両道に現れている。これは運動部に入れと言う訳ではなく、吹奏楽部やオーケストラ部と言った文化的な活動に力を注ぐ生徒も多いのだとか。
生徒の自主性は、学校行事の際に色濃く出るらしい。というのも紅葉谷は、さまざまな学校行事を、教師と手を取り合って生徒会が運営するらしい。これはきちんと覚えておかないとなと、頭の中のメモ帳にきちんと書き込んでおく。何せ自分の仕事なのだから。
「直近で言うと、ゴールデンウィーク明けの球技大会ね」
二、三年生にとっては新クラス、一年生にとっては全てが新しい環境における、最初の一大イベント。それが球技大会なのだと彼女は言う。クラス対抗で、男子はバスケットボール、女子はバレーボールで競い合い、優勝したクラスには小さなトロフィーが贈られる。団体競技であるため連携を取る中で話すきっかけになることもあるし、同じクラスの者を応援して、されて、仲良くなることもある。
「漫画とかなら何人かふけちゃいそうな行事だ」
「あら、そんなことは無いわよ」
「どうして?」
球技大会だなんて疲れるもの、やってられるかと投げ出すような生徒が数人いてもおかしくないだろうに。そんなこと無いと告げる母の瞳に、嘘偽りの色は見られなかった。
「だってそんな子は、紅葉谷に受からないもの」
生まれつき頭のいい子が、品行方正に努力してようやっと入るのが紅葉谷だと彼女は言う。進学実績が高いに関わらず、授業のカリキュラムが良心的で、部活動まで自由にさせてくれる紅葉谷は、勉強に励む中学生から見ると憧れのようだ。
他の進学校は多くの場合、時間割が十講目まで刻まれる様なものであったりするらしい。楽しい事として部活に時間を捧げつつ、恥じ入るところなどどこにも無いほど有名大学への生徒輩出数を誇るのは、この近辺において紅葉谷をおいて他にはない。それゆえ、誰しも努力するし、折角入ったのだからとあらゆる行事は満喫する。
「よく言うじゃない。進学校ほど校則は緩いし、教師も束縛しないって。秀也達が真面目だからよ」
そんなものかと、何だか言いくるめられたような気になる。何せ俺は、他の生徒の人柄を何一つ知らない。知っているのは、見舞いに訪れた副会長くらいのものであった。記憶喪失だから、かつての友人が来ても互いに困惑するだけだと、両親が面会を断ってくれていたらしい。実際のところ、彼らは自分たちが俺とできるだけ接していたいという側面もあったのだろう。しかしその配慮は、やはり俺にとって喜ばしいものだった。君は誰だと尋ねて悲しむ顔は、両親を名乗る二人のそれだけで、充分に胸が痛かった。
そんな俺の頭を、母が撫でる。上からくしゃりと力を受けて、視界に前髪が入り込んだ。陽の光を受けているせいか、はちみつ色に輝いているように見える。
「だからこそ、貴方のこれだって受け入れられているのよ」
生まれつき俺は、黒い色素を産生しにくい体質らしい。両親はそのようなことが特に無かったようだが、もう死んでしまった祖父が同じような体質だったとか。それゆえ俺は瞳の色も、髪の色も、何ならすね毛だってそうなのだけれど、明るい茶の色をしていた。それが理由で小学校の頃は疎外されたこともあるようだが、全く記憶に無い。
ただ、髪を染めていても何も咎められない校風だからこそ、俺のこの髪はわざわざ黒く染めずとも許されている、らしい。
「だから、皆に楽しんでもらえるように、これから頑張らなきゃね」
頑張れ生徒会長。彼女は頭を撫でるのを止めて、そのまま今度は俺の背中を叩いた。乾いた音が大きく響いたと言うに、痛くなんて無かった。むしろ優しく背中を押して貰えたように思う。
その背を押してくれる手の温もりが、ずっと見守ってくれそうな眼差しが、何だかこそばゆくて。周囲の様子を窺うようにして俺は、目を背けてしまった。
「頑張らなきゃな」
なんて一人、復唱してみたりなんかした。
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