1-2 値札
大学を出て、さあ会社に勤めよう、と思ったけれど、いざ、第1志望の会社に振られてみると、第2志望だったところが急に色褪せて見えはじめ、どうも勤める気にならなかった。
それで、サラリーマンは断念。
バイトをしながらスキルを磨いて暮らしている。
それで、今、二十四歳。
こういう生活形態をフリーターと呼ぶ人もいるが、そんな、内面を見ないで決める、いい加減な分類には興味もなく、また、おれを知らない人に、かってに決めつけてもらいたくもない。
そう思っている。
今は、自分の生き方を考えている、大事な時期なのだ。
で、最近、朝、比較的に早い時間から営業しているスーパーマーケットの、裏方のバイトをやっている。
レジなど、人に会う仕事は苦手だけれど、今やっている仕事は、常勤の人に言われたことを、言われたとおりやっていればいいので、おれにピッタンコ、というわけ。
このところしばらくは、朝早いけれど、3時近くに終わるシフトが続いている。
そのスーパー、比較的便利なところにあり、また、繁華街にも近い。
3時ちょっと過ぎた頃に仕事を終え、スーパーを出る。
あとは自由。
ここ数日は、デパートを覗いてから帰るパターンになっている。
1階の宝石売り場に、メチャきれいな人がいる。
そんな情報が、このデパートに就職した奴から届いたからだ。
まあ、飲み誘いの電話での雑談の時に、その付録として出た話なのだが。
艶麗なる輝き*妖結晶*特別展示販売会とのタイトルで、エメラルドを中心に、通常よりも高価な宝石を特別に展示、販売する企画を十日間ほどやっている。
そのため、何人か、宝石屋さんの方から派遣されてきた人がいて、その、チーフをやってる人らしい。
話を聞いた翌日に見に行って、確かに、と納得した。
若いのだけれど、売り場の主任さんみたいな感じで動いている。
とは言っても、おれは、宝石なんかを買うわけでもなく、ただ素通りするだけ。
奥で全体を見ているあの人とは、いろいろな意味で距離があり、話しかけようなんて気も起きず、もちろんそんな機会も切っ掛けもなく、ただチラ見するだけ。
でも、何となく、楽しい。
そんな感じで、今日で4日目。
4回も前を通ると、しかも、ゆっくりとショーケースをのぞき込みながら通ると、さすが、エメラルドの緑色にも馴染んでくる。
きれいだな…、と思いながら、歩調もますますゆっくりとなる。
今日も、奥の方から、売り場全体を見ている美人さんをチラ見しながら、ショーケースの中の指輪を見ていた。
比較的大きなエメラルドの付いた指輪が並んでいる。
デザインもすてきだ。
指輪にデザインがあるなんてことは、先日まで知らなかったけれど、昨日、ちょっとネットで調べてみた結果の知識。
買おうなどとは思わないけれど、でも、きれいでいい感じの指輪なんだよな。
そんなときだった。
ここに来る、ちょっと前に歩いてきた売り場。
ハンカチや財布、ポーチなど、女性ものの小物を扱っている売り場。
そこで、時間限定の特売が始まった。
このデパートでは時々やる、人気イベントらしい。
このイベント、いいものが、普段よりもかなり安く買えるんだぜ、と友達は言っていた。
で、前に覗いたことがあるが、高いように感じる『普段』より、かなり安くても、『いいもの』を知らないおれには、まだまだ高い感じがする特売だった。
そのワゴンに向かい、多くの人が流れ、集まっていくような状態だったが、おれの、すぐ前にいたおばちゃんも、急きょ参加を決めたらしい。
はっと、気付いたように、いきなり振り返り、ダッシュ。
思いも寄らぬ速さでおれとすれ違って、ワゴンめがけて戻っていった。
右肩をはじかれたおれは、グラッとよろめき、危うく、ショウケースの横に手をつくところだった。
そこはガラス。
左手に、ガラスの感触が伝わってきた。
危ない!!
ぶつかれば、割れてしまう。
普段使わない筋肉を総動員して、すんでのところで体勢を立て直す。
『危ねえな~』
小さく…、本当に小さく呟き、何事もなかったようにその場をあとにした。
あの美人さんを、もう一度チラ見するには後ろを向かなければならない。
それは、ちょっと恥ずかしい。
しょうがない、明日もある、今日は諦めよう、と、思った。
思ったときに、不思議な感覚に気が付いた。
『えっ…』
いきなり頭の中が、真っ白になった。
『そんな…』
少したってから、次の言葉が、頭に浮かんだ。
『そんな、馬鹿な!』
おれの左手。
軽く握った左手に、何かがはいっていた。
見なくてもわかる感触と形…。
これ…。
これって、さっきの…。
さっきの、指輪じゃないの?
あの、ショーケースにあった、指輪じゃないの?
すぐに見るのもはばかられ、そのまま、何気なく…、そう、できる限り何気なく、宝石売り場から離れ、出入り口の方へ向かう。
それから、やっと考えることを始める。
どうしよう…。
あの指輪だよ、これ…、た、ぶ、ん、だけれど…。
えっ? 多分?
多分なんかじゃないことは、もう、わかっているんじゃないの?
見てないけれど…。
でも…、うん、そうなんだよね…。
で、どうしよう…。
そうだ、『落ちていました』とでも言って、受付に渡そうか?
そうすると、どうなる?
うん?
『どこで拾われたのですか?』
そう聞かれるに決まっている。
どこで?
さて、おれ、どこで拾ったんだろう?
便所でいいのかな?
でも、これ、売り物。
『盗難品だ』と言うことにでもなって、警察がはいり、何かの加減で、監視カメラまで確認されたら、おれが便所に行っていないことぐらい、すぐにわかってしまうんじゃないのかな…。
そうだ、宝石売り場から受付に、真っ直ぐ歩いていくおれの姿、たぶん、どこかにあるカメラに写っているんだろうな…。
では、通路で拾った?
いや、おれは、どこでもかがんでなんかいない。
ものを拾った素振りをしていないないのだ。
あれ?左手の中、この感触…。
これ…、値札が付いているの?
値札が付いたまま、指輪が落ちていた?
こんな状態で、どうやって落ちるんだ?
だめだ、こんなものが落ちていたなんて、誰も信じてくれないだろう。
もともと、嘘なんだし…。
ふと気が付いたら、出入り口にある受付、いや、サービスカウンターと言うのかもしれないけれど、その前を通り越し、デパートを出ていた。
賑やかなアーケード街を歩いている、おれ。
あれ?落ちていた、は、もう通用しない、のかな?
普通のように歩きながら…、これがけっこうむずかしい。
ついつい、右手と右足が、一緒に前に出てしまう。
注意深く、普通のように歩く
軽く握った左手をズボンのポケットに入れた。
そのままの姿勢で、よく行く喫茶店に入る。
幸い、この時間、そんなに混んでいなかった。
左手を少し開いて、中のものをポケットに底に落とし、左手をポケットから出して、普段のようにと気を配りながら、コーヒーを注文し、支払をする。
コーヒーを受け取り、奥の、大きなテーブルの隅、目立たない席に行く。
すべて、夢うつつといった感じ。
ものを盗むなんて…。
こういうことに、おれは弱い。
やってはいけないことは、やってはいけない。
わかったようなわからないような変な言葉だが、不思議と昔から、大事な教え、と思っていた。
だから、おれは、律儀にこの教えを守っていた。
今までの人生、ずっと…。
そして、今…。
落ち込んだ気分。
どうしよう…。
… … …。
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