風を背に……


 その微々たる動きがサイの笑みだというのに気づくまで少しかかった。突然のご褒美のようであり、それはなんとなくサイがだんだんと悪魔から抜けてきている証のような気がしているからだ。今までサイの表情は凍っていた。無表情の権化だった。


 だから嬉しい。また、嬉しい。サイを取り戻せたことに加え、悪魔から人間の方に向かって舵を切っている。そう思うと、つい目頭が熱くなる。


「む? 変な顔してなにか。顔芸……いや、くしゃみならばあっち向いてしろ。汚い」


 ……。うぅむ、人間味を帯びてきたのはいいことなのかもしれないが、やはり口の悪さはもう少しなんとかいい感じに言って矯正した方がいいかもしれない。


 ひとがせっかく感激しているのに、顔芸とかひどい。まあ、そのあとで言い直してくしゃみだと思ったまではいいが、汚い、とつけてしまったらもう、相手がセツキだったら、するかしないかは置いておいてごめんなさいをしなければならない。


 そう思うと、サイっていつもいつもかなり説教危機一髪な綱渡りをして、しまくっている気がする。現実の綱渡りは抜群の平衡感覚と集中力でなんら危なくないんだろうが、言葉の綱渡りはサイが教えてくれた異国語の「べりーでんじゃらす」だ。


「……いって、しまうのですか?」


 ココリエがサイの言葉綱渡り危ない思っている、と静かで悲しい声が聞こえてきた。ココリエがそちらを見るとジグスエントが悲しそうに目を細めてサイを見つめていた。まるで最愛の恋人と引き裂かれる瞬間の苦痛を浴びているかのような表情。


 いや、カザオニからの情報でジグスエントがサイにかなり強引に迫っていたのを思うとアレだ、方法はアレだったがひょっとしたら、本当に彼はサイのことを心から愛していたのかもしれない。それこそ、ココリエと同じくらいには。そう思うと少し胸が痛い。


「本来なら己を殺してから去るところだ」


「そうしないのは、わたくしのオルボウルがあなたが戻ろうとしているウッペの同盟国だから、ですか? それだ」


「それ以外になにがあるか、クソ蛇」


 うむ。いろいろ言葉の綱渡りがアレだと思った矢先にこれとはもはや天晴、なのか?


 一国の王にクソとつけたばかりか人間として見ていない発言はさすがにまずい。いったいなにをされたからサイがこんな認識をジグスエントへ持つにいたったのか。


 なんとなく想像つくが、あまり想像するとサイに叱られるし、カザオニに殺されるかもしれないのでやめておく。サイのこの反応、どう考えてもそっちのいやらしい方面でのアレがあったのだろう。破廉恥されてサイは怒り心頭に発している、と。


 帝都でココリエ相手だった時はなぜか怖がっていたのに、どうしてジグスエントだと怒るのかは謎だが、訊かない方がいいかもしれない。へたなことを訊いてなにか起こってもらっても困るし、天誅とかはないかもだが、ご機嫌を損ねたら困る。


「そう、ですか。わかりました」


 どうやらジグスエントもわかったようだ。サイの帰る場所はウッペであり、ジグスエントのそばには、彼の隣には在りたくない、ということが。


 ココリエはふう、と息を吐く。これで一件落着してまた日常が戻るのか、と。


「では、文通からはじめ、親交を」


 だから、続けて吐かれたジグスエントの言葉に驚いた。いや、驚いたなんてものではなかったし、それはサイの方もそうだった。あの彼女の目が点になっている。


 驚きすぎて呆けてしまうふたりを放ってジグスエントはさらに嬉しそうに語る。


「文通で親交を深めたなら今度はお友達としておでかけを。進展があれば逢引。そして最終的には婚姻……ふふふ」


「……」


「……。ココリエ」


「うん」


「こいつ、頭が本格的に膿んでいるぞ」


「それはちょっと言いすぎだが、否定し切れないのがなんとも言えないところだな」


 否定し切れない。本当に、なにがどうしてどうなってわかったからそういう言葉がでてくるんだ? しかも最終的には婚姻まで視野に入れているとか……なんと言ったらいいのか、すさまじい、驚嘆に値する心臓の強さだ。


 ふたりが、サイとココリエが顔を見あわせてからジグスエントを見ても彼の美貌から笑みが消えることはなく、そればかりか、自分の背後で尻もちから復活したコトハにをお見送りして差しあげなさい。と命じている始末。


 こうなってくると、もう突っ込むのも面倒臭くなる、というか、どう言っていいのかわからないので、ふたりはジグスエントの命令でお土産まで用意してくれたコトハに見送られて玄関をでて再び顔を見あわせた。


「えぇと、とりあえず、解決、か?」


「釈然としないのは私の気のせいか?」


「心配要らない。余も心は同じだ」


「むぅ、やはり一発くらい殴っておくべきだったか? それとも、顔面を変形させて」


「サイ? 怖いことをさらっと言うな」


 一応、それほど突っ込んでおいたココリエは仕方なさそうに無表情でむすっくれているサイに手を差しだした。サイははじめこそきょとんとしていたが、やがて、意図を汲んでおずおずと、ではあったが、手を重ねてココリエに案内を頼んだ。


 そうしてふたりはウッペへの道をココリエが借りてきたイークスに揺られて進み、帰っていったのだった。その背後を守るように走る風の音を聞きながら……。


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