第2話

母の呼ぶ声がする。

だが、動けない。手足が自分のものではないように重く、全く身動きが取れない。怖さとあせりと…とにかく返事を、と唇を開いたときだった。

「何でしょう」

凛とした、声がした。美冬の立場で答えた……だが、それは美冬ではない。どういうことだ、と必死に声のしたほうを見ると、そこにいたのは《美冬》だった。だが、もちろん自分ではない。だれ、と目をこらして見つめると、不意に《美冬》がこちらを見た。

それは、シャナだった。


「シャナっ!」

叫びながら身体を起こす。だがそこは、いつもの家ではなかった。さっきの森でもない。

木はたくさんある。それはさっきと同じだが、あの場所よりももっと開けていた。見渡す限りの木々。その横手には湖が見える。

美冬の住む町に、湖などない。水場があるのは小さな川だけで、目の前に広がるのはそんなものとは規模がまるでちがっていた。

空には、黄金に輝く月が昇っている。

遥か高い天上から、ただ静かに、そして優しい光を落とす。その姿を湖面にたたえたそれは、とても美しい青をしていた。その色に、ふと自分を助けようとしてくれた少年の瞳が浮かぶ。

彼はどこへ? 

そう思って立ち上がり、改めて美冬は周りを見渡した。

以前本で見た、想像の原始時代の姿にも似ているようだった。辺りには自然のものしかない。ビルも学校も、もちろん美冬の家も。本当に、人間が誕生する前の世界に来てしまったかのように、人の存在を感じるものが、何一つない。

 ここはどこなのか。

 自分はどうしたらいいのか。

 なぜこんなことになったのか。

 考えても答えが出る気配すらない質問が、ぐるぐると頭を回る。

沈黙を切り裂くような声が聞こえたのは、その時だった。

 キキーっ、というサルのような声だった。耳に障るその甲高い声が不快で、美冬は思わず耳をふさぐ。その目に、大きな足のようなものが見えた。

 恐る恐る目を上げると、まさに猿のような生き物がいた。だが動物園で見たようなかわいいサイズではない。美冬など軽くその手に収まるほど大きさだ。こないだ父が観ていた、パニック映画のサルがこれくいだったかな、などと現実逃避したことすら頭に浮かぶ。だがそれも一瞬だった。

 きゃあともぎゃあともつかない声を出した美冬に、そのサルが襲いかかってきた。逃げようとするが、あまりのことに腰が抜けて動くことすら出来ない。

 ホラー映画のようにぐちゃぐちゃにされて殺されるのか、それとも食べられるのか…涙の浮かんだ目をぎゅっと閉じるのが精一杯の美冬が、次に聞いたのは、草を踏む音と…

 「ぼけっとするな、早く立て!」

 聞き覚えのある怒鳴り声だった。

 ぐいっと腕をつかまれ、美冬は無理やり立たされる。その視線の先にいたのは、やはりコウだ。シャナにされたのと同じように、だがあの時よりも強い力で引きずるように走らされる。そんな二人に、サルは怒ったような唸り声を上げた。地を割くような声は、思わず耳をふさぎたくなるほど恐ろしい。だがその余裕すらコウは与えてくれなかった。しかし、いくら走り続けても、サルはその巨体から想像が付かないほどすばやい。追いつかれる、と思ったその時、コウが足を止めた、もはやこれまでか、と思った美冬の肩を、コウは強く片手で抱く。そして、もう片方の手をサルにかざした。

 「《去れ》!」

 短く、そして力強い叫び。その途端、コウの手が強烈な光を放った。間近に迫っていたサルの顔に光は直撃し、その巨体が吹き飛んだ。開いた口がふさがらず、ただ見つめる美冬の前で、どう、と音を立ててサルがくず折れる。映画やアニメの中でしか見たことのないような光景に、ただ呆然とする美冬に、コウはため息をついた。

 深い海のような青い瞳。水底まで見通せそうに澄んだ……そして、水底のように冷たい色をたたえ、コウは美冬を観る。

 「隙が多すぎる。こんなところでぼけっとしてるなんて、殺してくれといわんばかりだ」

 「…知らないよ。目が覚めたらここにいただけで、こんなところとか言われたってここがどこだか知らないし」

 つぶやく内、美冬の目に涙が浮かんだ。

 そう、知るわけがない。普段美冬がいる所では、ただ立っていただけで突然サルに殺されかけるなんてありえない。大体、今日美冬は特別何をしたわけでもないのだ。ただ、嵐のように強烈な人たちと出会って、流されるまま動いていただけだ。有無を言うことすら出来ず。それでなんで、

 「何でそんなこと言われなきゃいけないのよ…っ!」

 最後は、声にならなかった。悲鳴のように訴える言葉はかすれ、嗚咽のほうが大きくなる。一度泣き出すと、もう止まらなかった。

 見たことのない景色、知らない人、全く見当たらない日常、恐ろしいバケモノ。

 不安と恐怖しかなかった。

小さな、二、三歳の本当に小さな子どものように、美冬はただ泣いた。そんな彼女に、コウは苛立ったようなため息をついた。そして、おもむろに手を上げる。

殴られる!

  とっさにそう思った美冬は、身をすくめる。だが、予想に反してコウは美冬を抱きしめた。戸惑いながら、慣れのない感じで--だが、しっかりと。

 それまでのぶっきらぼうな冷たさからは考えられない優しさに、美冬は目を瞠る。だが今は、ただその腕に甘えて泣き続けた。



 「--ここはアレドの地。おまえが生きる場所とは、ちがう世界だ」

  美冬が泣き疲れ、落ち着いたのを見計らって、コウは静かに語り始めた。

時計はない。だが、月の高さからさっき目を覚ました時より随分時間が経っていることはわかった。少し肌寒さを感じ、美冬は身震いした。

  一度だけ、海へキャンプに行ったことがある。その時の澄んだ空気と、耳が痛くなるような静けさは今も覚えている。この場所の空気は、その時に似ていた。

 「ちがう世界……? 国がちがうとかじゃなく?」

 尋ねた美冬に、コウは少し目を丸くした後、軽く笑った。出会ってこの方、厳しい表情しか見せてこなかった彼のその柔らかい笑みに、美冬は思わず見惚れた。

 「おまえの世界でも、国さえちがえばあんな巨大なバケモノがいたり、手から光を出せるようなやつもいたりするのか?」

 だが、その口から出てきたのは、意地の悪い憎まれ口。からかうようなその口調に、美冬は唇を尖らせる。そんな美冬にふっと笑んで、コウは歩き出した。美冬は戸惑いながらもその後を追う。

  大きな大きな湖に沿って、二人はゆっくりと歩く。どこまでも同じ景色が続くのかと感じたが、やがて遠方に明かりが見えてきた。だが、美冬の街にあるような街灯ではない。それはたいまつにも似た、自然の火だった。

 「俺たちのこの世界と、おまえが住む世界とをつなぐのが、《門》だ。《門》は幼子の姿をしているが、この星が生まれた頃からこの二つの世界を見守る、全てを超越した存在だ」

 「《門》って……シャナが呼んだら出てきた、あの子ども? え、じゃあ何百年もずっと生きてるの? あの子。おばあちゃんなの?」

  おかっぱ頭に白い着物、赤いはかまの少女。彼女は確かにとても小さかったが、子どものようには感じられなかった。聡明な、全てを悟りきったような表情。だが、だからといって大人でもなく……そう思うと、コウの言う「全てを超越した存在」という言葉がすっと胸に落ちる気がした。

 「ずっとあの姿だが、子どもではない。年寄りとも違う気がするが……。とにかく、《門》の力があれば、こちらとあちらの世界を行き来することが出来る。だが、頼めばすぐにいかせてくれるわけじゃない。《門》が出した条件を満たす必要がある」

 「条件?」

 「シャナは、たぶん自分の身代わり見つけることを条件に、おまえたちの世界へ行った。そして、自分の身代わりにおまえを選んだ。だから、おまえをここへ送りこんだんだ」

 「身代わり? 私がシャナの? 何で、同じくらいの年だから?」

  頭の周りにクエスチョンマークをいっぱい飛ばしながら尋ねる美冬に、コウはあきれたような顔をした。だが美冬にはその意味がわからない。疑問符だらけの顔をした美冬に、コウは突然腰のナイフを抜いた。殺されるのかととっさに目をつむった美冬に、見ろ、と低くつぶやく。

 「おまえとシャナは、双子のようにそっくりだ。まさか気づいてなかったのか?」

  コウの言葉に、美冬は吹きだしそうになった。シャナの顔を見ていた時間は、1時間もなかった。それでも彼女の、鮮やかな花のような美しさは脳裏に焼きついている。だが、笑い飛ばそうとした美冬は、剥き身の刃に映った自身の顔に言葉を失った。

  そこに見たのは、確かにシャナにそっくりな少女だった。

だが、確かに似てはいるのだけれども何かが違う。その「何か」が、恐らく似ているとは微塵も感じさせない決定的な違いなのだろうと思った。

答えが出ず一人押し悩む美冬を置いてけぼりにし、コウの話は続く。

「シャナはアレドの、次の王になるはずだった。だが、その継承式を目前にして突然姿を消した。俺は、そのシャナを追う為、おまえたちの世界へ行ったんだ」

 コウの話は美冬の想像を絶したものだった。

 あのシャナが王様? 確かに随分えらそうな感じはあったが……だが、今起こっている全てのことが普段の生活からは考えられなさ過ぎて、美冬はただぼうっと聞いていた。驚くことばかりで、もう何が特別とんでもないことなのか、わからなくなっていたのだ。    

相槌すら打てず、ただ聞きつづける美冬の様子をうかがいながら、コウは言葉を選ぶように話し続ける。

「シャナを連れ戻せず、結果的におまえを巻き込んでしまった。どうにかもう一度おまえたちの世界へ行ってシャナを戻したいが、《門》にはいつでも自由に会えるわけじゃない」

「じゃあ私はどうしたらいいの?」

「とりあえず、一旦屋敷へ行く。アレドの民はよそ者への警戒が半端じゃない。さっきのサルのようなバケモノもこの地を狙う敵のひとつだが、知らないものは全て攻撃する対象とみなす」

「それって、見つかったら私は攻撃される……殺されるってこと?」

「可能性は高い」

「そんな……っ!」

甲高い声で悲鳴を上げかけた美冬の口を咄嗟に強い力で抑え、だから、とコウはささやいた。

「気づかれないよう、静かにしてろ」

言われて美冬は目を瞠る。

いつの間にか、大きな建物と、そこを守るような燃えさかる門の火が目前だった。



それは、美冬が普段見慣れているコンクリートで出来たものとは違っていた。時代劇でみる昔の武士の家に似ているような……でも、日本らしい感じとも少し違う。とても広い建物で、その分一階しかないようだった。敵を威嚇するような巨大な門、二人の屈強な男が守っていた。彼らのいでたちはいたってシンプルで、お寺で見る作務衣にも似たもの。だがその手にしっかり握られた巨大な槍と、男たちのいかめしい顔つきは、常人がかなうとはとても思えないものだった。

ばちばち、と火のはじける音がする。とても近い距離ではあったが、うまく木の陰があるおかげで、彼らからコウと美冬はまだ見えていないようだった。

まさか彼らと戦うのか、と内心美冬はどきどきするが、コウはしばらくその様子をうかがった後、不意に門とは違うほうへ歩き出した。

見つかったら殺される。

その言葉だけが頭の中をぐるぐる回り、美冬は息も足音も押し殺し、その後をついていく。

木々が茂る中をしばらく歩き、建物の周りをぐるりと回ったところで、コウがふと足を止めた。一見ただの壁に見えたが、よく見ると小さな扉が付いているのが見えた。

「ここはどこ?」

ひそめた声で尋ねる美冬に、コウは辺りの様子をうかがいながら答える。

「アレドの王族の屋敷。シャナが住んでいるところだ」

美冬は目を丸くする。王様が住んでいるところなど、ある意味最も危険なところなのではないのか。非難交じりの視線を向ける美冬に、だがコウはまるで構うことなく胸元から一枚の薄い布を渡した。

「頭からそれをかぶれ」

「え?」

「いいから」

言われるまま、中東の女性がしているようにその布をかぶる。素材は薄いが、はっきりとは顔がわからないくらいにはなった。それを確認すると、コウはすっと扉の前に立つ。その前で、響き過ぎないように、だがしっかりと聞こえるように、二回手を叩いた。

「レイ」

ささやく様にコウが声をかけると、木の扉がぎぃ、と古い音を立てて開いた。その奥には、美冬より少し年上くらいの少女が不安そうな表情を覗かせて立っていた。王族が住む屋敷に住んでいるからなのか、その服装はきらびやかだった。竜宮城の乙姫さまみたい、とぼんやり考える美冬を、コウは手招きした。恐る恐る木陰から扉に近づいた彼女に、レイと呼ばれた扉の向こうの少女は目を丸くした。

「シャナ様……?」

「--だったら、こんな裏口から入らない」

ため息混じりに答えたコウに、レイはですよね、と軽く返した。じゃあ一体、と探るように美冬をしげしげと見つめる彼女に、コウは後で話す、と伝えてから美冬をレイに突き出す。

「とりあえず、湯を使わせて今日は休ませてくれ。詳しいことは後で話す」

先ほどの、メインらしい建物とは分かれた、離れのような場所に二人は歩いていく。ついていった先で明かりに照らされたコウの表情からは、とても疲れが見えた。

自分も疲れたが、確かに彼も相当に疲れただろう。

そして、思えば今日、美冬はずとっと彼に助けられていた。

「彼女はレイ。シャナの侍女だ。おまえの世話を任せるから、何かあればレイに言えばいい」

「……コウは?」

思わず口をついた問いに、そばにいたレイが目を大きくし、肩をすくめた。そんな彼女を軽く睨み、コウは美冬に向き直る。

「俺も、もちろんここにいる」

おやおや、と顔を緩ませるレイにだがそれ以上構うことはなく、コウは背を向けた。思わず手を伸ばしかけた美冬をレイは反対方向に引っ張った。

その細腕からは考えられない、強い力で。

「あなたの世界ではどうか知りませんが、ここでは湯を使うときは男女別です。大丈夫、そんなに不安にならなくても、さっきおっしゃったとおり、あの方はここにいらっしゃいますよ。お世話役の私はとても優しいですし」

にっこり微笑んだレイに、美冬も引きつった顔で笑った。

確かに悪い人ではないのだろう。コウが信頼している様子からも、信じてよいのだと思う。だが、初対面の相手に「自分は優しい」と自己紹介する人は、

何となく、一筋縄ではいかなさそうな気がした。



湯を使う、の意味があまりよくわからなかった美冬だったが、それはつまり風呂のことだった。驚くことや怖いことの連続でそんなことを気にする余裕がなかったが、改めてみて見ると身体や服は土などの汚れがたくさんついていて、おまけに汗臭かった。そういえば、10年近い人生の中で今日が一番ハードに走った気がする、と他人事のようにぼんやり思った。

「では、美冬様は普段もっとおとなしい世界にお住まいなのですね」

「おとなしい、かはわからないけど、少なくともいきなりサルに殺されかけたりはしないかな」

「なるほど。それは素敵ですね」

馬鹿にされているのかとも思える言葉だったが、実際に立っているだけでサルに殺されかけた美冬は、確かに、と素直に思った。

勉強しろとか、お茶碗はちゃんと持てとか、部屋を片付けろとか、休み時間はみんなで遊べとか。

口うるさく言われるそれらをめんどうくさい、うっとうしいとは思うものの、いつも本気で命の危険を感じなければいけないこの世界に比べれば、なんて平和で素敵な世界なのだろうと。

「……シャナは、つまらないって言ってた。だから、ここじゃないどこかへ行きたいって。つまらないなんてここで感じる余裕、私にはないけど」

美冬の言葉に、レイは目を丸くした。美冬の髪を乾かしてくれていた手が一瞬とまる。

「つまらない、ですか……。確かにシャナ様はそう感じていらっしゃったのかもしれませんね。結局どんな立場でも、慣れてしまえば繰り返し。その立場なりの窮屈さがある。次期王と定められたシャナ様には、重圧も強制もたくさんあります。普段あの方は、お年からは考えられないほどそれらを冷静にこなしていらっしゃいましたが、やはりつらく感じられることもたくさんおありなのでしょうね……」

美冬に答えながら、レイは遠い目で呟いた。ところどころ難しくてよく意味がわからなかったが、何となく聞き返せる雰囲気ではなかったし、次の王様というのが気楽な立場じゃなくて色々しんどい、ということは何となくわかった。

お世話係だというレイは、そんな主人の思いを改めて聞かされ、少しショックを受けているようにも感じた。余計なことを言っただろうか、とうかがうように見た美冬に、レイは微笑む。

「では美冬様、こちらのお召し物をどうぞ」

渡された服は、レイが着ているよりも更にきらきらした衣装だった。そう、これはもう「服」ではない。劇か何かで着るような「お姫さまの衣装」だ。呆然と眺める美冬に、着方がお分かりではありませんよね、と冷静にレイが着替えを手伝ってくれた。そういうこともあるが、そういうでもない。クラスメイトに見られたら爆笑されそうなお姫さま服をどうにか身につけ、髪も綺麗に整えられる。もう寝るんじゃなかったっけ、というか寝たい、と思いながら、美冬は連れられるまま鏡の前に立つ。

「いかがですか?」

レイに問われ、うん、とあいまいにうなずく。服装が違うのはもちろんだ。だがそれだけではないように感じた。自分の姿が、きれいだと感じた。

「……シャナ様は、いつも背筋をしっかりとのばしていらっしゃいます。幼い頃からのご教育のたまものですが、特にそれを感じるようになったのは、次期王位を継がれることが決まってからです」

静かに、先生のような諭す口調でレイは話した。言われて美冬は、あぁ普段と姿勢がちがうのだ、と理解した。いつも着るのとは違う、この美しい衣装を身に着けた美冬は、知らず背筋を伸ばしていたようだった。その姿勢と緊張感が、自身を美しく感じさせたのだと。

「先ほどよりずっと良いですよ。そのお姿は、いつかまたもとの世界にお帰りになっても維持されると良いでしょう。先ほどのお姿はなんというか、猫というかサルというか……失礼、でもそうように見えましたので」

ほめてくれている、と思った後での強烈な落とし具合に美冬は思わず目を見開いた。猫背になっている、と注意されたことはあるが、サルだといわれたことはさすがにない。そんな美冬にくすくす笑うレイは、やはり食えない人だと感じた。

湯屋から寝室だという部屋に案内される途中で、不意に人の気配を感じた。

よそものだと知れたら殺される。

咄嗟にレイの背後に隠れた美冬に、彼女は呆れたような声を出した。

「ご立派過ぎてわかりませんか?」

レイの声に、美冬は相手を恐る恐る見上げる。渡り廊下の欄干にもたれたその人は、どうやら美冬たちを待っていたらしかった。

黒い衣装は同じだったが、活動的だった先ほどとは違い、ゆったりとした長衣を身にまとっていた。きつく結んでいた漆黒の髪も、今はおろされている。その雰囲気の違いからか、瞳の青も今は何より賢明さを感じさせた。

「……コウ?」

そうに違いない、だが別人のような印象に、思わず美冬は問うた。相手はそれに答えることもなく、じっと上から下まで美冬を見つめる。冴え冴えとした月を頬に受けた彼は、先程までよりずっと大人びて、またずっと美しく感じられた。それ以上の言葉を口にできず、美冬は金縛りにでもあったように立ち尽くす。

それは長いような、だがきっとほんの一瞬。ふっと鼻で息をつくと、腰を浮かせた。すれちがいざまに美冬の頭をぽんと押さえ、呟く。

「馬子にも衣装」

 突然の言葉を美冬はうまく聞き取れず、レイは吹き出した。だがそれ以上何を言うこともなく、コウは廊下の奥へ消えて行った。



レイが案内してくれたのは、シャナの寝室だった。想像するプリンセスのお部屋、ではなかったが、整えられた家具や小物は、よくわからない美冬から見ても品の良いものだと感じた。布団とベッドの中間のような寝具に、美冬はもうレイの目を気にする余裕もなく倒れ込んだ。

改めて感じる。本当に疲れた。

そんな美冬の思いを察したのか、レイは少し眉をひそめたものの注意はしなかった。だが、立ち去ることもなく、そばに立ち尽くす。

「……なに?」

もう寝たいんだけど、という若干いらだちの混じった声にも、レイはまるで動じない。「ひとつだけ、コウ様よりお言付けがございます」

あえてだろう、堅苦しい言い方で「大事な、まじめな話があります」と伝えてきたレイに、美冬は目いっぱい嫌な顔をしながらも、何とか体を起こした。聞いている途中で寝てしまうかもしれない、と思ったが、

 「明日から、あなたにはシャナ様の代わりをしていただきます。以上、ではおやすみなさいま……」

 「いやいやいや!」

 杞憂だった。むしろ眠気が吹きとんだ。

 言い逃げしてそのまま立ち去ろうとしたレイが、思わずひるむほどの声で美冬が呼び止める。だがそれ以上の言葉が続かない彼女に、レイはため息をつく。

 「コウ様からお聞きかと存じますが、アレドの民はよそ者、すなわち敵、とみなします。あなたがあくまでも『巻き込まれてうっかり紛れ込んでしまった美冬様』のままでいようとするならば、あなたは『よそ者』です。私はもとより、コウ様でもあなたをお守りすることは出来ません。ですが、あなたが『シャナ様』としてふるまわれるのであれば別です。幸い、シャナ様がご自身の身代わりとしてお選びになっただけのことはあって、お顔立ちはシャナ様にそっくりです。もちろん育っていらした環境が違うので、ぼろが出る可能性もありますが、そこは我々がお助けすることもできます。もちろん、美冬様のお心がけが何より大切ですが」

淡々と語るレイに、美冬は金魚のように口をパクパクするしかできなかった。

彼女の言うことは、わかる。なぜよそ者=敵=殺す、という野蛮な考えが当たり前なのか納得できなかったが、世の中にはそういう人たちもいて、ここがそういうところだということは、もう理解せざるを得なかった。だからといって、ここから逃げ出したところで、もっと危険そうな人だのサルだのバケモノだのに会うことも容易に想像が付いた。

 「……でも私に王様なんて出来ない」

 「シャナ様は、まだ王ではありません。近々おなりになる予定ですが……。それまでに、コウ様が解決してくださると良いのですが」

 それに、と言葉を切ると、レイはまっすぐに美冬を見つめた。

「シャナ様は、『普段の生活がつまらない、ここではないどこかへ行きたい』そうおっしゃったとあなたは先ほど言われました。《門》があなたを身代わりと認めたということは、あなたご自身にもそういう思いがおありだったのではないですか? 顔が似ている、ただそれだけではなく、強く引き合う同じ想いがおありだったからこそ、《門》は動かせたはずです」

 「それは……でも、こんなこわい世界に来たかったわけじゃないし……」

 「先ほども申し上げました。どんな立場でも、慣れてしまえば繰り返し。その立場なりの窮屈さがある。それをどうこなすかは、ご自身次第です」

 今までの、丁寧ながらもどこか軽く親しみのある言い方ではない、厳しい言葉をレイは静かに放った。

 それぞれの立場。

 シャナは美冬とほぼ変わらない年だろう。だが、まもなく王としてこの凶暴な民族をまとめていかなければならない。

 レイだって、美冬よりは少し年上に見えるが、「大人」と呼ぶほどではないだろう。だが、自分の主人に仕え、いつもお世話をしている。

 それぞれの立場から、それなりの繰り返しを、時に退屈に窮屈に感じながらも、黙々とこなしている。

 ……そういえば。

 「コウは、どういう人なの?」

 コウ様は……と少し言いよどんでから、レイはため息をついた。少し空気のやわらかくなった彼女に、美冬はとんとん、と寝具を叩いて横に座るように促した。

 気遣った、というよりは、前に立っていられるのが少し息苦しかったから。

 シャナとはなかったことなのだろう、ためらいを見せたものの、レイは失礼いたします、と頭を下げ、少しだけ腰をかけた。

 「コウ様のお立場は、現王のご子息、つまり皇子でいらっしゃいます」

 「……王子様? あの人?!」

 レイのまさかの答えに、美冬はすっとんきょうな声を出した。

 王子様、といえば、わかりやすく浮かぶのはおとぎばなし。だが、コウはそれらのイメージとはかけはなれていた。とはいえ、思い返せばコウは出会ってからずっと美冬を助けてくれていた。ぶっきらぼうながら、冷たいながら、時にからかいながら、それでも。

 「え、でも王子さまなのに、次の王様じゃないの?」

 「アレドの王は、女性が継ぐものと決まっております。現在の王も、コウ様のお母様です。コウ様が女性であれば、またはコウ様にご姉妹がいらっしゃれば、王位をシャナ様がお継ぎになることはなかったのですが、あいにくいらっしゃいません。いずれコウ様がご結婚なさり、お嬢様がお生まれになればその方になったのかもしれませんが、王のお体はそこまでもうお持ちになりません。その為、王の姪、コウ様の従妹に当たるシャナ様が王位を継がれることになったのです」

 「そうなんだ……残念だったね」

 思ったことをそのまま口にした美冬を、レイはあきれ果てたように見た。嫌味をこめてか、思い切り深いため息をついて首を振る。

 「逆ですよ。王位を継ぐとは、重責を負うということです。コウ様は、ご自身が負うべき業を、シャナ様に負わせてしまった罪悪感にさいなまれていらっしゃいます」

「でもそれは……」

「それは、コウ様のせいではありません。もちろんシャナ様のせいでも、王のせいでも。そんなことはご承知の上で、それでもそう感じてしまう。あの方は、そういう方です」

 レイの言葉には切なさを感じた。美冬にとってそれは理解の出来ない感覚で、ふぅん、とただ顔をしかめる。

 「一方でシャナ様は、王位を継ぐことが決まったときも、ただ粛々と受け止めていらっしゃいました。幼い頃から、その可能性があると伝えられ、準備もしてこられたからでしょう。それが自分の運命だと、そうおっしゃっていたのですが……王位の継承式の直前に、突然姿を消されたのです」

 「そして、コウはその後を追って向こうの世界に来た……」

美冬の言葉に、レイはうなずく。思い出すのは、出会ったときの二人の言葉。

『逃げることなど出来ないと、わかっているだろうに』

『そんなことは知っている、それでも』

「少し、遊んでみたかったのさ」

 シャナのセリフを、美冬が舌に乗せる。それが自分の主人の言葉であったことをレイは察したのだろう、目を伏せた。何の文句も言わず、ずっと求められる役割を果たしてきた……だが、所詮は十やそこらの少女だ。自由を求める本心に、そしてそれをずっと見抜いていた、それでも追わざるを得なかったコウの苦しみに、レイはそっと唇をかんだ。

 だが、思い直したように微笑んで、レイは立ち上がる。

 「長々と失礼いたしました。お疲れでしょう。ごゆっくりお休みください」

 「ありがとう」

 大変な話を聞いた、という思いの裏側で、やっと解放された、と感じたのも事実だった。天井を仰いでそのまま突っ伏しそうになったところで、レイがそうそう、と意地の悪い声を出す。

 「コウ様がここまで人に関わられるのは初めて見ました」

 それはつまり、どういうことなのか。なぜそんなことをわざわざレイは言ったのか。聞きたかったがもはやその力もなく、考えるまま眠りに落ちた。



 疲れから、美冬は泥のように眠った。その為もあったのか、今自分が見ているものが、夢なのか現実なのかよくわからない。

 美冬は家族の姿を見ていた。普段遅い父も、今日は一緒に食卓についている。弟の秋真はいつも通り《美冬》にチャンネル争いを仕掛けていた。「絶対俺はこないだの『ハチレンジャー』を観る!」 とゆずらない秋真に、「だめ! 私はドラマを観るんだから!」 と返すのが常だ。だが、今美冬が眺める《美冬》は、そんなことは言わない。

 「ハチレンジャーとやらを観たいなら観ればいい」

 普段の美冬とは全く違う発言・話し方に、家族の全員がぽかんと口を開ける。だが、観ないのか? と問われると、秋真はあわててチャンネルを変えた。そんな彼女に、お母さんは少し戸惑ったような笑みを見せる。

 「急にお姉さんになったわねぇ、美冬。何だか姿勢も食べ方もいつもよりすごく綺麗だし。何かあったの? 何か……誰かに言われたとか? 悩んでいることでもある?」

 単に成長、では片付けられず、たまらず尋ねた母に、《美冬》は目を見開いた。だが、すぐに大きく首を横に振り、にこっと笑った。

 「何もありません、母上。何も変わらず、とても楽しいですよ」

 「は……ははうえ?」

 母は驚きのあまり目をむいたが、父の「まぁまぁ、学校でそんな遊びでもはやってるんじゃないか?」という言葉にむりやり自分を納得させている。

 そんな光景をただ何も言えず眺める美冬を、《美冬》……シャナは突然見つめてきた。

突然ばっちりと合った目。を呑んだ美冬を挑むように見ながら、シャナはゆっくりと唇を開く。

 「どうだ? そちらも楽しいか?」

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