4-6 ここでもいい
そのあと、まず、丘の上、ススキの原の周辺を歩き回り、続いて寮から見て奥の方に降りてみた。
降りるとは言っても、全体的に低い丘なので、たいして急な坂はないのだが、こちらの道はあまり使われておらず、雑木林の中は枝が道に張り出していたり、笹で塞がっていたりして、歩きにくかった。
由之助は、すずが歩きやすいように、
鉈や鎌を使うときには、由之助は、アヤとの距離をとったが、動きそのものは、軽く、構えのないものだった。
アヤは、その動きをじっと見守った。
裏の境に沿った道に出て、梅花寮から見て右の方に回り、そこから、また雑木林の中の、別の道を通って丘の上に出た。
上からは、今度は寮から見て左の方に歩き、途中で左に折れて、梅花寮の裏に通じる道に出た。
簡単だが丘全体にわたって一通り見たことになる。
さほど大きな丘ではなかったが、梅花寮に降りてきたのは、秋の日が沈んで、空が赤く色づいた頃だった。
一日中歩き回って、すずとしてはかなり疲れたのだが、アヤは、大して疲れていないようだった。
アヤは、あっちこっちと走り回り、すずの倍くらいは動いていたはずだ。
このアヤの動きを見ていて、すずは、やはりアヤの力を伸ばすには、今までと同じに過ごしていてはいけないという思いを強くした。
どうしたらよいのか。
やはり…。
まず、すずとアヤがはいった。
狭いが、2人だけで入る風呂。
アヤは楽しかった。
笑い声が、外まで響いた。
その後由之助がはいり、夕食となった。
夕食は、保蔵の妻、
川魚の煮付けと、茄子など取れたての野菜での料理、汁物もあり、味はやや濃いが、とてもうまく、充実した夕食であった。
その夜、アヤは、すずと、一部屋で並んで寝た。
梅花寮の一番奥にある八畳の部屋。
包み込まれるような虫の声に、アヤは驚いた。
明かりを消し、布団に入ってすぐに、アヤがすずに言った。
「おかあさん…、ここでもいいよ」
「えっ?…何が?」
すずは、何を言われたのか、わからなかった。
「うちで、お父さんと心配していたじゃない…。
わたしのこと、これからどうするかって…。
そのことだよ」
「えっ? アヤ…。
…知ってたのかい?」
「それはね…、アヤだって、わかるよ。
あのあと、夜、いつもお父さんと話、してたじゃない…。
話していること、ちょっとは聞こえるし…」
あのあととは、アヤが襲われたあとのこと。
子どもたちを寝かしつけ、隣の茶の間で、すずは、毎晩のように、鉄二と話し合っていた。
あの力を持った娘、アヤを、どのように育てるのか?
野を駆け、山を越え、木を渡り、充分に体を動かす…、動かしきる。
浅草では、むずかしいのではないか?
ならば、どうする?
話題が行ったり来たりしながら、すずは、鉄二と話し合った。
その時、襖1枚向こうの部屋で、アヤや弟たちは、すっかり寝ているものだとばかり思っていた。
「時々会いに来てくれれば…、アヤ…、我慢できるよ」
それを聞いて、すずの目に涙が溢れた。
アヤはアヤなりに考えていた。
まず、あの時のことを整理した。
襲われたときの動き、初め、自然に反応したことが驚きだったが、次の日、不良たちは、骨を折る怪我をしていたことがわかった。
あれで、どうして、骨が折れたのだろう。
前に、父と遊んだときに、あのくらいの力で、父の腕を叩くことなど、よくあることだった。
手が絡み、それを支えに体をねじっても、逆に、その腕で、ヒョイと持ち上げられて、それで終わりだ。
いや、それが楽しく、その動きが遊びだった。
そうだ、そんな動きは何度かしたことがあった。
今回もそれと同じような動きだったはずなのだが、その時は、木が砕けるような音がした。
あの時の、嫌な感触はしばらく残った。
野を駆け、山を登り、木々を渡って『体を動かしきる』とは、具体的にはどのようなことなのか、よくわからなかったが、めいっぱいに動くことを言ってることだけは理解できた。
自分は、『神宿る目』を持っているから、それをしなくてはならないという。
母は深く心配していた。
父も、母も、自分の先を心配しての悩み、ということは、10歳のアヤでも、よくわかった。
そして今日、丘を歩き回って、『野を駆け、山を登り、木々を渡る』ことが、どのようなことだか、アヤなりに理解はできた。
特に、雑木林の中で上を見上げたとき、ふと、『木々を渡る』自分の姿が目に浮かんだ。
何だ、こう言うことだったのか、と、その時、アヤは思った。
そうだ、だから、母は、ここを見に来たのだ。
どのような動きをすればいいのか、見に来たのだ。
うちの周りには、こんなところはない。
「よしにい(由兄)に、一緒に動いてもらうから…。
アヤ、大丈夫だよ、お母さん…」
すずは、アヤを抱き寄せ、しっかり抱いたまま、むせび泣いていた。
#
翌日の朝食も、鶴子が準備してくれていた。
帰り際、すずは、お礼にと、浅草で買ってきた、粋な柄の手ぬぐいを2本ずつ、保蔵と鶴子に渡した。
2人は、もらった手ぬぐいを広げ、大喜びで、見慣れない柄について褒めていた。
あげたすずが、うれしくなるほどの喜びようだった。
帰りは、少し遠回りになるが、入間川に沿ってしばらく歩き、2時間半ほどかけて川越の櫻谷の家に着いた。
相変わらず、歩きはすずのペース。
アヤは、走っては眺め、一緒に歩いては由之助に質問し、また走るといった歩き方だった。
アヤにとっては、道中の2時間半が、あっという間に過ぎていく。
由之助とすずが追いつくと、アヤは『ねえ、よしにい…』と、最初に、必ず由之助の名を呼んだ。
ふと、それにすずが気づいた。
初め、すずは、どういうことなのかと思ったが、すぐに、アヤは、この状況に、一生懸命に馴染もうとしているのだろうと気が付いた。
アヤは、すでに、心の整理を着けているのだと言うことをすずは理解し、自分としても、強い心を持って決心すべき時が来ていることを悟った。
その日の午後、すずは、アヤと話をした。
川越で暮らすと言うこと、また、その場合、こうに、櫻谷家に、預ける形となっていいのかどうかということを。
とはいえ、相手は、10歳の娘である。
すずが話すことを、アヤにどこまで理解してもらえているのだろうか、アヤは、本当は何を言いたいのだろうか、この話、どこまでわかり合えているのだろうか、と気にしながらの会話であった。
すずは、アヤの主張を、聞き損じないように、細心の注意を払った。
そして、その夜、すずは、アヤを同席させて、こうと善之助夫妻に話をした。
すずは、まず、結論から話した。
アヤを預かってもらい、梅花寮を使って、うまく育てて欲しいと頼んだのだ。
また、すずは、この結論になる可能性については、鉄二とも充分話し合い、鉄二はすべて了承していることを、申し添えた。
善之助は、そのような場合も想定して、いろいろ考えていた。
ただ、少しでもすずやアヤに負担を掛けるようなことになってはいけないと、自分から先に言うことは、強く押さえていた。
初めに、すずから、この結論を述べてもらって、話が楽になった。
しかし、それ以上に、孫を思うこうの気持ちは強かった。
アヤが、川越で暮らす話が少し進んだところで、こうは、自分が梅花寮に住んで、アヤの面倒を見ることを提案した。
誰に、何の異論もあるはずがなかった。
ただ、善之助は、由之助を着けることを考え、夜分ではあったが、女中を使って由之助を呼んだ。
善之助は、由之助に、今までのことを話し、こうと梅花寮に住んで、アヤの『野を駆け、山を登り、木々を渡る』ことを指導してもらえないかと頼んだ。
由之助は、喜んで承知した。
子育てを充分に経験したことのないこうが、由之助と、つらいこともあるが、それ以上に楽しいことの多い、アヤとの生活が決まった瞬間であった。
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ここで、第4章を終わります。
第5章に続きます。
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