6-4 また引越
食堂のドアーを開けると、さゆりさんと沢村さんが、食堂と台所との間にある引き戸のところで、おしゃべりをしていた。
その引き戸、いつも、開けっぱなし。
最初、そこは通路で、戸があるなんて思わなかった。
おれ、2人と『おはようございます』の挨拶。
挨拶を終えると、沢村さんは、朝食の準備のためにすぐに台所へ。
座席の方に動きながら、さゆりさん、チラッとあやかさんの顔を覗き込んだ。
それを感じて、あやかさん、椅子に座りながら、横のさゆりさんを見て、
「結婚、決めたよ」
と、ニッと笑って、超簡潔な報告。
2人の間では、それで、すべて通じるようだ。
さゆりさん、なんかホッとした感じで、
「ああ、それはおめでとうございます…。
よかったですね…」
と、お祝いの言葉を言ったあと、微笑んで、
「でも…、やっと言えたんですね…」
すると、あやかさん、またニッと笑って、
「ううん、リュウが言ってくれたんだよ」
なんだか、すごくうれしそう。
おれまで、うれしくなった感じ。
頑張って、言って、よかった。
「あら、そうだったんですか…。
へぇ~…、そうだったんですね…」
と、さゆりさん、おれの方を見て、
「リュウさん、…」
で、さゆりさん、言葉、終わってしまった。
両手の人差し指で、目頭を押さえ、下を向いて、
「よかった…。ホッとしました…」
と、さゆりさん、涙声で呟いた。
やっぱり、あやかさんの気持ち、ちゃんと分かっていなかったの、おれだけだったのかもしれないな…。
なんか、あやかさんに、つらい思いをさせてすまなかったなという気持ちが、急に膨らんだ。
そして、不思議なことに、それが、
うん、必ず、守るぞ、という気分。
おれの力で、どうしたらいいのか…。
何かしらはできるはず、さて、何ができるか…。
これから、一生懸命に考えてみよう。
前に話のあった、豚足を買ってきて、骨を抜き取る練習だって、
もし、それしかないとなったら、それだってやってやるんだ。
と、いうくらいの、ものすごい気持ちだ。
でも、運ばれてきた朝食を前にして、まぶたに浮かび上がってきた豚足の画像は、すぐに消去した。
せっかくのうまそうなハムと目玉焼きを台無しにしたくはない。
ポタージュのいい香り。
正面を見ると、あやかさんと目が合った。
あやかさん、ニコッと、優しい微笑み。
おれ、うれしくて、また、照れくさくって、目をつぶって、頭をポリポリ掻いた。
「どうせ、同じことなんだから、すぐに、一緒に暮らし始めちゃった方がいいわよ」
と、朝食後、さゆりさんに言われた。
ちなみに、さゆりさん、バツイチだそうで、28歳のときに離婚したとのこと。
夫婦で仕事が忙しく、特にさゆりさんが不規則で、なかなか一緒の時間がとれなかったらしい。
でも、さゆりさん、『それだけじゃないんだけれどね…』と言っていた。
詳しいことは、あやかさんも知らない。
あやかさん、そういうことには、『興味なし』を貫くんだそうだ。
さゆりさん、あやかさんと会ったのは、離婚してまもなくのこと。
そういう時期だったから、今のようなパターンでのあやかさんとの仕事、始めることができたんだと思う。
でも、『どうせ、同じこと』って、どういうことを言ってるんだろう…。
と、瞬間、思ったけれど、たぶん、察しのいいさゆりさんのことだから、朝の応接室でのこと、すべてお見通しの上で言ってるんだろうな…。
だから、ちょっと照れるけれど、まあ、そういう意味では『どうせ、同じこと』、確かにその通りなんですけれど…。
でも、他の人…、美枝ちゃんなんかに対しても、それが通じるのかな、なんて、考え始めたら、
「そうね、そうしちゃおうか?」
と、あやかさんも乗り気。
おれは、まあ、反対というほどのことではなく…、なんて、格好つけたこと言ってもしょうがないな。
まあ、本当のところは、うれしくて、うれしくて、願ってもないことなんですけれどねぇ。
ということで、すぐに、おれの引越となった。
引越と言っても、段ボール箱、大3個と小3個。
大きめな台車を静川さんに出してもらって、ガラガラと、別邸までとりに行った。
これだと、1回で運べそうだ。
別邸の玄関で、美枝ちゃんと会った。
ガラガラガラと、台車の音が響いていたらしい。
美枝ちゃん、事務室に行こうとしていたのをやめて、玄関から顔を出した。
「やあ、おはようさん」
おれ、明るい声で挨拶。
「ああ、おはよう…。引越、するの?」
美枝ちゃん、台車を見ただけで、すぐに分かったみたい。
「ええ、そうすることにしました」
「ふ~ん…、ねえ、どっちから言い出したの?」
いきなり、美枝ちゃん、興味津々といった顔つきで聞いてきた。
それも、ものすごい直球。
そうなったから、この引越、と、すぐに読めたようだ。
でも、やはり、どっちが言い出してもおかしくない状況、と思っていたということなんだろうな。
だから、あやかさんが、おれのこと、想っていてくれたのに、美枝ちゃん、気が付いていたということ。
さっき、おれが考えたように、あやかさんのこと、心配してくれていたということ。
感謝の気持ちもあって、ここは素直に答えることにした。
「けさ、おれから、あやかさんに、結婚、申し込みました」
ちょっと照れくさかったけれど、一言ひとこと、はっきりと言った。
「そうなの…、うん、いいねぇ…。
それで、もう、引越なら、すべてうまくいったということだね。
おめでとうございます」
「あっ、ありがとうございます」
「ゴミなんかあっても、そのままでいいよ。
荷物だけ持っていって。
あとは、こっちでやるから」
「あっ、でも、それは、申し訳ないから、掃除はおれがやるよ」
「いいから、荷物だけ持って、さっさと行きなよ。
これから、いろいろな段取り、あるんでしょう?」
「ええ、まあ、荷物を運んだら…」
「ほら、それなら、さっさとやって、お嬢様、楽にしてあげなよ」
「えっ、楽に?」
「そうか…。知るわけないか…。
あなたに会う前のお嬢様はね、もっと、動きが自由で、早かったんだよ。
このところ、どうも、ぎこちなくてね…」
「えっ?そうだったんですか?」
すごい驚き。
そんなことあるのか、と思うほど、なんだか、おれの位置付け、自分の中で急に高くなった感じ。
うん、それ、うぬぼれとか、そういうもんじゃなくて…、なんか、あやかさんに、想ってもらっていたということが確信できて、自信が湧いてきて、同時にすごく大きな喜びに包まれた感じ…、なのかな…。
「まあ、だから、掃除なんかはこっちでやっとくから、荷物だけ持って、早く行ってあげなよ」
「分かりました。ありがとうございます」
ということで、台車を玄関に置いて、2階に。
3泊だけしかしていないけれど、ここを出るんだな…、という気分。
すぐに、整理ダンスの引き出しのものを、段ボール箱に入れ、歯ブラシなんかも用意してきたビニール袋に入れて段ボール箱に突っ込む。
枕カバーの上に、さらに掛けていたバスタオルも畳んで入れて、終わり。
あとは何にもない。
大きい段ボール箱は重いので、ひとつずつ、小さいのは、2箱重ねて運び、あと、残ったのは小さいのひとつ。
もう一度、部屋全体を点検して、小さい箱を持って、玄関に降りた。
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