SILENT DEVIL
神無(シンム)
零章――そして悪魔は産声をあげる
緋色の雪は悲泣に濡れて
白。それが視界を埋めるすべてであり、世界だった。
欧米に含まれているその国には今年、幾度目かの雪が降っていた。年の瀬も迫る候。イエス・キリストの降誕祭で町はにぎわっている。寒さが身に沁みる中買いだしに向かう主婦。近所の公園で雪合戦に興じている幼児たちとそれを見守る父兄。切り取られたように平和な絵だった。
平和の裏に隠れてしまう闇。幻想に憧れて胸焦がし続ける黒に目を向ける者はない。一般的には無用の者だから。
それらは同じ闇の中でしか在れない。そういうふうにできていた。誰が決めたわけでもない。
ただ、それはそう在れと世界がいつの間にか決めていたのであって闇たちは形のある者に責めを受けさせられない理不尽な世に在ってなお息をし続けている。
「……レン」
これもまた、そのひとつ。幻想の光景である平和な世界から弾かれ寂れ、人気のない路地裏。路地裏の奥に建つ一軒の空き家はそれだけなら異常などない。
ひとつ、即座にわかる異変としてそこは空き家ではない空き家であるというのがあった。
生活のにおいがただよう小さな家屋。開け放たれた扉。中には普通の家にあるのと同じ、否。少しばかり慎ましい食卓に降誕祭のご馳走が並べられていた。
誰かがそこで暮らし、一般家庭と同じように、世間が並べているのと同じような祝いの膳を並べていたのだ。ただし、その場にご馳走の香りなどないに等しい。
ただよっているのは潮と鉄の臭気。そして並んで濃い硝煙のにおい。路地裏に佇む空き家の前に惨劇があった。その場にあるのは赤一色。それも鮮烈な緋色であった。
降り積もった雪に飛び散った緋色が路地裏の道を恐ろしくも鮮やかに、赤く染めあげていた。
「はあ、はぁ……」
荒い息。小さな呼気の音が人気のない路地裏にたったひとつ限り響いていた。立ち込めている硝煙の臭気が鼻を刺激する中、その音だけがひとの放つ気配だった。
荒く苦しむような息は時々噎せながらそれでも繰り返される。必死で、生きようとする吐息は冬の凍てつく外気で凍りつき、白く濁って余所に流れていく。
「けほっ、はあ、はっ……レン?」
声。まだ幼いそれはこどものもの。こどもの声は路地裏の中で奇妙に反響する。溢れそうになる激情をなんとか押さえつけている声には怯えが含まれていた。
路地裏にそのコが佇んでいた。黒い髪。銀色の右目。左の目には包帯が当ててあり、そのコは隻眼だった。ひとつ限りの目でこどもは必死に周囲を見渡す。求める目。
「レン、レン? ねえ、どこ? 返事をして」
レン。誰かの名を呼びながらこどもは小さな左手で右肩を力の限り押さえつける。こどもの病的なまでに白い手が押さえる肩。そこには通常あまり見ないものがある。
ひどい出血があった。血潮が溢れる肩には爆ぜたような傷痕もある。真新しい銃傷だった。
流血しているこどもの手には幼い手に余る金属の獣――旧式ベレッタ八十四が握られていた。
イタリアで製造される全長百七十二ミリ、弾を抜いた重量六百六十グラムの自動式拳銃。警察に、もしくは護身用にと広くでまわっているそれは間違えようもない凶器。
凶器を手にしてこどもは震えていた。
この寒空にそのコは外套も着ていない。粗末でも温かなニットのシャツにパンツをあわせただけのこどもは室内ですごし、そのまま外に飛びだしたような格好である。だが、震えは寒さのせいではなかった。寒さも痛みもそのコは正常に感じていない。感じられない。
こどもは恐怖に支配され、その光景を目にして激しく震えていた。肩の負傷を庇いながらそのコは暗い路地裏を進み、そこにたどり着いた。血の大河が築かれていた。
「レ、ン……っ」
血の河川を生みだしている源にこどもが声をかける。語尾を震わせながら声をかけるそのコは必死だった。必死で赤くなった雪の上に倒れている者に声をかける。
倒れているそれはとても美しい少女だった。血の気が失せた純白の肌。長い銀色の髪。空の青と暖炉に溜まっている灰を混ぜて澄ませたような青灰の瞳に光はない。
「レン……!」
こどもが少女を呼ぶ。一生懸命だした大きな声が傷に響くが構わなかった。そのコからしたら少女から返事をえられることだけがすべてであり、その他は瑣末だった。
己の負っている重傷すら瑣末としてしまうほどにそのコは少女のことを、レンを案じていた。
己のすべてを懸けてレンを呼んでいる。それなのに、レンがそのコに返事をすることはない。
レンは冷たかった。体温のすべてを雪に奪われたかのようにそのコの体は凍えてしまい、硬直し、息はなく、命はどこにもない。なくなっていた。レンは死んでいた。
「レン、起きてよ、ねえ? やったよ、あいつを殺した。もう大丈夫。サイ、やったよやった、やった、の……っ」
サイ。そう自らを呼んだこどもは必死でレンに呼びかけ続ける。まだ歳幼いこどもが誰かを殺した。それを死者に報告している。よく見なくても異常な図である。
レンがとうにこと切れていることはサイだってよくわかっている。それでも、レンの死を受け入れられなくて呼びかけ続ける。なにかの答を求め、必死で抵抗する。
レンの死を否定するなにかを探し求めるサイは辺りを見渡した。そして、見つけてしまった者の瞳にうつっているものを見てより深く、一層強く絶望してしまった。
そこにあったのは男の死体。銀髪碧眼男の
自らの望みが絶たれた無念を抱えて息絶えた男は瞳の奥でサイを嘲っている。サイのこれから先にある絶望を嘲笑っている男は死してなおサイを呪って嗤っていた。
サイの唇が絶叫を放つ。男の呪い。返事をしないレンがたどってしまった末路に幼い心は耐えられなかった。潰れてしまった心でサイは叫ぶ。ずっと、ずっと……。
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