『一緒に帰りましょう』 (前編)
魔神化を簡単に言い表せば全パラメータの大幅な上昇であり、存在そのものの昇華といえる。
故にこの段階で死角と呼べるものは存在せず、たとえ真後ろから音もなくマッハの速度で突撃したとしても攻撃範囲内に侵入した時点で魔神は対応する。
だが魔神アルド=ドヴェルグは蒸発した内たった一割だけの理性を残していた。それは己へのブレーキの為ではなく、唯一最大の目的を守る為のもの。
だから、当初から対峙していた竜王や竜種達への殺意を滾らせる中で、後ろから腰にしがみついてきた小さな幼子に対してだけは無数に展開した刃のひとつたりとて向けることは出来なかった。
『―――■■■■■、グ、ァァア』
「……だめだよ、アル。めっ、なの」
少女もこの魔神が自身を害することは決してないと確信した上で、その愛に無上の愛で応える。
こうなった彼を止められるただひとりの存在として、その責務を全うする。
「……約束、破った。だめって、いったのに」
破壊が迫る。獄炎が押し寄せる。
そんな危機的状況下で、対抗できたはずの力を有する魔神はみるみる内にその狂気と瘴気を押さえ込み彼本来の褐色肌が戻っていく。
その世界において最大級の『浄化』の力を持つ聖獣ユニコーン。少女と妖魔の青年は魂魄で繋がる深い絆があった。現に、ユニコーンの加護は妖魔の肉体に浸透し毒の無効化という加護を得ている。
だからこそとも言うべきか、聖獣の『浄化』はかの妖魔に世界で一番高い効果を発揮する。
『反転』という現象は一般的に不可逆の現象とされている。発生した以上進行することはあれど戻ることは絶対にありえないもの。魔神へと至る『完全反転』ともなれば、そこから妖魔に回帰することなど通常不可能である。
そんな絶望的な死への片道切符を唯一往復路へと変えるのが聖獣の祝福。相思にして相愛たる神聖の誓いが、悪鬼羅刹と化した妖精悪魔のハーフを正気へと引き戻す。
やがて身を侵す漆黒が白銀の浄光に剥がされた時、過度な力の反動で全身に自傷を刻み鮮血に染まった妖魔の姿が克明に浮かび上がる。
「―――悪いな白埜、手間ァ掛けた」
致命に至る出血量と無数の傷口。明らかなる瀕死でもやはり男は屈さず、平時と同じような口調と語調で愛しの少女へと謝罪を向ける。
同時、魔神化の影響が抜け切っていない彼の口がガパリと開き、生え渡るいくつもの牙が顔を覗かせた。
白埜を抱き寄せ、迫る暴威から庇いつつもアルの表情に焦りは無かった。
戻りたての今なら、まだ正気を保ったままで神格を行使できる。
「ただ、まァ、…やることだけはキッチリやるから、それで勘弁してくれや」
直後に放たれた声は、およそ生物の喉から発せられるものとは思えないほど悍ましく響き渡る。
「『
それは〝
竜王のカリスマにも似た強烈な牽制力が空間全域に広がり、彼が敵と認識した全ての動きを一時的に押さえ込む。
その中で唯一影響を受けずに破壊の力を振るうのはやはりというべきか暗黒竜王。溜め込んだ最大級の威力を真っ向から受け止めるべく両手を広げた妖魔の現在の耐久力では原型すら留めること叶わないだろう。
そんな妖魔に肉薄する破壊の力に干渉するのは円形に展開された大方陣。隻腕の退魔師が現状出し切れる最上級の結界がすんでのところで破壊の波を弾く。
「ハッらしくねェなァ退魔師!この状況で選ぶべき最善じゃねェぜそれは!!」
「黙れ。いつまで過去の私を追っている。今の私は子供の時分とは主義が違う」
余力僅かな退魔師、日向日和のあまりにもらしくない行動に高らかに嗤うアルに、日和は分かり切ったくだらないことに嫌々とした表情で答える。
「今はあの子のせいかな、これでも情緒に溢れた方だ。―――愛と勇気で打ち勝つ物語も、自分のことでなければ悪くないと思える」
過度な法力の出力に今の身体が追いついていないのか、突き出した残る片腕にも裂傷を奔らせながら、日和はこの膠着を手放そうとしない。
もちろん魔女の転移術式が完成するまでの時間稼ぎでもあったし、それ以外で理由を求めるのならば、それは間違いなく光を溢す少女を抱き寄せたまま顔を伏せる修道女にそれはあった。
「願え」
「祈れ」
妖魔と退魔師が示し合わせたように呟く。
「
「それを成せ。この大戦が全てに終わりを見るまで、あの子の顔を立てて黙認してやろう。だからさっさと呼び戻せ。その為の」
一呼吸置き、眼前に死を呼び込む絶望の息吹が迫る中で人とひとならざるものは声を合わせる。
「「―――
「…………」
修道女は、シスター・エレミアは忘我に近かった状態からその言葉だけを頼りに腕の中でぐったりと倒れ込む少女の耳元へと口を寄せる。
願うべきはひとつ。祈るべきはひとつ。
他ならぬこの無謀な作戦の最終目的はなんだったか。総員の総意を得てまで巨竜の体内に殴り込んだ理由はなんだったか。
「ウィッシュちゃん。…お願いです」
思い出し、口に出す。
「一緒に、帰りましょう」
その時。
崩れゆく仄かで淡い光の人影に、言の葉に応じて別の強い光が宿った。
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