1-4 犯罪
その動きは、いきなりだった。
すごい力だった。
その人は、ぼくの右腕を掴んで、いきなり引き出した。
テーブルの上にバンとおき、ぐっと押しつけた。
左手の力とは思えないほどの強い力…。
うん?左が利き腕なのかな?
女性とは思えないほどの強い力…。
うん?女性じゃ…ないの…かな?
人間とは思えないほどの速い手の動き…。
うん?人間じゃないの、…ってことはないよな?
あとで知ったのだが、この人は、人間だった。
普通ではないかもしれないけれど、ちゃんとした?人間で、女性だった。
で、右手の方がやや利き腕とのことだった。
やや利き腕、その意味は、わかったような気もしたが、実は、そのあとも、ずっと、はっきりとはわからなかった。
うん?
つい、その人を見た。
また目と目が合った。
こんどは、この人、ニカッと笑った。
ニカッと笑ったのに、なぜか、きれいなままだった。
で、おれは、今の状況に気が付いた。
固く握りしめた右手が、テーブルの上に押しつけられている。
かなり強い力で、簡単には動かせないだろう。
しかも、仮に、無理にでも動かせば、何か、明らかにできないものを持っていることを白状したようなものだ。
そこで、また、緩やかな動きで左手を右手の上に持っていった。
第二弾の手品。
しかし、力を使う直前に、その人が言った。
「ねえ、どうせなら、ゆっくりとやってみてくれない?」
「えっ?」
また1オクターブ、高くなった。
「それ、ケースから、指輪を盗んだときと、同じ手口なんでしょ」
この人は、『指輪を盗んだ』というところを強調して、そこだけ、力強く、ゆっくりと言った。
これが堪えた。
一番堪えた。
おれは、がっくりと首を落とした。
本当に、その通り、首がガタッと下に落ちるような動きをしてしまった。
「早くやってみなさいよ」
その人が言う声で、我に返った。
右手は握りしめたまま、その上に左手を置いて、その上で頭をたれていた。
それが、今のおれの姿。
「何をしろって言うんですか?」
聞いてみた。
白々しい感じ丸出しだけれど、聞いてみた。
とにかく、ここは、体勢を立て直すため、時間稼ぎが必要だ。
おれだって、そのくらいの知恵は回る。
その人は、ニィィッと笑った。
笑うと言うよりも、唇を緩めたという言い方の方がいいのかもしれない。
何度も言うけれど、それはそれで、メチャきれいだ。
メチャきれいなんだけれど、メチャメチャに恐ろしい。
恐いとは、こういうことかと知らされた、そんな笑いであった。
「犯罪者が…、わたしに反抗しようなどとと、そう考えているわけ、なの?」
最後の『なの?』は、ゆっくりと、すごみをきかせ、かなり恐い感じで言った。
「えっ? 犯罪者?」
こう決めつけられたら、反抗するしかないじゃないか。
「そう、犯罪者。エメラルドの付いた高~い指輪を、デパートのショーケースから盗んだ犯罪者…」
「…」
「ねぇ?そうでしょう、犯罪者さん?」
これは、明らかに、おれが犯罪者と呼ばれるのが嫌だと、辛いんだと、その人が見破った証明の一言。
その人の思惑通り、ズキッときた。
でも、反抗は続く。
猫を噛まなきゃ窮鼠じゃない。
「犯罪者って…、じゃあ、盗んだって言うけれど、どうやって、おれが盗んだと言うんですか?」
さあ、なんて答える?
おれは、手品の種は、明かしていない。
おれの力は、フフフ、見抜けるわけはないのさ。
急に強気になってきた。
フフフ、だんだんとハイになってきた感じだ。
おれは窮鼠だ。
逃げ場のないネズミ、猫だって何だって噛んでやる。
追い詰められて…、そう、犯罪者などと決めつけられて、ギリギリまでに追い詰められて、逆に、普段にないくらい、強気になってきた。
愉快なくらいだ。
フフフ…、ファファファ…、ヒヒヒ…。
と、その人は、思わぬ反応をした。
肩の力を抜いて、一言。
「ふ~ん…、そうなのよねぇ…」
ここで、コーヒーを一口。
初めて飲んだんじゃないのかな?
そして、急に優しい言い方で。
「さっきからね…、それが、わからないのよ…。
ねえ、だからさ…、今、教えてくれない?」
それから、思わぬ展開。
「そうねぇ、授業料として、その指輪、あげるわ」
思いもよらぬ大きなご褒美。
「えっ?」
この指輪、六十八万円。
いくら何でも、ご褒美には大きすぎる。
かえって、この話、どこか変だと、そんな気がしてくるほど大きな報償。
「だから…、ちゃんと教えてくれたら、そのお礼に、その、あなたが盗んだその指輪をあげるから…。
ほら、そうしたら、盗んだことにならないじゃないの?
あなたのなんだから…、ねっ?」
「いや、おれ、盗んだわけじゃないし…」
これは言葉の反射。
そう、反射的に言ってしまった。
うさんくささは感じたけれど、それでもうまくまとまりそうだった話を、振り出しに戻してしまったような気がした。
「えっ?」
こんどは、その人が、『えっ?』と言った。
「盗もうと思ったわけじゃないんだよ。あれは、事故だったんだ…」
話を振り出しに戻しはしたが、おれはおれなりに、弁明したかった。
あの、前を歩いていたおばちゃんの動きで、ショーケースに手を付きそうになり、瞬間、ガラスが割れると思った。
そして、それを回避する動きの中で、知らない間に指輪を引き寄せてしまった。
このことを、ちゃんと説明したかった。
盗もうなんて、思わなかった。
そんなこと、一度も思ったことがなかったことを。
「事故…?」
その人は、やや、眉を寄せて、いぶかしげに言った。
そして、微妙な間を置いて、もう一度。
「あれが、事故、だったと、言うわけなの?」
「ええ、盗ろうとなんて思ったことは一度もなく…、あれは、本当に、事故のようなことだったんです」
必死で言うおれ。
でも、その人は、怪しいものを見るような目で、おれを見つめていた。
黙ったまま…。
この嘘つき、という目で…。
おれは、急に悲しい気持ちになってきた。
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