4-2  神宿る目

 すずは、奥の部屋にアヤを連れて行き、湯で絞った手ぬぐいで、アヤの体をやさしく丁寧に拭いた。

 それから、新しい着物に着替えさせ、手と腕の傷の手当てをした。

 傷は、さほど深くはなく、この時までには、血も止まっていて、簡単な治療で事足りた。


「アヤ…、その手、痛まないのかい?

 うん、そうかい…、もう、大丈夫なんだね…。

 よかったよ…」


 優しいすずの微笑みで、アヤもホッとし、やっと、ニコッと微笑んだ。

 すずは、優しく、訳を聞いた。


「それで…、何が、あったんだい?」


 その時であった。

 すずを見つめるアヤの明るい茶色の瞳が、急に、深いセピア色にかわった。

 そして、じわっと、赤味が差し、金色の筋がスゥーッと流れた。


 アヤは、2人組に、物陰に連れ込まれたときの恐怖を思い出したのだった。


 アヤの目の色が変わるのを間近で見たすずは、ザワッとした。

 ただ、それは、恐さというものではなく、崇高なるものへのおそれのような、得も言われぬ感覚であった。


 また、その一瞬の間に、昔、常吉つねきち夫妻の養女となる前に、実の母親から聞いた話を思い出していた。

 母の血筋の秘密の話。

『神宿る目』の話。


 実際に見る、その『神宿る目』は、神々しいほどに、美しかった。


 すずは、まず自分を落ち着かせ、優しくアヤを抱き寄せた。

 黙ったまま、じっと、抱いていた。

 アヤのからだから、スーッと力が抜けていくのがわかった。


 アヤが落ち着くのを待って、ゆっくりとアヤの話を聞いた。

 この時には、アヤの瞳は明るい茶色に戻っていた。


 アヤは、どのように動いたのかは、しっかりと覚えていた。

 ただ、どうして、自分がそのような動きをしたのかは、よくわからなかった。

 ほぼ、反射的な動きだったのだ。


 まず、空き地に押し倒され、自分を押さえつけている男の顔が近付いてきたので、恐さを感じた途端、体が、ザワッとした。

 相手が驚いたような顔をして、一瞬、動きが止まった。

 アヤは、その時には、体をねじって男を避けながら、相手の顔を殴っていた。


 この、瞬時のことをアヤは正確に覚えていた。

 まず、相手を殴った右腕は、最初、もう1人の男に押さえつけられていたが、それを、ねじるようにして押さえを外した。

 そして、その動きのまま、ねじれを戻しながら、相手の顎を殴ったのだ。

 また、その時には、反射的に、男の下腹を蹴り上げてもいた。


 アヤの拳で、相手の顔が歪んだとき、その殴った手が、自分の左手を押さえつけている相手の腕にぶつかった。

 その腕を押すようにして、アヤのねじった体の動きで、相手の手が伸び、木が砕けたような音がした。

 また、その時には、その男は、自分の上を飛んでいて、そのまま藪に突っ込んだ。


 脇にいたもう1人の男は、掴んでいた腕を外された衝撃で、飛び上がるように立ち上がった。

 その男が、あわてて、横に1回転したアヤを足で踏んで押さえ込もうとした。

 アヤは、その足を腕で挟み込み、勢いのついたまま、横にもう1回転した。


 相手の足は、妙な方向に曲がって、倒れるように男が覆い被さってきた。

 それを避けるように、この男の顔にも一発。

 男は、脇に飛び退けるようにして、藪に倒れ込んだ。


 そのあと、アヤは、起き上がるなりあわてて帰ってきた。

 あとがどうなっているのかはわからない。


 それが、アヤの話の大筋であった。


 ただ、アヤは、動きの筋はわかっていたが、その速度を認識してはいなかった。

 それは、不良たちにとっては、まさに一瞬の出来事。


 速度でアヤの破壊力が増したことを認識できなかった不良たちは、まさか、自分たちが、アヤにやられたのだとは、思いもしないことだった。

 後ろから、誰かにやられた…、そう考えた。

 2人組は、何が起きたのかもわからぬまま、藪の中でうめいていたのであった。



 すずは、幼い頃聞いた『神宿る目』の話を、まざまざと思い出した。

 暗くなった瞳に、赤味が差し、金色の輝きを持ったとき…、その時は、まさに、この、アヤのような動きは、それも、相手が自分の倍近くある体格の男だったとしても、何も不思議なことではなかった。


 今回の、アヤの動きは理解できた。

 すると、すずに、大きな問いが、浮かび上がってきた。

 このような力を持つ娘を、どのように育てたらよいのであろうか…。


 実の母、こうの話のひとつに、力を持ったものほど、きつい修練に絶えねばならないというものがあった。

 そうしなくては、己の力に、己自身が潰されてしまう。

 そのような話が、この、『神宿る目』の話と結びついて、すずの記憶にあった。


 おそらく、この、華奢に見えるアヤの体も、あのような動きに耐えられるだけの強さが、備えられつつあるのだろう。

 どのように育てれば、アヤにとって、いい結果に結びつくのだろうか…。



 すずは悩んだ。

 それから数日、すずは悩み抜いた末、実の母親、こうを、川越まで訪ねることに思い至った。

 櫻谷の家に行き、長い歴史の中で蓄積された、このようなことに関しての様々な知恵を借りようと考えたのだ。


 すずは、常吉夫妻には深い愛情を持って育てられた。

 実の両親と比べても、決して遜色のないほどの深い信頼関係に結ばれていた。

 それでも、すずは数日考え、両親に許しを請う決心をした。

 川越の、実の母親に会いに行くこと、会って、もっとしっかりと、血筋について、『神宿る目』について、話を聞きたいと。


 また、これも深く悩んだ末、すずは、川越に、アヤを連れて行くことを決めた。

 今、10歳、利発な子ではあるが、やや早い気もする。

 しかし、何よりも、今回の事件が起きた。

 アヤは、すべてを知っておいた方がいいだろうと考えたのだ。



 すずは、両親、常吉夫妻を訪ね、時間を掛けて、すべてを話した。

 アヤが不良に襲われ、返り討ちにしたこと。

 その時の、アヤの目は『神宿る目』であったこと。

 昔、こうから聞いた、『神宿る目』についての話。

 そして、それに伴っての血筋の秘密について。


 すずの両親は、アヤについての出来事や『神宿る目』の話に驚きこそすれ、そこからの、すずの考え方には、大きな共感を覚えた。

 アヤには、特別な育て方が必要だ。

 それも、おそらく、早く対応した方が良い。


 しかし、これは、明らかに、すず、こうと繋がる櫻谷家の血筋に関わる事態。

 残念ながら、自分たちでは助けようがない。


 常吉は、しばらく目をつむり、考えていた。

 やがて、微笑みを浮かべ、すずを見た。


「ねえ、すず…。春の、川越での大きな火事…。われわれ夫婦は、そのあと、お見舞いにも伺っていないのでね…、奥様に直接お会いして、その旨、お詫びをして、よろしく伝えてもらえたら、わたしたちとしても、ありがたいことなんだよ…」

 すずの、ひととおりの話を聞いたあと、常吉は、こういう形で、すずに負担を掛けずに、川越行きを許した。


 常吉は、すずの実の母、こうのことを『奥様』と呼ぶ。

 すずの今の両親、常吉夫妻は、ともに、若い頃に出入りしていた、すずの実家、国安信友夫妻が好きだった。

 国安は幕府の役人だったが、少しも偉ぶらず、庶民的な感覚で、商人である若い常吉夫妻に接してくれた。

 また、博識だった国安信友から、いろいろと楽しい話を聞き、また、珍しいものをもらった。


だからこそ、幕末の、不安な世情の中でも、死を覚悟した国安の願いを聞き入れ、しかも、すずとうめ、姉妹、離ればなれになないように、2人揃って、養女に迎えたのだ。

 両親と別れざるを得ない娘2人にも、深く同情し、これ以上寂しい思いをさせないためでもあった。


 常吉夫妻は、川越で大火が起こったあと、すぐに、正確な情報を集め、櫻谷家が、そして、何よりもこう奥様が無事であることを確認していた。

 大火のあと、早い時期に、すずは、番頭さんから、『櫻谷家は無事だったようですよ』と告げられて、安心した。

 これは、両親の配慮だったことを、すずは、このときに知った。


 留守中は、アヤの弟2人の面倒を見るために、人を雇うことなど、詳しいことも説明し、すずは、両親の家をあとにした。


 すずは、実の母親、こうに連絡し、1週間ほどで、店や、留守中の準備をして、アヤを連れ、船で川越に向かった。

 

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 善之助は驚いた。

 妹、おこうから、すずが訪ねてくる理由を聞いたときだ。

 おこうの娘、すずが、おこうの孫、アヤを連れてくる。

 そのアヤは『神宿る目』を持っている。


 力を持つものであるだけでなく、それをはるかに凌駕する『神宿る目』…。

 それを聞いたとき、善之助に震えが来た。


 今まで悩んでいたこともすべて忘れ、また、損得も何も考えず、ただ、アヤの『神宿る目』をひと目見たいと思った。

 それとともに、すべてが始まるのは、アヤと会ってからだ、という、妙に安堵感の伴う、落ち着きのある思いが湧き上がってきた。


 今までの善之助ならば、何とかアヤを身近において、櫻谷家のために…、などと考えたのだろう。

 それは、自分でもわかる。

 しかし、不思議なことに、実際に、この話を聞いた途端、すべての雑念がなくなり、ただ、一度でもいいから、アヤの『神宿る目』を見たいと、善之助は願った。


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