第一章

異世界転生したら借金生活になりました。

第一話 本当の天使は地上に居ます


 細くて、小さくて。そして怖いくらいに冷たい小指が、自分の指に絡められた時のことを、明丸は今でもよく覚えている。


『おにいちゃ……やくそく、ぼくの……あきやのぶんまで……』


 彼しかいない病室でいくつもの機械に囲まれ、何本もの管を繋げられて。そうしてやっと生きていた弟。もっとたくさん遊びたいだろう。たくさんの夢を見ていたいだろう。でも、それももう終わりだった。

 両親は医師に何度も泣きついた。高校生だった明丸は、姿の見えない誰かに連れて行かれそうな弟を何とか繋ぎ止めようと手を握ることしか出来なかった。

 でも、駄目だった。残された力を振り絞って言葉を紡ぎ、酸素マスクをつけたままにこりと笑って。まだ八歳だったのに。弟……道武明弥みちたけあきやは、それからすぐに病室で静かに息を引き取ったのだった。



「う……ううん」


 重い瞼をこじ開ける。何だか、懐かしい夢を見た気がする。忘れられない、忘れたくないあの時の夢を。

 でも、どうして。


「……あ、れ」


 どこだ、ここ。顔だけ動かして、辺りを見渡す。木目調の天井に、壁。空気は少し埃っぽいが、花と薬……漢方薬のような苦さが混じった匂いがする。嫌な感じではなく、心地良くて落ち着く。

 柔らかいベッドから身体を起こすと、額に置いてあった濡れタオルが落ちた。首や背中が少々痛むが、動けない程ではない。


「ここ……どこだ。俺……どうなったんだっけ。あ、そうだ……あのド鬼畜天使に、空の上から蹴落とされて」


 思い出した。思い出してしまった。紐もパラシュートも無しのスカイダイビング。地上が見えて、街が見えて、家の屋根とか人が見えた辺りから記憶が無い。というか、それ以上思い出そうと身体の芯から震える。

 でも、どう考えても自分の力でこんな屋内に入れるわけがない。ということは、もしかして。


「あ、目を覚ましたんですね!」

「え」


 ドアが静かに開かれて、穏やかな声が聞こえてきた。袖がふんわりと広がった薄緑色のワンピースに、控えめにフリルがあしらわれた白いエプロン。亜麻色の長い髪を揺らしながら、にっこりと微笑む美女。

 ……いや、


「て、天使さま!」

「ええ!? だ、大丈夫ですか? まさか、倒れた際に頭をぶつけられたんですか? 頭、痛みますか?」


 慌てて駆け寄ってくるなりベッドサイドに膝を着き、手にしていたお盆を床に置いて、女性が明丸の額に触れる。

 白くて華奢な手に、顔が焦げるのではないかと思う程に熱くなる。そうです、彼女無し歴イコール年齢です。


「い、いいいや! 大丈夫です! 平気です!!」

「そうですか、良かった。あ、私はユアと申します。ユア・カナリス。この街の近くにある森の中で、あなたが倒れているのを見つけて、慌ててここまで連れてきたんです。すみません、勝手なことをしてしまって。あの森は魔物も出ますから、危ないかなって思って」


 手を引いて、再び笑う天使。やばい、滅茶苦茶可愛い。しかも優しい。おいコラ見てるか鬼畜、天使って言うのはこういう人のことを指すんだぞ。


「そそ、そうだったんですか。いえ、助かりました。ユアさんは命の恩人です、ありがと……え、魔物?」

「はい。人を襲うことはあまりないのですが、先月も馬車の荷台が襲われたって、結構騒ぎになったんですよ。知りませんか?」


 きょとんと、ユアが首を傾げる。そうだ、この世界は今まで生きてきたところとは別の世界だと言っていた。サリエルに会って、実際に雲の上から蹴落とされたのだ。今更、こんなものは夢だ幻だ! だなんて騒がない。

 ここは明丸が知らない世界。


 ――異世界、という場所になるのだろう。


 そうか。自殺したとはいえ、明丸は自分が生きてきた世界とは違う世界に来てしまったのだ。全てを失ったのだ。


「財産……は、全然無かったな。思い出……も、大して良いものは無いな。コミュ障だし、ぼっちだし。友達も居ないし、スマホはソシャゲとSNS専用だし、ああ……俺って本当に、大した生き方して無かったな。ふ、ふふふ」

「あの……大丈夫、ですか?」

「あ、えっと。大丈夫、です」


 首を横に振る。そうだ、自分には大事なものなんて無かった。あったけど、全部失っていた。

 それに、


「あの、もし良ければお名前を教えて頂けませんか?」

「み、道武明丸です! あー、こっちの世界風だと、明丸が名前になります。多分」

「こっちの世界風……? とにかく、アキマルさんですね。アキマルさんはこの辺りでは見ない珍しいお洋服を着ていますし、もしかして遠い街から来られたんですか?」


 にこにこと、親し気に話しかけてきてくれるユア。凄い、信じられないくらい可愛い。しかも、石鹸と花蜜のような良い匂いもする。ちょっとドジなダ女神は存在しなかったが、こんなに可愛い人とお近づきになれるだなんて。

 ……いや、下心なんてありません。ていうか、持つ勇気がありません。


「えっと。なんていうか……その、凄く遠いところから来たって言うか。日本っていう国、知ってますか? あ、英語ではジャパンって言うんですけど」

「ニホン? ジャパン? ……えっと」

「……何でもないです!」


 確信した。ここは日本じゃないし、完全に異世界だ。だって、日本語喋ってるのに日本のこと知らないだなんておかしいだろ。

 ということは、一体どうしたら良いのだろう。まさか、こことは違う世界から来たとも言えないし。ていうか、言っても信じて貰えなさそう。

 くそう、鬼畜サリエルめ。そういうアフターケアまでちゃんとしろよ。日本だったらクレームが飛んでくるぞ。


「ま、まさかアキマルさん……口に出せないような酷い目に遭って来たのですか!?」

「えっ」

「やっぱり、そうなんですね! それで記憶が混濁して……あんな場所で倒れていたのも、そういうことだったんですね。ああ、なんという……」


 自分の境遇を説明できないで黙り込んでいたら、ユアが顔を真っ青にしてあわあわと震え始めた。

 何!? どういう想像されちゃってるの!


「いや、あの……何ですか、口に出せないって」

「恐ろしい! ああ、お可哀想に……『魔界』と友和条約を結んで二百年になるのに、人間界はとても豊かになったのに、まだそんな……ああ、神さま。どうしてアキマルさんが、そんな口に出せないような目に」

「口に出せないって何!」

「でも、もう大丈夫ですよ」


 そっと手を取られ、蝶のような両手で包まれる。


「この街は豊かで、とても活気があるところですから。あなたを傷つける人も、辱められることもありません」

「辱められるて」

「どうぞ、ここで心と身体の傷をゆっくり癒してください。困っている人、助けを求めている人、傷ついて苦しんでいる人全てを絶対に見捨てない。カナリス家に伝わる家訓の一つです。なので、アキマルさん。私を頼ってください、あなたはもう一人ではありませんよ」


 チョコレート色の大きな瞳が、真っ直ぐに明丸を見つめる。おい、聞いてるか鬼畜。


 天使っていうのは、彼女のことだぞ。



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