4-5  丘の地形

 2時間くらいで梅花寮に着いた。

 アヤは、疲れることもなく、この距離を歩き通した。

 これには、すずばかりか、由之助も驚いた。

 由之助は、すずの速さにあわせて歩いていたからだ。


 アヤは、道に家が並ぶ間は、キョロキョロと珍しそうに辺りを見回し、気になることを由之助に聞きながら、アヤにしてはやや早足で歩いていた。

 町の中でも、浅草とはずいぶん違う。

 由之助も、知ってることを、丁寧に教えていた。


 やがて、家が途切れ、田畑の中を歩くようになると、様相が変わった。

 初めのうちこそ、よく知らない稲や畑の作物のことについて由之助にいろいろと聞いていたが、アヤの興味の対象は、徐々に草花や地形に移っていった。


 興味がある水路があったり、こんもりと野菊が咲いているのを見つけたりすると、さっと走って先に行き、それをじっくりと眺めていて、由之助たちが追いつくと、また一緒に歩きながら、そのことについて質問した。

 走っては立ち止まり、質問しながら歩いてはまた走りと、そんなアヤを見ていて、由之助は、アヤはすぐに疲れてしまうのではないかと気になっていた。


 最初のうちは心配してみたが、徐々に慣れ、しかも、根はのんき者の由之助、1時間くらい経った頃には、『まあ、疲れたのなら、その時、負ぶってやれば、それで良し…、かな?』と、気軽に考えて、アヤの動きを止めることはしなかった。


 ところが、アヤは、そのペースで2時間、2里の道を歩いてしまった。

 それで、この行程は、ペースが一定だったすずの速度で歩き通したことになったのである。


 梅花寮に着いたときも、アヤの目はキラキラと輝き、顔はやや紅潮していたが、生き生きとしていて、疲れを少しも感じさせなかった。

 どちらかというと、丈夫さでは自信のあるすずの方が、慣れないわらじ履きのせいもあって、やや疲れた感じであった。

 もちろん、由之助にとっては、何時間歩こうが、ただ単に歩くだけでは、何をしたという感覚ではなく、普段と何ら変わらない状態であった。


 梅花寮に着くと、そこを管理している花田保蔵やすぞうに、まず、挨拶をした。

 花田はこの時47歳。

 でも、由之助は『やすさん』と呼んでいた。


 花田は、貧しい武士の3男坊として生まれ、厳しい環境で育ち、剣術はなかなかの腕前であった。

 しかし、気が優しく、剣術よりは、どちらかというと大工仕事の方がすきで、農作業も上手にこなした。


 善之助が知人を通して知り合い、明治になるとすぐに、是非にと願って、ここに入ってもらった。

 20数年前のことである。

 花田夫妻には、子が3人いるが、3人ともここで育ち、川越で仕事についていて、今は夫婦の2人暮らしであった。

 

「よしさん、…今日は泊まるんで?」

 花田は、使用人ではあるが、由之助を「よしさん」、善一を「ぜんさん」と呼ぶ。


「あれっ? どうするんだろう?」

 といって、すずを見た。

 昼のおにぎりは持ってきたが、食べ物はそれだけである。


「そういえば…、伯父様は、泊まったらいいとは、おっしゃっていたのだけれど…、どうするのか、はっきりと決めてこなかったわねぇ…」


 すずは、寮に行くということに夢中になり、肝心なことを決めてこなかったことに、今になって気が付いた。


「もうじき昼だし、丘も見るんじゃ、夜になっちゃうな…。

 じいさまも、そう言っていたなら、きっと、泊まるんだと思っているよ。

 うん、じゃあ決めた、やすさん、今晩、泊まるよ」


「わかった、部屋は2つ用意しておくよ。もちろん、夕飯もね。

 で、今日の昼は?」


「おにぎり、持ってきた」


「そうか、じゃあ、お茶くらいは用意するよ」


「あっ、いろいろとすみません」

 あわてて、すずが礼を言った。


 今晩、ここに泊まると聞いて、アヤはワクワクするほどうれしかった。

 何となく、すてきな雰囲気のところだ。

 お母さんと二人っきりで寝られる。

 由之助もいるけれど、その存在は、あんまり気にはならなかった。


 昼まで、寮の建物と、その周りを、由之助が案内することになった。



 昼食後、アヤは、30分ほど昼寝をした。

 気持ちのいい昼寝だった。

 すずも、アヤにつられて、寝てしまった。


 2人とも、完全に元気回復。

 さっそく、裏の丘に向け、出発となった。


 寮の裏にまわり、梅林の中を登る。

 緩い上り坂の細い道に、アヤはウキウキする。

 由之助、アヤ、すずの順で、一列になって歩く。

 この時には、アヤは、草鞋にはすっかり馴染み、足の裏の感触から、道の状態をよく理解できるようになっていた。


 雑木林の中に入ると、道の両側は、浅い笹藪のところが多くなっていた。

 由之助は、腰になたをつけ、手には、草刈り用のかまを持っていた。

 時々、アヤを少し後ろに下げ、道に張り出してきた、笹や草を刈り払っていた。


 やがて、やや開けた場所に出た。

 木がなく、ススキの草叢になっているところだ。

 ススキは、アヤの背丈を越え、アヤにとっては、周りの草しか見えなかった。


「ここが、一番高いところですよ」

 由之助が、すずに言った。


「上は、けっこう広いのね」

 すずが、背伸びをして見ながら言った。

 ススキの穂の間から、かろうじて遠くが見える。

 周囲には雑木林が見えるが、丘の頂上周辺のススキの原はかなり広い。


「アヤ、見えないよ」

 すずに、アヤがすねたように言った。

 すると、後ろから、由之助がアヤの両脇を持って、ヒョイと持ち上げた。

 アヤにしては、このようにされたのは、初めてであった。


 照れくさいような気も一瞬したが、何よりも新鮮な眺めであった。

 ずいぶん高い。

 あの、背の高いススキが、自分の胸より下にある。

 下を見ると、すずが、ニコニコ笑いながら、アヤを見上げていた。

 由之助は、ゆっくりと一回りすると、アヤを下に降ろした。


「どうだ。よくわかったか?」


「うん、草ばっかりだけれど、デコボコだね」

 デコボコとは、小さな起伏がいくつか続いていることを言っていると、由之助にはすぐにわかった。


「あっちに、草のないところがあったよ」

 アヤは、奥の方を指さして言った。


「ああ、よく見つけたな…。あそこは、おれの道場、というか、遊び場だよ。

 行ってみるか?」


「うん」

 3人は、ススキの原を奥に進んだ。


「ここへこんでる」

 やや窪んだところで、アヤが言った。


「ああ、ここは、左に向かって少しずつ深くなって、この先は、小さな谷になってるんだ」


「先は谷?」


「雨が降ると、水が流れて行くってことさ…」

 由之助は、窪地に雨水が集まって下に流れ、小さな川になって下ることを教えた。

 アヤは、目を輝かせて聞いていた。



「あそこだ」

 アヤは、草が刈り取られているところを道の先に見つけ、走った。

 ススキの原の中、そこだけ、きれいな空き地になっていた。

 ほぼ、10メートル四方で、下の土がむき出しになっているところが多く、草が生えていても、多くはしっかりと刈り取られていた。

  

「ここの草、刈ったの?」

 あまりにもきれいに大きな草がないので、すずが、驚いて聞いた。


「ええ、やり出してから、もう、5年くらいになるんですよ。

 ここで、木刀を振ってると、けっこう、気持ちいいもんでね」


「そうね、別天地のようで、楽しそうよね」

 すずは、青い空を見上げて言った。

 周りはススキの原、上には青空に、小さな白い雲。


「鎌、貸して」

 急に、アヤが由之助に言った。


「うん? 危ないから…、気をつけるんだぞ。特に、自分の手とか、足にあたらないようにな」

 由之助は、注意すべきことをアヤに言いながら、くるっと鎌を回して、柄をアヤに向けて渡した。

 すずは、ビックリした。

 てっきり、由之助は、『危ないから…』の次は『ダメだ』と言うと思ったのだ。

 恐いので、やめさせようかと思ったが、我慢して、黙っていることにした。


 アヤは、空き地の奥の方に行き、一株飛び出していたススキを鎌で払った。

 先ほど、由之助がやるのを、しっかり見ていたのだ。

 鎌が地を走ったと思うと、ズッと音がして、地際からススキが倒れた。


 あの、固いススキの株が、一撃で、ものの見事に刈り取られていた。

 想像していた以上の、ものすごい速さに、由之助は鳥肌が立った。

 


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