1-7  高級な店

 まず、この人、さっきのデパートに入っていった。

 もちろん、おれも、引きずり込まれるように、嫌な思いの残るデパートに入っていった。

 この人、おれの腕を抱え込んだままなのだ。

 けっこう、力強い。


 さっきまでの話はすべて有耶無耶にされ、このまま逮捕でもされるのではないかと思うほど一方的な動きだった。

 でも、なんだかうれしい。


 宝石売り場のショーケース、さっき、その中の指輪が、おれの手の中に跳び込んできた、あのショーケースの前に言って、中の店員さんと話し始めた。

 ちょっと年配の、しっかりした感じの、すらっとした、そして、やっぱり、美人ですてきな感じの店員さん。

 実に簡潔な話だった。


 まず、指輪をしっかりと拭いて、元の位置に戻しておくこと。

 これは、さっき、おれの手に跳び込んできた指輪を渡しながら。

 そして、今日はこれであがるので、あとはよろしくということ。

 あとはよろしく、で、済んじゃうの?

 主任さん、本当に、それでいいんでしょうか?


 このひとが、その指示をしているあいだ、ほかの2名の店員さん、若い店員さんは、おれのことをチラリチラリと、不思議そうに、興味深そうに、どことなくうさんくさそうに眺めていた。

 まあ、腕を組んだ、というか、腕を抱え込まれたままの、このような格好だから、しょうがないのかな。


 でも、この店員さんたちの、ある意味呑気な反応で、おれは、一つ気が付いた。

 それは、店員さんたち、盗難など重要な事件があったことを知らされていなかったし、感付いてもいなかったと言うこと。


 このひとが、おれの尾行を始めたときのことを考えてみる。

 おそらく、指輪がなくなったことに気が付いて、状況から、おれが怪しいと判断して、すぐに動き始めたのだろう。

 その時、デパートの人みんながつけている胸の名札、それをさっと外して、上着を羽織り、必要なものもすべて持って、しかも、この、二人の若い店員さんたちには、何ら不自然さを感じさせないように動き出した、と言うことになる。

 空けるので、簡単な指示も出したに違いない。

 どのような動きだったんだろう?


「じゃあ、いきましょう」


 来たときと同じような速度で、来たときと同じような格好で、引きずられるようにデパートを出た。


 …あの…ちょっと…、目立っていませんでしょうか?…


 何人かの人が、振り向くような感じで、おれたちを見ている。

 おれたちではなく…、この人だけなのかもしれないけれど…。



 アーケード街からちょっと裏にはいったところ。

 ウナギや割烹料理などを売り物にしているちょっと高級な店、ということはおれでも知っている、その店。

 しっかりとしたたたずまいのその店に、普段なら、気後れして、まず、はいらないその店に、おれとはまるで縁がないと考えていたその店に、この人は、何気ない足取りではいっていった。


 入り口で出迎えてくれた和服を着た人、まあ、お客様係とでも言うのだろうか、その人に、この人は、友達に話すように、普通の顔で言った。

「個室、あいてるかしら? ちょっと、ゆっくりしたいので…」


 …えっ?個室?…こんな高そうな店で、さらに、個室?


「今日は、お二人様でいらっしゃいますか?」

「ええ」


 …今日は、って…。

 しかも、相手の笑顔、おなじみさん相手という感じ。

 こういう店の、こういう人に、覚えられている…。

 この人、どんな人なんだろう?


「それでは、もみじの間がよろしいでしょう…」

 と、エレベータに案内され、3階で降りるように言われ、そのうえ、わざわざ3階のボタンを押してくれた。

 3階で降りれば、そこに、また別の案内の人がいた。

 この人とも、お馴染みさんのような挨拶。

 案内された『もみじの間』は、おれたちの飲み会ならば、10人くらいは、もっとかな、詰め込まれそうな広さだった。

 そこに、一つのテーブルと、椅子4脚。


 この人は、まず、おれをその椅子の一つに座らせて、やっと解放してくれた。

 そして、向かいの席に座り、この人からその人となった。

 と、すぐに、メニューも見ずに、いくつかの料理と、生ビール、そう中ジョッキを二つ、これらを、待機していた案内の人に注文した。

「ビール、先にね」と、一言つけて。


「さあてと…、ここならゆっくりと、話せるでしょう?」

 なんだか、これから、警察で、尋問を受けるような感じもしたけれど、まあ、生ビール付のようだから、良しとしようか。


「で、まず、途中までだったこと…、ほら、触る前に、それを感じるってことだけれど、それ、どんな感じなんだか、もう少し詳しく、教えてくれる?」


 不思議な人だと思った。

 せっかく場所替えしたのに、お互いの紹介や、…そうなんです、まだ、その人の名前も知らないんです。

 あるいは、話の本質、ものを引き寄せるおれの力のことだけれど、そのようなことを後回しにして、まず、このことを聞いてくる。

 少し、つきあわないと、パターンがつかめない相手のようだ。


 とは言うものの、その質問には、とにかく、真面目に、丁寧に答えた。

 実際に、触るのと、大して変わらない感覚であることを。


「ふ~ん」

 と感心したような顔をしてから、ニッと笑って、またショックなことを言った。

「それじゃ、痴漢もやりたい放題って言うことなの?」


「えっ?」


「ほら、手を変なところに持っていって、こっそりと感触を楽しんでいても、誰もわからないじゃないの…」

 ちょっと上目遣いの、なんとも嫌みな感じの眼で、きれいなんだけれど、でも、おれの心をえぐるような顔で、そう言った。


「いや、そうはいかないんですよ」

 おれは、必要以上に自分を落ち着け…、うん?必要以上に落ち着けって…あれ、そう言ってしまったけれど、どういう意味なんだろう?

 本当は、まだ落ち着いていないって言うことなのかな。

 でも、まあ、いいや、とにかく、できる限り落ち着くように頑張って、こちらが触ったような感触を受けるときには、相手も触られているように感じるだろうと思っている、ということを話した。


「『おそらく』とか『だろうと思う』って…、あなた、実際に試したことないの?」

 その人は、なんでそんな基本的なことも試していないで、平気な顔をしていられるの?というような感じで言った。

  

「ああ、自分の手でやって、そう思っていたんだけれど、でも…、このこと、ほかの人には、言っていないから…」


「そうか、なるほどね…。じゃあ、やってみてよ」

 そう言って、その人は、右手をテーブルの真ん中まで伸ばした。


「えっ?」

 こんどは、2オクターブくらい高い声だったかもしれない。


「ほら、どう感じるか、教えてあげるから。早くやってみてよ」


 また、心臓が、ドンカラ、ドンカラと鳴り響いたけれど、やるしかない状況だ。

 ちっとも何でもないこと、という感じで、まるで普通のこと、という感じで、緊張なんてしてないよ、という感じで、おれは、その人の手に右手をかざした。


 その人の肌の感触、すべすべ感が伝わってきた。

 ドキンとした、が、不思議とそれまでだった。

 その人の、と思うからたいそうなことなので、考えてみると、冷静に考えてみると、自分の手の感触と大して変わらないのかもしれないな…、この感触。


「大して感じなかったわよ」

 その人は、手を引っ込めながら、そう言った。


「えっ?」

 おれもすぐに手を引っ込めたけれど、言われた意味がわからなかった。

 いや、意味はちゃんとわかったのだけれど、感じなかったって、どういうことなんだろう?


「ちょっと、暖かいような、ふわっと風に当たったような感触が、あったような気もするけれどねぇ…。でも、何か感じるのかなって、そのばしょに意識を集中していなければ、まったくわからないくらいの、軽い感じだったわよ」


 そう言ってから、さらに、からかいの一言。

「だからさ、やっぱり、痴漢、やりたい放題じゃないの?」


「だから、ぼくは、そんな、卑劣なことはやりません」

 おれは、とにかく、強く断言した。


 その時、「失礼します」と、戸が開けられ、生ビールが入ってきた。

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