ユイトキのお気に入り
「ここだ」
「……」
茶屋から徒歩で十分ばかりの場所でユイトキが立ち止まって先を指差した。向こうにあるものがユイトキには見えているのか男は穏やかな顔でいる。サイからは向こうの景色、というものは見えないのでなにが見えるか、とユイトキの隣に移動したサイの銀色に景色がうつり込む。
位置的にはセンジュ国になるのだろうそこ。ウッペから幾らも離れていないが、こんな場所があるとは知らなかった。サイが瞳を細めて景色眺める横でユイトキは笑う。
「某が一番好きな場所なんだ」
「ふむ」
「センジュのはじまりを、出発点を見ているようでな」
ふたりの前に広がっている光景。長閑な田園風景。ひとによっては「これがどうした」と言いそうだが、ユイトキにとってはかけがえのない故郷のはじまりを表す景色。
センジュは元々広大な地を田畑におこして農作物の恵みで発展していった国。次第に租、税金があがっていき、苦しみ喘いで死んでいく者が多くなり、耐えかねたカグラを筆頭に三十年前、叛乱が起こった。だが、国を巻き込んだ戦のあとでも農村国家として栄えていた。
そう、帝の戯れでウッペに戦を仕掛けるまでは。
ウッペに喰いついたセンジュにファバルは同情心から特別なにをするでもなかったが国に弓を引いていたカゼツツに関しては租の罰金を科した。カゼツツは謹んで罰を受け入れ、ウッペの他集落はファバルの温情ある罰にほっとした。国に弓引くなどと大罪。死罪も免れられない。
最初はファバルもカゼツツの者たち、幾人か責任者にもっと重い罰を受けてもらおうと言っていたが、サイが取り成した。サイの嘘を許してくれた者たちに温情を、と。
聞いた時、ファバルは意表を衝かれた。此度の戦でも鬼神の如き働きであった女戦士にこんな甘さがあるなどと思わなかった様子でしばらく固まっていた。
そして、最後にはルィルシエ王女にチクる、言葉を変えて告げ口する、と脅してきた。これにはファバルも参る。最愛の娘に嫌われかねないこと、それをサイが言うとなると、サイにデレデレ甘えている彼女は絶対にむくれてしまう。ファバルは卑怯だと言ったがサイは無視した。
ルィルシエの甘えん坊に普段げっそりしているだけこれくらいの我儘を通すのは当然の権利、だと勝手に思っている臭い。常識的に考えたらかなりおかしいが、サイなので通用しない。彼女に常識なんて存在していない。
「ここへやって来ると初心に戻れる気がする、とカグラ様がよく連れてきてくださった」
「カグラをこの世から消した者に話すのは嫌みか」
「戦に甘えは必要ない。必ず、誰かが死ぬ。カグラ様はいざとなったら自死してでも……だが、そのカグラ様のことで訊きたいことがある、サイ、お前はどうやって」
「む?」
「カグラ様は戦国の柱と誉を受けていらした。その薙刀の速力は神域に達していたというのに、どうしてどうやってなにをしてどうなったからお前たちは勝った?」
長閑な田園風景を臨める崖の上でユイトキは主君がどうして散っていったのか聞きたがった。
訊かれたことにサイは微妙に瞳を揺らす。
それはファバルにも、ココリエにもそしてさらには鷹と虎に突っ込まれたことだったからだ。
どうやってカグラの神速を躱したのか。自分の得意に持ち込んでココリエに仕留めさせるにいたったのか。みながみな持つ普通の疑問であることにサイはユイトキの問いで気づいた。それくらい彼女にとっては造作もないことであり、ある意味この世の摂理に従ったことだった。
「風の加速によってカグラはたしかに神速にいたっていたかもしれぬ。アレはとても速かった」
「まさか、お前はそれ以上だとでも?」
「いや。薙刀は神速だったかもしれぬ。だが、それを操るカグラの反射神経や腕の力は所詮、人間のそれだ。どんなに振った時の速度が速くてもその前に踏む工程は平均速度。向かってくる、ここで振ると思考する間だけ、脳が信号を飛ばすコンマ数秒というかすかなズレが生じる」
「えと、なにを言っているかいまいちわからぬが、薙刀の速さにカグラ様はついていけなかった、ということか?」
「うむ。まとめてしまえばそういうことだ。人間は所詮人間でしか在れぬ。神に、届かぬのだ」
サイの口から神、という単語がでると非常に微妙な気持ちになる。彼女は神を崇めたりしなさそうだし、むしろ無神論者を貫いていそうだ。それくらい深くこの世を、神のつくった世界を憎んでいる。なぜ憎んでいるのかは知れない。それはサイの心なのではかることは不可能。
だが、世界に絶望し、失望し、諦めて飽きて呆れてそっぽを向いている。それだけはたしか。
彼女は世界を憎んでいる。自身がこの世に在ることを罰だと思っている節すら見えている。
「よき戦士であった」
「サイ……」
「滅多せぬがそれでも己の主君であり、私にとってもよき戦士像を抱かせてくれたから……」
だから、特別にとでも続きそうなサイの隻眼が閉じられていき、静かな横顔となる。そして、女の唇が開かれ、音を紡ぎだした。柔らかで優しく悲しい
自然界の悲しみ、愛と日々営みを歌ったものだが、それがこの目の前にある風景に相まっていて涙腺が壊れそうになる。ユイトキがなんとかサイの唄に抗っていると曲が変化した。次に歌われだしたのは風を題材にした唄。カグラに捧げるものだ、とすぐにわかって悲しくなった。
この娘は敵であったカグラのことをこんなにも評しているのだ、と知ってユイトキは空を仰いだ。時刻は夕方の手前。もうすぐ陽が傾く。そろそろサイをウッペ城に送って帰らなければと思うのに、言いたいことがあるのに、ユイトキはなにも言えない。涙を堪えるのに精一杯で。
サイを主君の仇だと思った心がないわけではない。
しかし、どうしようもなく愛おしかった。なにも知らない無垢な魂が眩しくあり、恋しい。遠い昔に失くしてしまった心がそこにある気がして無性に悲しくてなのに、手を伸ばせばすぐそこに失くしてしまったものがある。悲しい幻想だと自覚していた瞬間、唄がやんだ。
「そろそろ帰る方がよかろう。互いに」
「ああ。……なあ、サイ」
「なにか」
いつも通りに返事をする彼女に、サイにユイトキはもう一度「好きだ」と言いたい。どんな反応が返ってきてもいいから伝えたい。だけど、でも……。
「なんでもない。気にするな。たいしたことじゃない」
たいしたことじゃない。そう。サイにとっては。彼女にとっては他人の好意などと耳の垢程度でしかない。サイにとって本当に価値のある「愛」はきっともっと尊い。
軽々しく口にできないくらいその誰かを愛しているサイは美しい。だから、ユイトキは自分を律した。王という立場からしても傭兵娘に愛を謳うことは許されない。
「帰ろうか。送っていく」
「迷うとでも?」
「違う。男は女を大事にするものだ」
「ことごとくイミフ」
そんなやり取りをしてサイはユイトキに連れられてウッペ城に帰った。そして、叱られた。
なんか、どっかの説教魔曰く勝手にいき先も告げずにでかけるのはうんたらかんたらだったが、サイはがっつり無視してユイトキに手を振って見送り、その日は休んだ。
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