12月27日

12月27日

 朝になって目が覚めると、瞼が湿っていた。

夢のせいだ。僕は急いで目を擦って開くと、目の前で母親がテレビを見ていた。

そこには最近になって出来た水族館の様子が紹介されていて、多くの人でにぎわっている様子が映っている。

「おはよう」

僕が起き上がり、挨拶をするなり母親は僕に寄ってきた。

「彰、今日はここに行かない?」

言われて再びテレビ画面を見てみると、水族館の名物であるペンギンが観客の中を列を成して歩いている。

「水族館か」

「行ったことある?」

「多分ない」

記憶にある限り、遠足などでも水族館に行ったことはないだろうと思う。

「行かない?」

「分かった、行く」

「それじゃあ、朝ご飯食べたら出かけようか?」

「うん」

自分でも、ここ数日の出来事で聞き分けが良くなったと思った。

僕は寝ぼけた頭を起き上がらせ、二人で朝食を食べると家を出た。

昨日の夜も雪が降ったようで、家を出るとまだ誰にも踏まれていない雪道が広がっていた。

最寄りの駅までは歩いて10分ほどの所にある。

「電車に乗るのも久しぶりだなぁ」

「あんまりはしゃがないでよ」

母親の存在が僕以外の誰にも見られていないとしても、電車の中で騒がれるのは嫌だった。

「彰、知ってる?これと逆の電車に乗ると山を越えて綺麗な浜辺がある海に行けるんだよ」

「知らない」

僕は反対側の電車に乗ったことはなかったので、海が見えることをその時まで知らなかった。

海と言えば母親の遺影は海を背景に取られていたが、それは反対側の電車に行くとたどり着くと言う海で撮られたものなのだろうか。

考えながら、電車に揺られて20分くらいしたところで乗り換えをしなければならなった。

都市に出てきたので、乗り換えをするのに人混みの中に埋もれた。僕は母親とはぐれないだろうかと思った。

「ねぇ、はぐれないよに手つなごうか」

僕が拒む前に手を掴まれ、ぴったりとくっついて何とかはぐれずに人の間を抜ける。

乗り換えの電車の椅子にもたれ、一息つく頃には、すでに疲れが現れていた。

「人混みは嫌いだ」

僕がそう呟くと母親も苦笑いを浮かべて椅子に座った。

「彰も人混みはあんまり好きじゃないみたいね」

「うん」

「そっか、そこは私と似たんだね」

そうなのか、と思った。母親に似ている所が他にもあるのだろうか。

「他に似ている所はある?」

「うーん、髪のくせっけの感じとか」

「それはあんまり似てなくて良い」

母親は笑みを浮かべると頭を撫でてきて、髪がボサボサになった。


 それから目的の駅について電車を降りると、街を歩いて目的の水族館に着いた。

テレビで紹介されたということもあって、やはり多くの人の列ができている。

僕は列に並びながら、雪が降ってこないかと雲が覆い隠す空を眺め、鞄の中に入れた傘には二人分入るのかと考えた。

 順番が来て、水族館の中に入ると多くの家族連れの姿やカップルの姿があった。

巨大な水槽を埋め尽くす人々の中に割って入っていく気にもなれないで、僕は遠巻きに水槽の中を泳ぐ魚の姿を見つめる。

反対に母親は、水槽の前で悠々と泳ぐ魚の姿を追いかけていた。これじゃあ本当にどっちが子どもか分からない。

 水族館の中を歩いていくと建物の中央には巨大な円柱の水槽があって、その中を大型の魚たちがいた。

僕よりも大きな魚たちの影が何度も足元を移動していく。

その水槽の周りを巡るように作られた案内看板にそって歩いていき、ペンギンの展示の前に来た所でふいに母親が呟いた。

「ねぇ、ペンギンは自分たちは鳥なのにどうして飛べないんだろうって思っていると思わない?」

「どうだろう、考えたことない」

「でもきっと飛びたいって思っているよ」

「そうかな」

「そうだよ、だって空からの景色は凄いんだから」

その答えに、どう反応すればよいのか僕にはわからなかった。

たまにこうして突拍子もない事を言う母親は、自分の事を死んでいるということを納得しているのだろうか。

僕が無言でいると、母親は肩を撫でてきた。

「次、なに見よっか」

そう言って人混みの中をはぐれないように、僕の手を握りしめる。

結局、人混みの中を二人して歩いて僕らは水族館内の魚たちを全て見尽くした。

人混みの中を歩いていくのは、気力を奪われたが水中を自由に泳ぐ姿を見ているのは、まるで夜空の中で流れ星を見つめるようで飽きなかった。

 水族館を後にすると、僕と母親は再び乗り換え駅までいき、街を散歩してみた。

住んでいる街よりも高い建物がひしめき合い、多くの人々が通り過ぎていく。

「お母さん、昔この街で働いてた事があるんだよ」

「へぇ」

僕は何をしていないのかを考えたが、母親が上手くこなせそうな仕事は何だろうか。

「もしかして、疑ってる?」

顔を覗き込んできて、僕はつい目を逸らして首を横に振った。

「まぁ、でもそんなにたいそうな仕事じゃないけどね、でも楽しかったよ」

「仕事ってそんな感じなの?」

「そりゃあ、辛いこともあるよ。けど、それだけじゃないからね」

そう言った母親は楽しそうだった。何をしていたのかは詳しくは分からない。けれど、その様子を見ると言っていることは本当なんだと思う。

それからも街を歩いていく中で、思い出が蘇っていったように母親は昔の街の話をしてくれた。

今は無くなったショッピングセンターの話、高校の友達とそこによく通っていた話、話題が途切れないので、僕らが駅に戻った時には時刻は夕方になっていて電車は到着時間よりも遅れていた。

「こうして出かけるのは楽しいね」

ホームのベンチに腰掛けながら、隣に座る母親は缶コーヒーを両手で転がして暖を取っていた。

一方で僕の方は久々にきちんとした外出をして疲れて深く背もたれに身を委ねて休んでいた。

「ねぇ彰、こうやって過ごしていると何だから人生を楽しんでいるなって思わない?」

「そうかな、なんでもないような日に思えるけど」

「なんでもないような日だからこそ、幸せなんだよ。今日も一日なんでもないことに感謝しないと」

続けて母親は言った。

「一度きりの人生なんだから、もっと楽しまなくちゃ。あ、でも私の場合は彰が生き返らせてくれたから一度きりじゃないね」

照れ笑いをしながらそんな事をいった。

「そうかもね」

その瞬間、ホームに流れるアナウンスが電車が到着する旨が聞こえて、それからすぐに遅れてきた電車が黄色い線を照らしながら近づいてきた。

「それじゃあ帰ろうか」

「うん」

そう言って、僕らは立ち上がり暖かな電車に乗った。緩やかな揺れと、冷えた体を包み込む暖房の熱で、ゆっくりと走る電車の中で僕は寝てしまった。


 家に着いた頃にはすっかり陽は暮れていて、僕らは急いで夕食を作って食べた。

「彰の作ったものは本当においしいね」

お世辞だと分かっていたけど、こうして毎日のように人に料理の事を言われることが全然ない僕からすれば嬉しく感じた。

 夕食も食べ終えたころ、皿の片づけをしようとし始める。すると、玄関のチャイムとドアをノックの音が響いた。

母親もその音に気づいて一足先にドアの覗き穴を覗きこもうとした。。

「待って」

僕は手を動かすのをやめ、母親をどかして覗き込む。

「誰かな?」

「少しの間だけ部屋にいて」

「え、でも」

「良いから、部屋に入って」

僕以外の人間には母親の姿は見えない、それを母親も知っていて不思議そうにしていたが半ば無理矢理に玄関からは見えない部屋の中に押し込めた。

深呼吸をして、僕は玄関の鍵を外してドアを開けた。

「こんばんは」

そう言って玄関の前にいたのはスーツ姿の二人組だった。片方は中年の女性で優しそうな笑みを浮かべていて、もう一人の方は若い男で大きなショルダーバッグを肩にかけて、両手を後ろに回して僕の事を見下ろす形で見ていた。

「彰くん、遅くにごめんね」

いきなり僕に焦点を合わせるように中年の女性の方が話しかけた。

「今日は何の用ですか」

「彰君が生活で困っていないかを少し聞きたくてきたの。ご飯は食べてる?」

「今さっき夜食を食べました」

「ご飯も一人で作っているんでしょう。家事も一人でして大変じゃない?」

「別に、そんな事思いませんけど」

二人組は玄関の外から僕の部屋の様子を伺っているようだった。

「ねぇ、彰君は何か困っていることとかはない?」

「特には」

「ご両親は今はいないの?」

「いません」

「そう、いつになったら会えるか分かる?」

「仕事が忙しいみたいでいつ帰ってくるかは知らないです」

二人は顔を見合わせて困ったような表情を浮かべた。腕には腕章がつけられていて、そこには児童相談所という文字が書かれている。

「彰君、君が良ければ私たちの施設に来て。一人で生活するのは苦労するでしょうし、何より施設なら同じ年代の子たちとも仲良くなれるわよ」

「僕は別に苦労なんてしていませんし、同年代の子たちと仲良くなろうなんて思いません、それに」

「それに?」

「いや、なんでもないです」

そこで、僕は母親がいると言ってしまいそうになって不意に言葉を途切れさせた。この大人たちには僕の母親がすでに亡くなっていることも知っているだろうから、そんな話をしたら施設どころか病院に連れていかれるかも知れない。

「とにかく、一度で良いんだけど親御さんと話がしたいんだけど」

「分かりました、そう言っておきます」

二人は再び顔を見合わせて、頷いた。

「分かったわ、そしたらこれを渡してもらえるかしら」

そう言って渡したのは名刺だった。名前のほかに携帯電話とメールアドレスも書かれていた。

「それじゃあ、連絡お待ちしています。夜遅くにごめんなさい」

「いえ、別に」

それだけ言うと僕は礼をして、ドアを閉めて鍵をかけた。

そして、ゴミ箱の前にいって渡された名刺を粉々に切り裂いた。

「彰、今のだれだったの?」

部屋から出てきた母親は少し困惑したような表情を浮かべていた。

「知らない人」

僕はそれだけ言うと、中断していた皿洗いを再び始めた。

流れる水はとても冷たく、触れるたびに手が氷のように冷たくなり感覚が鈍くなるのが分かる。

母親は皿洗いをするところに近づいてきて詳しく話を聞きたそうにしていたが、僕はそれらを無視し続けた。

 確かに、あの大人達の言うように施設に行けば僕は毎日家事をしなくても良いのかも知れないし友達も増えるのかもしれない。だけど、それが良い選択だとは思わなかった。

 皿洗いが終わる頃には母親の追及もしなくなった。けれど、今まで通りにテレビを見て過ごしていたが、母親は先ほどの訪問者の事が気になって、いつものような笑みを浮かべることはなく、ただ僕の表情を見つめてきた。

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