影と獣と切なる祈り
「にゃ。誰か聞いていたかにゃ? バレたらお説教直進行でござにゃ~。んにゃ、拙者なにも言ってござらんにゃーぞー?」
お説教がある、と言っているが、それがこの女にまったく響いていないのは一目瞭然。
使い方が少し違う気がするも「馬の耳に念仏」並みに説教が説教として受理されていないのは明白というかもう、圧倒的事実である。大きな風が吹き、女の髪を戦旗のようにはためかせる。
「あー、聞いとったでござるか~。にゃー、内緒内緒、内緒にゃよ~お~ぉ~。……おろ?」
るんるんたったと歩く影のぼやき。が、不意に歩調が緩む。影の前方に巨大ななにか。
黒い剛毛に赤い瞳。剝きだしの牙は涎を纏っている。女の前に立ち塞がったのは戦国の自然界においては食物連鎖の頂点に君臨する化け物。
「自然豊かな地でござるなー。たまに狩人気分も味わえるなんていい旅行だにゃ~これ」
影の背後で巨体が倒れる。戦国の化け物が白目を剝いてひっくり返るところだった。影は右腕をふりふりしている。爪に獣の剛毛が数本はさまっていることからその手が凶器になったのだとわかる。わかるが、素手で化け物を昏倒させるという点が一番恐ろしい。
歩みを再開した影はどんどん山の奥深くへと向かっていく。地元民どころか獣ですら踏み入れない急勾配の斜面や歩きにくい岩が転がる地面。鬱蒼と茂った丈の長い草が足を取る筈なのだが、影はまるで普通の道を歩くようにサクサクどんどん奥へと進んでいく。
影はウセヤの奥深く、深層のその先へと踏み入っていき、ある一点で足を止めた。
見渡す限りなにもない。獣もひともいない。
「慎重にいかねばな、ポルフセク?」
「ゴルル……ッ」
「にゃー? まだ根に持っているのか?」
踏み込んでいった影以外にはなにもいない。そう思われていたが、違った。影の声に返事をするように唸ったナニカがいた。いったいどれほどの巨体なのか。先の猛獣の唸りが可愛く思えるほど低く重い唸り声だった。
なのに、影ときたらまったく気にせず話しかけている。もう、心臓の強度をはかるのすら怖い。だが、急に影は背後を振り返った。肉眼でそして望遠鏡であっても遮蔽物があって見えずとも視線の先にはウッペ国の都フォロとウッペ王族と近衛たちが住む城がある。
「お嬢様……」
ウッペ城に女は大切な者を見ている。彼女のことを見守ってきた。影ながらずっと。
本当なら、任せてほしかった。それくらい女はお嬢様と呼ぶ彼女のことが大切だった。
でも、許されないから耐えるしかない。この先にも苦しみと悲しみは待っている。たっぷりといやになるくらい。待ち構えている。できることなどなにもない。できない。
未練がない、と言えば嘘になる。未練たっぷりだった。こんなのいやだ。彼女が辛い思いをするのが苦しい。しかし、女の未練程度は女に出向を命じた者たちの苦悩の一割にも満たない小さなものでしかない。あのひとたちの懊悩を思えばこの程度……。
「ゴミ共が動きはじめたな」
「ゴァアウっ」
「落ち着け。あのクソ共が焦れば焦るだけ我らはやりやすくなる。落ち着いてひとつずつ確実にゆったり行おうぞ。欲深きの罪を思い知らせねば。我らのお嬢様を害することの意味を心身に叩き込まねばなるまいて」
ポルフセクの大きな声に返す影の声は氷のように痛いほど冷え切っている。クソ共と罵った者たちを蔑み、憐れみ貶す。その声は情けのない非情な処刑人のものだった。
くだらない漠然とした殺意ではない。明確な意思であり、目的をさだめた者の発する本物の殺気。残酷な色を持つ声は宝を害されることに怒りと殺意を轟々と燃やしている。
「真の光に宝石ぞ在り。暗黒の中に穢れ在り。闇は光で光は闇。逆さの世界は悲しきか」
「ゴォアアアアアアァアアアアアアッ!」
意味があってない言葉。返されるのは咆哮。影は踵を返して跳躍。一気に上空にまで抜ける。ポルフセクの咆哮のこだまがまだ残っている。影は続きを呟く。静かな声。
「光を偽証したクズ。いまだ現れぬ底の闇」
風に混じる影の声。影は疾走する。戻る為。進む為。取り戻して元ある姿に戻す為に。
「終焉が近い、か」
一言零した影は高い場所に、枝先へ器用に留まる。見下ろす先にある城。剣劇の音が聞こえてくる。今日も誰かを捕まえて稽古をしているらしい。鍛練に励む様が目に浮かぶ。
「なあ、世界よ、お前はお嬢様に情けをくれるか? 欠片でいい。あの御方に救いを」
影の祈りは風に吹き散らされて消えていく。それでも影は祈る。大切な――の為に。
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