1-3  値段

 コーヒーの香り…。

 ゆっくりと一口飲む。

 少し時間がたって、どうやら落ち着いてきた感じだ。

 まず、確認が必要だ。

 何事も確認。

 はっきり見てみよう。


 左手をポケットに入れ、ブツを取り出す。

 テーブルの上、右手の指でブツを掴み、左手で、何気ない感じでカバーをし、それとなく見てみる。

 美しく澄んだ緑色。

 そのままの、エメラルドグリーン。

 あそこに並んでいたものだ。


 恐る恐る値札をのぞき込む。

一、十、百、千、万…、ろ、ろく…じゅ、ろくじゅう…まち…まん…えん。

 六十八万円…。

 気が遠くなりそうだった。


 こんな小さな石の付いた指輪が…、おれがバイトで稼いでいるお金、4ヶ月分と同じくらい…。

 いや、それよりも、ちょっと多いかな。

 休みが多い時だと、5ヶ月分くらいになるかな…。

 正確に言うと、4ヶ月と…、いや、いまそんなこと、計算している時じゃない。

 でも…、それを…、それを、盗んでしまった…。


 落ち着かなくっちゃ…。

 コーヒーを、また一口飲んだ。

 いい香り…。

 大きく息を吸った。


 盗んだ?

 いや、おれは盗もうなんて思っていなかった。

 そんなことは、これっぽっちも考えていなかった。


 そう、だから、これは盗んだんじゃない。

 おれは盗んでなんかいない。

 それじゃあ…、う~ん…。

 あれは…、そう、あれは、事故なんだ。

 そうだ、事故なんだ。


 必死の思いでそう結論を出した。

 これでいこう。

 そのように結論を出すと、気分が、少しずつ、晴れていくような感じがした。



 ちょうどその時、心が晴れていくような気分の時に、右横で明るく、優しい声がした。

「お隣、よろしいかしら?」


 『うん?』と横を向く。

 そこには、あの、メチャきれいな人がいた。

 あの宝石売り場の、あの主任のような感じの、あのメチャメチャにきれいな、そう、あの人がいた。


 おれと目が合うと、あの人が、ニコッと微笑んだ。

 おそらく、おれは、何の反応もしなかったんだと思う。

 ただ、その、メチャきれいな顔を見ていただけだったのだと思う。

 きれいだとも思わずに…。


 そう、その時、頭の中は、真っ白だった。

 真っ白。

 霧の中と言うよりも、もっと真っ白。


 真っ白だったので、どのくらいの時間が過ぎたのかわからない。

 2,3日、過ぎたような気もした。

 でも、案外、短い時間だったのだろう。

 あの人が隣に座って、この人、あるいは、その人になった。


「左手、何か持ってるの?」

 いきなり、その人が聞いてきた。

 腰掛けて、最初に出てきた言葉がこれだった。


 宝石売り場の主任みたいなその人。

 興味の中心は、この左手の中のものだった。

 そのために、この、ぼくの隣の席に座った。


「えっ?」

 普段より、1オクターブ高い声が出た。

 その声の高さに気づき、逆に、おれは頭が真っ白にならずに済んだ。


「左手よ。

 しっかり握りしめてるじゃない?

 何か、大事なものを持ってるんじゃないかと、なんだか、ちょっと気になって…」


 口ぶりは、すごくしおらしい感じだった。

 その声に反応して、おれは、その人の顔をまた見た。

 目と目が合うと、その人はニッと口元を緩めた。

 すごくきれいな顔だ。

 確かに、ものすごくきれいな顔なんだけれど…、けれど、それよりもすごく、もっとすごく、意地悪な感じがした。


 今、意地悪をしている真っ最中です。

 そんな顔だった。

 でも、きれいだった。


 お陰で、ちょっと、…ほんのちょっとだけれど、冷静になった。

 断片的な冷静さ。

 要するに、頭の中で、ちらっとだけ策が動いた。

 何とか、この、不利な立場から逃れたい。


 左手を、握りしめたまま、ゆっくりとテーブルの上、体の前に持ってきた。

 左のこぶしを持ち上げ、てのひらに食い込むように、横に揃って並んだ爪の近くをじっと見つめる。

 その人も、視線をおれの左握りこぶしに留める。


 おれは右手をゆっくりと左手の拳の下に持っていき、握った左手の甲を数回、カシカシと緩く掻き、またゆっくりと、テーブルの下、膝の上に置いた。

 

「ねえ、その手…、開いてみて下さらない?」

 その人は、左手を指さして優しく言った。


「開いても…、この中…、何も…はいっていないよ。ちょっと、汗はかいているけれど…」

 やや震えていたけれど、おれはしらっとした感じで言った。


「でも、開いてみてよ」

 こんどは、その人、ちょっと、強く言った。


「う~ん…」

 もう、開くとは決めていたけれど、これは焦らし。

 おれに意地悪をしていたみたいだから、ちょっとは反抗心も見せてみたい。

 でも、不利な立場に変わりはないんだけれど。


「はやく、開きなさいよ」

 こんどは、かなり強く言われた。

 姉が弟を叱るような感じだ。


「うん、それじゃ…」

 ちょっともったいぶって、ゆっくりと左手を開く。

 そこには…。

 そう、そこには何もなかった。



 さっき、急遽浮かんだおれの策。

 少し前に、右手で左手の甲をかいたとき、左手の甲を通して、右手に指輪を移動したのだ。


 咄嗟に思いついたことだったが、身体を通してものを移動させるなんて、今までやったことがなかったから、うまくできるのかどうか、わからなかった。

 左手の甲の下に右手をやって、カリカリと掻きながら、右手にちょっと意識を集中したら、右手に指輪を感じた。


 正直、ちょっと心配だった。

 ピストルで、打ち抜かれたように、穴があいちゃうんじゃないかとか…。

 でも、もう、躊躇する余裕はなかった。

 紙を通して消しゴムが来るとき、紙に穴はあかない。

 できる。

 なせばなる。

 すぐに引き寄せた。


 右手に指輪の感触。

 うまくいった。

 じ~んと来るほどうれしかった。

 大きな手品に成功したような気分、なんだろうと思った。

 でも、同時に、おれ、今、手品なんかやってる場合じゃないんだけれど…、そんな気持ちも湧いてきた。


 本来なら、この力の使い道…、ずっと長い間、何かないかと探していた力の使い道、手品にぴったりなんじゃないの、と、新しい発見に大はしゃぎしたんだろうけれど、今はそんな余裕はなかった。

 あとで、ゆっくりと、いろいろな手品の開発をしてみよう。


 とりあえずはそう考えておいて、今は、何もない左の掌のこと。

 ちょっと、得意げに、顎を少しあげて、その人を見ようとした。

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