第6章 相棒の完成
6-1 プシューッ
別邸に戻り、玄関の鍵を閉めて、階段に向かおうとしたら、左の事務室から、美枝ちゃんが出てきた。
美枝ちゃんが、事務室の鍵をかけるのを待って、挨拶。
「やあ、今晩は」
「ああ、今晩は…。ずいぶん遅いね」
と、美枝ちゃん。
「うん、あやかさんと、話が弾んじゃってね…」
そう言ったおれ、ちょっとうれしそうな顔をしていたのかもしれないな。
実際、うんと楽しかったから。
でも、それに対して、美枝ちゃん。
「ふ~ん、それでも帰ってきたんだ…」
と、半ば非難するような、半ばからかうような雰囲気で。
階段を上りながらのことで、おれは、美枝ちゃんの斜めうしろ。
で、顔はよく見えない。
言葉に、非難されたような臭いがあるところが気になった。
そもそも、どういう意味なんだろう…、
そう思ったとき、美枝ちゃん、一呼吸あけて、ポツリと、もう一言。
「泊まってくればよかったのに…」
今度は、ちょっと冷たい空気のような響きをもっていて、『わたしなら、泊まってくるよ』と言われた感じ。
「えっ?」
でも、何を言ってるんだろう?
泊まるって…、ええっ?どこに?
頭が、その辺、ぐるぐる回っている間に、もう2階。
美枝ちゃん、チラッとおれを見て、ニッと笑い、
「フッ、やれやれ…、まだまだなんだねぇ…。
それじゃ、おやすみ」
かわいらしい顔なんだけれど、妙に大人っぽい感じでそう言った。
なんだか、あやかさんに言われた『お子ちゃまだね』を、もう一度言われたような、そんな気分。
美枝ちゃん、向こうを向いたまま、バイバイとおれに右手を振って、おれの部屋とは反対の方にある美枝ちゃんの部屋へと、だから、2階の廊下を右に向かって歩いて行った。
「ああ、おやすみなさい」
と、美枝ちゃんの背中に向かって言ったけれど…。
でも、今の、なんだったんだろう。
美枝ちゃんの言ったことの意味、さっぱりわからない。
どうして、やれやれ、なんだろう…。
で、何が、まだまだなんだろう…。
う~ん…?
わかんない…。
こんなの、いきなりで、わかるわけありませんよねぇ…。
部屋に入って、椅子に座ると、あたりまえのことだけれど、独りぼっち。
急に、いろんなことが、プシューッと、しぼんできた感じになっちゃった。
なんなんだろう、これ…。
風呂を焚くのも面倒になってきて、シャワーを浴びた。
どうも、気持ちは、プシューのまんま。
さっきまで、あんなに楽しかったのに…。
今晩で、この部屋での3泊目だ。
でも、引っ越しの荷物の段ボール箱、来たときのまま、部屋の隅に積んである。
まだ、大きな方と小さな方、それぞれ一番上の1箱ずつしかあけていない。
すぐに必要なものを入れた大と小、それぞれの段ボール箱に、『すぐにあける』と大きく書いておいたら、どちらも一番上に置いてくれていたので。
歯ブラシやタオルと、下着、パジャマ、それに今頃着る服などが入っている。
冷蔵庫の中も、最初の夜、だから、一昨日になるのかな、あやかさんのうちからの帰りに、吉野さんが持たせてくれた、缶ビールが5本はいっているだけ。
その時、吉野さん、半ダースのパックをくれたんだけれど、昨夜1本飲んだから、残りは5本と言うこと。
冷蔵庫の中、あとは何もない。
製氷機に水を入れることもしていない。
あとは、来たときと、何も変わっていない…のかな?
そうか、備え付けの整理ダンスに、洗濯した下着なんかを入れたな。
あとは、くずかごに、ゴミが少し溜まっただけか…。
その、ゴミの中心は、段ボール箱を開けたときのガムテープなんだけれど。
まあ、なんでこうなんだろうねぇ…と、言うとですねぇ…、まあ、そもそも、この部屋にいる時間が少ないからなんだと思うんですよ、おれ…、と、寂しいもんで、頭の中での独り言を始める。
朝起きて、口をすすぎ、着替えて部屋を出る。
あやかさんのうちに行き、朝食をごちそうになり、活動開始。
一日が過ぎ、ビール付きの夕食を食べ、その後に、コーヒーを飲みながら、しばらくおしゃべりをし、やっと部屋に戻ってくる。
山を走ったあとだって、昨日からは体育館でシャワーを浴びて、この部屋まで戻ってはいない。
そうそう、体育館の更衣室には、替えの下着まで、用意してくれることになったんですよ。
2日目の朝にお手伝いさんの沢村さんに言われ、遠慮したんだけれど、もうそうなっているとのことで、ありがたく、それに甘んじることになったもの。
だから、今日だって、朝、あやかさんのうちで朝食を食べ、それから午前中、山を走ったあとは、体育館でシャワーを浴び、そこで着替えて、また、あやかさんのうちに、なんだよな…。
そこで昼飯を食べ、あやかさんの話を聞きと…、う~ん、やっぱり、ほとんど、ここにはいないんだ…。
美枝ちゃんの言うように、向こうに泊めてもらったりでもしたら…、
あれ?この部屋、おれ、必要ないのかも…。
でもな…、向こうに泊めてもらうだなんて…。
あっ、ダメだよ…。
危うく、変な妄想に沈んでしまうところだった。
こんなこと考えていると、いろんな妄想が湧いてきてしまうんで、困るんだな…。
もともと、おれ、妄想の中だけでも生きていけるくらい、妄想名人なんですよ。
でもな…、不思議でもあるんだよね。
ただ、遠くから見ていればよかった、あのメチャきれいな人が、4日目で、大きな事件があって、おれの中では『あやかさん』と言う名を持つようになった。
そして、ぐっと近い人になったと感じるのと同時に、まあ、おれの願望も、妄想も、極限知らずということになってしまって…。
でもな…、おれの願望は、なんか、デパートで遠くから見ていた最初から、『叶わぬ願望』という、位置付けだったからな…。
その叶わぬ願望を前提にした、叶わぬ妄想…。
叶わぬ、かなわぬと、自分に言い聞かせていたので…、それでいて、現実では、かなり近い人になってきたもんで…、ひょっとしたら、叶うんじゃないの、とか…。
そうなんだよな…。
そんな期待も出てきて…、でもやっぱりな…、となって、わけのわからない気分で…、うまく整理もできず、と言うか、あえて整理しようともしないで、混乱したままにして、まあ、それで、プシューッとなってるんだろうな…。
プシューッか…、そうか、ちょっと、その気分を変えるために、冷蔵庫にはいっている缶ビール、プシューッとやりましょうかねぇ。
で、テーブルまで持ってきて、プシューッとやってビールを一口飲んだとき、さっきの、別れ際の、あやかさんの顔が浮かんだ。
ほんの一瞬だったんだけれど、あの表情…、やたらとおれの心を騒がす。
おれ、しばらく、願望の混じった妄想に滑り込む…。
で、妄想の最中、いきなり現実に戻り、そして考えた。
可能性だけでも、あやかさんに聞いてみようか、と。
もちろん、今すぐじゃなくてもいいんですけれど、いつか、時間が経って、もう少し馴染んで、そしておれにも、もう少し力が付いたと分かったら、あの、おれと一緒になるなんてこと、可能性としてでもいいんですけれど、考えていただいても、よろしいでしょうか?…とかなんとか…。
あれ?これって…、ずいぶんと回りくどいけれど、本気みたいだよ、おれ…。
いわゆる、好きになってしまったという、そういうことなのかもしれないよ…。
じゃないんだよ、もう本気になってるんだよ、しっかりしろよ!
でもな…、そんな可能性は、ないと、思っていたのにな…。
いや、ないじゃなくて、無意識に、考えちゃいけない、と思っていたのかもしれないな…、自分が傷つくのが恐くって、さ。
そこまで考えて、急に、しら~っと感じるほどに冷静になった自分がいて、そして客観的になった気分で思った。
まあ、おれのことだからな、いま、こんなこと考えていたって、明日、実際に、あやかさんに会ってみると、なかなか言い出せないんだろうな…。
言おう、言おうと思っているうちに、あっという間に、1年、2年が経っていたなんて…、そんな感じ、濃厚だよ、まったく…。
そうだよな…、嫌な顔されるの、恐いもんな…。
軽くいなされるの…、もっとつらいかも…。
笑われでもしたら…、いや、それはないな。
そんなことは、あやかさん、絶対にしないな…、たぶん…。
そんな人ではないと思うから…、あ~あ…。
うん?でも…、ダメなときって、どうなるんだろう…。
こっちのパターンでは、今まで、妄想したことも、考えたこともなかったなぁ…。
そりゃぁそうだよね、そんな妄想、楽しくないもんね。
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