これは、再開の物語

狒牙

第1話


 俺はこれから、全く知りもしない高校の生徒会長として過ごしていく。どういった状況なんだろうなと、鏡に映った自分へと問いかけた。君は、何を想って生徒会長に立候補なんてしたんだい。問いかけても、答えてくれない自分の写し絵。曖昧な笑顔を浮かべるだけで考えようともしてくれなかった。腹立たしいなと思えども、何も答えられないのも、微妙な苦笑を浮かべているのも、全て自分自身だ。

 机の上に広がった大学ノートに、丁寧な字で記された、かえで 秀也しゅうやの三文字。見覚えなんて全く無いのに、どこか懐かしい言葉の響き。俺の名前、らしかった。ズキズキと、抜糸したばかりの頭の怪我が痛んだ。もう傷跡すらほとんど残っていないというのに、古傷が疼く。俺の知らない言葉に、思い出に、声に、旧懐を感じる度に襲い来る痛み。まったく嫌になるなと、眉をひそめた。早いところ着替えてしまおう。

 歯も洗い終えたので、洗面所を後にした。朝食の珈琲の余韻などすっかり消え失せて、歯磨き粉のミントの匂いだけが口の中に。息を吸って、吐く度に、鼻腔を涼やかな風が突き抜けた。けれどもそれとは裏腹に、俺の脳裏は曇るばかりだ。透明感なんて、何一つありやしない。

 着替えようと自室へ向かう。なぜだか俺の足は階段の上へと向かおうとしていた。自室は一階にあると言うのに。同時に、ズキリと悲鳴を上げる傷跡。なるほどどうやら、記憶を失う前は俺の部屋は二階にあったらしい。着替えるという行為に、段を登るという動作が密接に結びついていたのだろう。

 先月、三月の十四日に俺は事故で記憶を失った。学校の階段から転落して、全身と、そして頭とを強く打ち付けた。理由は俺自身覚えていない、それも当然だ。足を踏み外したとしても、それは頭を打ち付けるよりも前の記憶なのだから。全てを忘れた後に目が覚めた俺が、初めて目にした日付は、2014年の三月十七日だった。全身ところどころに打撲、擦り傷があれども、それ以外に目立った外傷は頭しか無かったらしい。その頭頂部の傷こそが何よりも問題だったとはいえ、一命をとりとめた以上、骨折などの重篤な、遠い先まで後遺症が残るような傷を負わなかったのは救いと言うべきだろうか。

 もう一つ救いがあるとしたら、すぐに応急手当をして通報してくれた生徒がいたらしいことだ。彼女は階下にいたせいで、どうして俺が落ちたのかなど知りはしないようだった。どうしてだかそれを口にするとき、彼女の目が泳いでいた。だから、知らないと言う言葉も嘘なのかもしれない。けれども、助けてくれた恩人を疑うような真似はできなかった。

 もしかしたら誰かが故意に突き飛ばしたのかもしれないと、警察まで動いたらしい。どういった捜査をしていたのか、病院にずっと閉じ込められていた俺には分からないが、まさに俺が階段を鞭打ちになったであろう時刻にその周囲に居合わせたのは、例の女生徒一人だけと言う話だ。

 その時期と言えば、紅葉谷もみじだに学園がくえんは、すなわち俺が通っている高校は春休みで、部活動でも無ければそうそう学校には来ない。教室が立ち並ぶ棟の周囲に誰もいないのは、当然と言えば当然だった。何せ文科系の部活動は芸術の授業を行うための別棟で行われているし、部室棟はその別棟のさらに向こう側。つまるところ、俺が事故を起こしたところ、本棟というのは長期休暇中に生徒が立ち寄らない場所なのだ。教員も、一階の職員室にしか用がない。それゆえ、上の階の出来事など誰も知りはしなかった。

 そんな時期に、そんな本棟に、どうして俺と第一発見者の女生徒がいたかと言うのには訳があるようだった。本棟の二階、その一番奥に生徒会室がある。生徒会長である俺と、副会長を名乗った彼女が雑務をしていたらしい。わざわざ夕方に仕事をしていたのは、おそらく俺が所属する陸上部がその日、一時から三時まで練習をしていたからだろう。その後、来るべき新入生を迎える日の準備に、俺と副会長とは陽が沈む中黙々と作業をしていたそうだ。

 それで、帰ろうとして生徒会室の鍵を返しに、彼女だけが一階に降りていたらしい。その後「おい」と叫ぶ俺の声がこだまして、肉を床に何度も叩きつける大きな音。教員室から駆け付ければ、頭から血を流し、意識を失った俺が倒れていた、とのことだ。

 それにしても、過保護だよなと照れくささを隠すように呟いて、新しくなった自室へと戻った。俺が推理するに、階段から転げ落ちた俺のことを考えて、両親は元々二階にあったであろう俺の部屋を一階へと引っ越させたのだろう。急いで家具を移動させたのか、床板はところどころ、日焼けしていない部分が見えていた。おそらくつい先日まで、この部屋の間取りは今とは全く異なっていたはずだ。カーペットも元々敷かれていないような書斎でもあったのだろう。何となく、紙の古びた匂いがした。そのような思い出があるということは、きっと俺も家族も、読書を好む家系なのだろう。

 記憶を失ってしまった。けれども両親はそんな俺が不自由しないようにと、そんな事にまで気を配ってくれていた。だからこそ、二人の事を想うと申し訳なさがこみ上げる。今現在の俺にとって、彼と彼女とは父と母を自称する、人のいい大人達にしか見えないからだ。強いて挙げるならば、彼らから注がれる愛情だけが、自分が二人の息子であるという証明のように思えた。

 カーテンの隙間から朝日が差し込んでいた。このままでは薄暗いなと、俺はザっと音を立ててレールを走らせつつ、目いっぱいに陽の光を浴びた。差し込んだ日差しに、急に部屋が明るくなる。

 クローゼットを開けて、ピシッと布の張った学ランと、カッターシャツとを取り出した。金色に煌くボタンと、襟につける校章とには、この学園のシンボルである紅葉が彫られている。それと同時に、襟には二本線の入ったもう一つのバッジ。これは、自分が第二学年であることを指すらしい。

 白いシャツに袖を通して、今度はズボンを探す。すぐに見つかったので今度はそちらを履き、最後に真っ黒な学ランを着込んだ。今日は新年度初日で、本来ならば俺の学年は行かなくても構わない。けれども俺は生徒会長らしく、入学式に顔を出せるならば新入生へと挨拶をさせてもらえるらしい。

 最初、もう既に決まっていたらしい、今年の担任が見舞いにきた際、生徒会長を今の副会長に引き継ぐかと尋ねられた。しかし俺はその申し出を断った。なぜなのかは、当時の自分に聞かなければ分からないが、彼にも何か理由があって生徒会長を志したのかもしれない。かつての俺自身を裏切りたくない、その一念で俺は、今までの記憶を失ったままでもその役目を全うすると決めた。

 特に今日必要な荷物は存在しない。とりあえず俺は、エナメルの鞄にクリアファイルと筆記用具、それとランニングシューズとを入れた。入学式が終わった後に、陸上部の部活動がある。おおよそ、三週間ぶりの部活動になるだろうか。今日の日付は四月三日、大体間違いではない。スカスカの鞄を持ち上げ、肩にかける。中身は全然詰まっていないのに、どうしてだかその鞄は、地蔵でも持ち上げたのかと感じるほどに、俺の身にずしりと圧し掛かってきた。

 記憶の重みとでも言えばいいかな。息を大きく吸って、ゆっくりと吐き出した。やけにかしこまった膝を殴り、一歩目を踏み出した。ドアの方へと歩み寄る。錆び付いたのかと勘違いするほどに、そのドアノブが堅く感じられてならなかった。自室に入る際にはあんなに簡単に開いた扉があまりに固い。

 しっかりしろ。自分を叱咤した。向こうでは母親を待たせてしまっている。通う高校は自宅から自転車で十分程度のところにあるが、その道のりを忘れてしまったが故に今日だけは母親と二人で歩いていくことになっていた。

 彼女やその夫との思い出を失っただけでも親不孝者だというのに、これ以上迷惑をかけてなるものか。震える指先に力を込めた。何とかドアノブが回る。開くとそこには、ただの廊下が広がっていた。向こうから来る人と、こちらから行く人、それらが辛うじてすれ違う程度しかない幅。

 だというのに、そこすら未知の世界だからか、俺の目には恐ろしく広く見えた。この部屋の敷居が、赤茶色の地面に浮かんだ、白線のように思えた。四月だと言うのに、じりじりと照り付ける夏の日差しに焼かれているような錯覚。それと同時にまた、俺を苛ませる鋭い頭痛。

 なるほど今の景色は、錯覚は、陸上に関するものなのだろう。とすればこの敷居こそが、生まれ変わった楓 秀也の、スタートラインという訳か。二度目の人生。きっとこれは、再開の物語。

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