第5話
「美冬―。準備出来た?」
「もうちょっと、ごめん待って」
「お母さんは別にいいけど、結衣ちゃん待たせてるんじゃないの?」
わかってるって、といいながら、美冬は階段を駆け下りる。ねーちゃん、落っこちるぞ、と弟にまで心配される彼女に、母は呆れたように言った。
「二十歳になっても、変わらないわね」
「それ、ほめてんの?」
笑いながら、美冬は母の出してくれる車に乗り込んだ。
「良かったわね、その青の晴れ着。もっとかわいい、ピンクとかにしたら良かったのに、ってずっと思ってたけど、よく似合ってるわ」
雪の降る中を慎重に運転しながら、しみじみと言われる。ありがと、と返しながら、美冬は着物を見返した。
成人式。たった一度のこの式典のために、わざわざ着物を買ってくれるという母にねだったのは、この青い振袖だった。普段、着る服に多い色ではない。だが、ここ、というときに選ぶのはいつもこんな青だった。
理由はわからない。
この深い色を見つめる時、思い出しそうな景色がある。だが、そんな時いつも頭にもやがかかったように、それ以上のことは考えられなくなった。それは切なく悲しい、けれど大事な記憶と共にあるようで……だが、それ以上はわからない。
わからないながら、美冬はいつもその感覚を抱きしめるように大切にしてきた。
「……でも、本当に良かった。十歳の誕生日辺りであなたが行方不明になったときは、本当にこんな日は迎えられないんじゃないかと思った」
そのことを話すとき、母はいつも薄く涙のにじんだ声をさせた。たいして、美冬はいつもあいまいにうなずく。
美冬には十歳の頃、行方知れずになった過去があるらしい。らしい、というのは、美冬自身その頃のことを全く覚えていなかったからだ。結局森の中で寝込んでいるところを発見され、ただの迷子のような扱いになった。
あんな寒空の中森で眠りこけるなんてことは、普通では考えづらいし、そのときのことを全く覚えていないことからも、誘拐されて恐ろしい目にあったのでは、と両親は苦しんだりもした。だが、特別な怪我があるわけでもなく、やはり事件性はない、ということで決着がついた。それ以上引きずることは、誰にとってもメリットはないと悟ったからだ。
ただその頃から、姿勢や食べ方など、ささいな注意を受けることが少なくなったのは、何となく覚えている。また少し、自分に対する甘えも減った。
成長といえばそれだけのことかもしれない。
そういえば、青が特別な色になったのも、その頃だった。
「お母さん」
「なに?」
「今まで、育ててくれてありがとう」
「……なによ、もう嫁にでも行くの? 二十歳になった程度でそのセリフは早いわよ」
笑いながらも、母の目じりに涙が浮かんでいるのを美冬は見逃さなかった。だが、しめっぽい空気になるのを嫌うように、母はつとめて明るく笑う。
「ほら、着いたわよ。……あー、やっぱり結衣ちゃん待ってくれてる」
ほんとだね、と同じように笑って、美冬は車のドアを開ける。帰りはいいから、と伝えて、美冬は会場へ向った。
久々に会った友人たちに、美冬は上機嫌だった。結衣のように中学から私立に行ってしまった友人などとは、実に八年ぶりだった。誰だかわからないほど変わった子もいる。時間の流れにおいてけぼりにされているのではないかと思うほど、変わらない子もいる。美冬なりに友人や、友人とは呼べないほどの知人たちについて色々感じていたが、逆に自分はどう見られていたのだろうとふと疑問に思う。
「あんまり、変わってないかな」
長らく会っていない友人たちからも、簡単に発見され、声をかけられた。それは、つまりそういうことなのだろう。まぁいいか、と思いながら、美冬は家路を急ぐ。
式の間はやんでいた雪が、またパラパラと降り始めた。一気に寒さも増した気がして、ぶるりと身震いする。そんな彼女の前に、ふと人影が現れた。
サイズ的に大人の男性だろうか。見えるのは足元と、影だけだ。進路妨害するように、美冬の真正面に立った相手を前に、美冬は硬直した。
うまくいえない。理由はわからないが、鼓動が高鳴るのを感じる。
そんな彼女の耳に、小さな笑い声と
「馬子にも衣装」
そんな失礼な言葉が、低く心地よく響いた。
ゆっくりと、目を上げる。その眦には、こらえきれない涙が伝っていた。あの頃よりも、ずっと高くあごを上げないと、目を合わせることは出来ない。
知らない、だが知っている。
先にあるのは、深い青の瞳だ。自分の晴れ着と同じ、大切な記憶の、あの湖の、
あの幼い日、かけがえのない恋をした相手の。
「おそかったね」
減らず口をたたいた美冬を、コウは抱きしめた。これでも急いだ、と言い訳のように呟いて。すっかり青年になった、だがどこかにあの頃の面影を残す彼に、美冬は泣き笑いを浮かべ、抱きしめ返した。
「待ってたよ」
Blue Moon コウユリン @koyurin
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