第3話

 「……さま、シャナ様、起きてください!」

 耳元で盛大に怒鳴られ、美冬は目を覚ました。だが、飛び起きる元気もない。昨日一日、身体も頭も目いっぱい使ったのだ。にもかかわらず、寝たら寝たで胸がざわつくような夢を見て。

 ……夢。

 夢が、自分にとっての昨日までの当たり前の世界で、今目の前に広がっているのは

 「いいかげんにしろ。皆を待たせるにも限界だぞ」

 昨日、突然迷い込んだ世界。

 不機嫌全開で美冬の髪をつかもうとするコウを、さすがにそれはおやめなさい、とレイがあわててとめる。自分をめぐるその争いをひとごとのように眺めながら、美冬は一体何時なのかと時計を探した。だが、それらしきものはない。まだ頭が目覚めきらず、渋い顔をしたまま動かない美冬は、思い切りげんこつで殴られて我に返った。

 「いったー……!!」

 「さっさと動けといっている。それでなくても皆突然姿を消したシャナに、不信感でいっぱいになってるんだ。ようやく戻ったにもかかわらず、食事にも現れないおまえに、そろそろざわついてきている」

 「私、シャナじゃないし」

 「じゃあ外へ出てサルに食われてくるか」

 容赦なく言い放つコウに、美冬は言葉につまる。レイ! という怒声にせきたてられるまま、レイは美冬の身支度を手早く整えた。されるがまま、ただ突っ立っている間に美冬は見事な手際で準備され、部屋を追い出される。

 昨日歩いた廊下を、コウと隣り合って歩く。その後ろを、レイだけでなくたくさんの人々がぞろぞろとついてきた。その異様な光景に眉を寄せると、コウがそっと見えない位置で足を蹴ってきた。

 「いたっ! 何す……」

 「シャナ様は、少し遠出をされていた。その間にお風邪を召されたようで、今うまく声が出ない。よって今日は俺が代わりに話す」

 「は?」

 「設定だ。覚えろ。シャナなら当然誰だかわかる相手も、今のおまえには名前もわからない。それではまずい。なるべく、重要な相手は名前を出して話をするから、おまえは一切今日しゃべるな。声を出すな。そして、この屋敷のことを覚えろ」

 死ぬ気でな、と言われ、美冬はくらくらした。

 自慢じゃないが物覚えはよくない。都道府県だってなかなか覚えられず、何度再テストになっただろう。だが、今再テストがないことはさすがにわかってきた。

 おかしな間違いをして、シャナでないことに気づかれたらそれで終わりだ。

 暗い気持ちで歩くうち、ついたぞ、と言われ目を上げる。

 扉を開けた先の部屋は、とても広かった。明るい日差しが差し込み、漆だろうか、赤くすべらかな柱を輝かせている。その中央に置かれたのは、長いテーブル。向かい合わせに座る十人ほどの男女が、ざっと一斉に美冬を見た。

 その姿を見て安堵した顔のものもいる。だがそれよりも、いぶかしげな、疎ましげな顔のもののほうが圧倒的に多かった。どう見ても歓迎されていないその雰囲気に、それだけで美冬は泣きそうになる。

 「ようやくお戻りですな、シャナ皇太女。三日もの間、いったいどちらへいらしていたのか」

部屋中に低い声が響き渡る。一番扉に近い席に座る巨体の男が、今の嫌味の主のようだった。びくっと肩を震わせた美冬を背で守るように立ち、コウはじっと相手を見つめた。

その青いまなざしに相手はいまいましい、という顔をしながらも黙る。

「セツ殿」

先の巨体の男を見ながら、コウは少しゆっくりと話す。その時、彼は一瞬美冬の目を捉える。

覚えろ。

さっきのコウの言葉を思い出し、美冬はあわてて相手の顔をしっかりと見た。美冬の二倍はありそうな大きな身体に、あご全体をおおうひげ。そして、シャナに対していい感情は持っていない。

この男が、セツ。

美冬の様子を少しうかがった後、コウは改めてテーブルに着く人々に向き直った。

「他の方々にも。この度はシャナ様の突然の失踪、まことにご心配・ご迷惑をおかけいたしました。継承式を直前にひかえ、しっかりなさってはいてもまだ幼い少女でいらっしゃるシャナ様は、不意に張り裂けんばかりの不安を覚えられたようです。程近い場所にはいらっしゃり、お怪我もなかったものの、お止めできなかった、またすぐにお連れできなかった責は私にあります。まことに申し訳ございませんでした」

深々と頭を下げるコウを、そこまで責任を感じる必要があるのだろうか、と思いながら見ていると、また足を蹴られた。今度は先ほどよりも強く。そして初めて、ここは自分も頭を下げるべき場面なのだと思い至った。あわてて同じように頭を下げた美冬の耳にしばらくして届いたのは、もう良いでしょう、という救いの言葉だった。

「コウ殿の言うとおり、シャナ様もまだ幼くていらっしゃる。そのお年でこのアレドの全てを負うことが大きな負担であることは想像にかたくありません。とにかく、今はご無事でよかった。コウ殿もご苦労様でした」

「ありがとうございます、リン殿」

目を上げ、コウがリン、と呼んだ相手に目をやる。こちらはふくよかな身体をした老女だった。彼女の美冬を見るまなざしには、新しい主というよりも自身の娘、いや孫に向けるような優しさがあった。良かった、こんな人もいるんだ、と安心しながら美冬はもう一度頭を下げた。

「みなさま、シャナ様は無事お戻りになりました。が、少しお風邪を召されたようで、今お声が出ないようです。よって、お声が回復されるまで、私がおそばにつき、代わりにお話させていただきますこと、お許しください」

「おやおや、それは大変だ。継承式もそういつまでも延ばすことは出来ない。シャナ様には一刻も早く回復していただかなければ」

「まことに。王のおからだも、もう……」

「レン殿!」

セツに便乗する形でにやにやと話す男を、リンがきつくたしなめる。だが、レンと呼ばれたその男は肩をすくめただけだった。身体も目も細いその男は、昔話に出てくるきつねにそっくりだと美冬はぼんやり思う。だが、彼らの会話を反芻して、はっと顔を上げた。

コウは、現王の息子。ということは、彼の母は……。

思わずみやった先のコウは、ごく冷静な顔をしていた。だが、ほんのわずかに唇をかんだのを、美冬は見逃さなかった。それでも、それ以上その悔しさもつらさも決して出さない。

彼だって、そう美冬と変わらないだろうに。なんて強いのだろう、と美冬は思った。、

そして、なんと悲しい人だろうと。

「お二人とも、もうおかけなさい。食事が冷め切ってしまって、料理番が嘆いていますよ」

場の空気を持ち直すように、リンが声をかける。そうして、味を感じる余裕もない、緊張した食事が始まった。



それは食事ではなく、ひたすらこの環境を知る為の勉強時間だった。一体メニューが何で、どんな食材が使われていて、美味しかったのかまずかったのかすら美冬は覚えていない。とにかく、精神的には昨日よりもはるかに疲れた時間だった。

そう思うと、普段の生活はどんなに楽だろう。音楽会や参観日だって、緊張はする。だが、ここまで神経を張り詰めたことはなかった。だが、疲れた原因はそれだけではない。

「おまえはサルか」

こちらも疲れきった様子のコウにいわれ、美冬のイライラが限界にきた。長い、まるでウエディングドレスのような衣装のすそを思い切りめくりあげたとたん、レイが「はしたない!」と悲鳴を上げた。膝までみえた美冬の足に、コウもぎょっとしたまま硬直する。

「見てよ、この足。がんがん蹴られたおかげで、青あざだらけなんですけど!」

食事中、テーブルの下で美冬は何度もコウに足を蹴られた。姿勢が悪い、食器の持ち方が悪い、ひじをつくな。そんなささやきと共に。そんな二人にお茶を出しながら、まぁまぁ、とレイがなだめた。

 「コウ様の、足を蹴る、というやり方は上手ではありません。が、美冬様のお行儀がなっていないことも確かですよ。それは早急に直されたほうがよいでしょう」

 レイにまで言われ、美冬は言葉につまった。今までも散々注意はされてきた。家で。時には学校でも。そういえば昨日の夢でも母が話していた。

美冬になりすますシャナを行儀がいいと絶賛していた。裏返せば、普段の美冬の行儀が悪すぎるということだ。わかってはいたものの、改めてつきつけられ、唇を尖らせた。

 「ところでコウ様。お母様のお加減はいかがですか」

 レイの問いに、今度はコウが沈黙する。美冬も気になっていたことに、思わず身を乗り出しかけて思いとどまった。好奇心を全開にして聞くような話ではない。

「……もって、この月の間くらいだろう。今はもう、意識があるときのほうが少ない。継承式も、日取りを決めたところでその時ちょうど母が動けるかはわからない。時間がたつにつれ、状況は悪くなる一方だろう」

「継承式は、日取りを改めてお決めになられたのですか?」

「今のところはまだ。だが、それまでにはシャナに戻ってもらわないと……」

「そうですね」

二人がじっと美冬を見つめる。そのまなざしの重さに居心地の悪さを感じ、なによ、と呟くと、コウがふと目をそらす。

「このサルに、王位はまかせられない」

「だからサルじゃないって!」

叫ぶように返すと、美冬はざっと立ち上がった。どちらへ? とレイの声が追ってくるのに、お手洗い! と叫んで部屋を後にする。

だが、勢い込んで出てしまったものの、一人でこの屋敷を歩くのは不安だった。やはり戻ろうか、でも、と悩んでいるところへ、

「これはシャナ様。いかがなさいましたか?」

嫌な声がかかった。目の細い、きつねのような……確か、レンといった。

何か気の効いた事でもいうべきか、と頭をまわしかけたところで、コウから絶対に話すなといわれたことを思い出す。風邪を引いたことになってたっけ、とわざとらしく咳をして、美冬はちらりと相手を見た。さっさと立ち去ってくれれば良いのに、いつまでにやにやとその場から動かない。どうしたものか、とあとずさったところを、突然そのキツネ目の男に抱きしめられた。

「何を……っ!」

「以前お話したこと、考えてくださったかな? 私をあなたの夫としてほしいという、あの話は」

突然、少なくとも美冬にとっては突然のとんでもない申し出に、目を白黒させた。夫にする、とはこの男と結婚する、ということだろうか。こんなキツネの目をした、しかもよく見ると、父親とあまり年の変わらないような男と。

考えただけでも吐きそうになってくらくらする。だが、そんな美冬に構わずレンは話し続ける。

「あなたにはご両親がいない。つまり後立てがない。コウとてしょせんはこども、あなたが今回のように困ったことになったとき、助けてくれるものがいないということだ。だが、私を夫とすればどんなときにもお助けできる。悪い話ではないと思いますぞ」

話しながらどんどん顔を近づけてくる。もう何を言っているのかわからなかった。ただただ気持ち悪さしかない。だが押しのけようにもレンの身体はびくとも動かなかった。いくら相手も細いとはいえこれが男と女の、そして大人と子どもの力の差だった。息がかかる距離にまで顔が近づき、美冬がぎゅっと目を閉じたその時だった。

「コウ様、おやめください!」

レイの悲鳴と、美冬の耳元を風が通ったのが同時だった。続くのは、豪快な何かがぶつかった音。恐る恐る目を開けると、さっきまですぐそばにいたレンが倒れていた。頬に思い切り殴られた跡をつけて。そしてすぐそばには、般若の顔をしたコウが立っていた。

「コウ様、いかに相手がクズでもこれはやりすぎです」

さりげなくすごいことを言ったレイの腕を、レンがぐっと握った。

「コウ……きさまよくも」

 低い声でうめいたレンに、コウが更にこぶしを構える。そのさまを見て、レイはレンの額に手を当てた。

昨日コウがサルに向けたのに似た、だがもっとやわらかい光がレンの頭を包む。すると、レンは頬を押さえながら起きあがった。

「痛たた……一体なにがおきたのだ」

「おやおやレン様、お気の毒に……つい今しがた、そこから足を踏み外されたのですよ。思い切りお顔から落ちられたので、大変なお怪我になってしまいましたね」

コウや美冬が何かを言う前に、レイが口早に言った。あっけにとられる美冬に、記憶を触ったな、とコウが呟く。

コウが敵を撃退する力を持つように、レイには相手の記憶を操作する力があるらしかった。それにしても顔から落ちてその怪我は無理があったが、レイは強引にそのまま押し切るつもりのようだった。顎をあげ、もう行くよう二人に促したのを受け、コウは美冬の手をとって部屋へ戻す。

「おまえはサルの上にバカか」

冷たく言い捨て、コウは荒く扉を閉める。その音の大きさに、そして先ほどの出来事に、美冬は泣きじゃくった。



「お待ちください、コウ様」

ずかずかと歩くコウに、レイが鋭く声をかける。無視しようとしたが、レイは無理やりその前に立ちはだかる。苛立ちを隠そうともしないコウだが、レイの眼光の強さに負けたように大きく息を吐く。

「すまなかった」

振り絞るように言ったコウに、レイは目を見開いた。コウは場をとりなす為に表面だけ詫びることはあっても、こんな風に謝ることはいままでなかった。シャナが消えてから、そして何より美冬が現れてから、今まで見たことのない彼の一面を、レイはたくさん目にしていた。ため息をついて、レイは、失礼しました、と出過ぎた自分の態度もそっと詫びる。

「シャナ様が姿を消してから、全く休まれていないでしょう。ほとんど眠ってもいらっしゃらないのでは?」

「時間がない。このたった数日が、この後のアレドを、そしてシャナを永久に大きく変えてしまう」

「シャナ様を? ……美冬様を?」

レイの問いに、コウは黙る。壁にもたれ、頭をかく彼の腕は、ほんの少しだが以前より細くなったように感じた。それがレイには痛々しく思える。

シャナの姿が見えなくなってから、コウは本当に食事を取る間も惜しんで彼女を探していた。《門》の力を借りて違う世界へ行ったことを突き止めたとき、レイはまさかその後を追うとは思わなかった。更なるおまけを連れて戻ってくるとも思わなかったが。

美冬が来てからは、その調整に苦心していたことも知っている。心身ともに悲鳴を上げている頃だろうに、絶対にコウは弱音を吐くことなく全てを一人で負っている。

「美冬には……無理を強いている。この世界に生きるものとしては愚か過ぎるが、美冬が生きている世界はこことまるで違う。俺は実際に見てよくわかっている。だから戻してやりたい。アレドの平穏の為にも、美冬のためにも、シャナに戻ってもらうしかない」

「……でもそれがシャナ様を苦しめる、とお考えなのでしょう?」

手にとるように、コウの考えはわかる。シャナのこともコウのことも、レイは子どものころからずっと見ていた。だからコウの葛藤はよくわかっているつもりだ。

だが、シャナのこともわかっている。

「あの方は大丈夫ですよ。遊びたかっただけ、とおっしゃったのでしょう? たぶんそれは、本心です。王になるという運命を、シャナ様は自分なりにきちんと受け止めていらっしゃいます。ただ、それまでに少し違う世界を見てみたくなったのでしょう。それ以上でも以下でもなく、本当にそうなのだと思いますよ」

そうだろうか、と呟きながらも、レイの言葉は、すっとコウの胸に落ちた。ぎゅっと目をつぶった彼に、レイはもう一度大丈夫、と繰り返す。

「シャナ様は、それよりあなたにきちんとご自身の人生を生きてほしいと望んでらっしゃいますよ。あなたが従妹を案じているように、シャナ様もあなたを想っていらっしゃいます。あなたには、あなたの望むように生きてほしい。あなたの本当に大事に思うものを大切にしてほしい。……以前おっしゃっていました」

元々の曇り空のせいで気づかなかったが、いつしか夜になっていた。コウはしばらくじっと考えるように動かなかったが、不意に目を上げる。その眼光は、完全にいつもの冷静さを取り戻していた。

細く長い指で、さらりと落ちる髪をきつく縛る。

「恐らく、継承式はこの週のうちには行われる。母上のご様子からもそれが限界だ」

「コウ様……」

「《門》を探す。--守りたいものがある」

今までとはちがう力強い言葉に、レイはただうなずいた。

無理をしないように、と言おうとしてやめた。無理など、限界などとうに超えているのだ。それでも、守りたいもののために。

「お気をつけて」

小さく頭を下げると、コウは屋敷を後にする。動けるのは夜の間だけ。朝になれば、また重鎮たちと美冬のやり取りの間に入らなければならない。目を細めて、レイはその後姿を見送った。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る