VS 『腐乱』のゴーン・オフ


 全身を嫌な汗が伝っていく。

 気にしないようにしても、意識を逸らそうとしても。

 この世界はあまりにも人間の心に対し有害だった。

「くっ…!」

 人が潜在的に嫌う音の多重奏。最低最悪のアンサンブルがディアンの鼓膜を揺るがし続ける。

 斬り裂き散らばる蠅と蛆。その体液。普段から身近に感じていた『死』とはまた異なる脅威。異常性の塊が人としての意思を挫きにかかる。

「おおっ!」

 いっそ壊れてしまえば楽になるのに、嗅覚も視覚もまだ真っ当に役目を果たし続けていた。それが殊更にディアンを苦しめる。

 常の戦闘よりも呼吸が乱れ、酸素を求めて深く息を吸えばそれだけ腐臭に苛まれる。催した吐き気に隙を晒し、襲い掛かる羽蟲の大群をヴェリテの戦槌が打ち払った。

「すまん!」

「…ディアン。目を閉じてください」

 人とは違う感性の中で生きる竜種は足元に蛆がたかろうが気にも留めない。ただ現状を打開する為の策を静かに告げる。

「あ!?」

「目を閉じ、最速の一撃を。お膳立てはこちらで用意しますので、貴方はネガを討つに足るだけの威力を練り上げてください。三十秒後、貴方の刃の前に『腐乱』を突き出します」

 ディアンが何事か反論を挟むより早く、轟雷が蠢く黒い風景を引き剥がす。

 耳が痛くなるほどの雷鳴と稲光。言われるまでもなく目など開けていられない。即座に瞼を降ろし、片刃の剣を両手持ちに切り替え構える。

「―――威力上昇、耐久向上、命中補正」

 最早その羽蟲の動きも音も見聞きされることはない。瞼の中で明滅する雷鳴と、蟲の焼け焦げる臭い。異臭であることに変わりはないが、腐り果てたあの臭いと比べれば雲泥だ。

 剣に刻印された術式が、流し込む魔力によって効果を発現させる。

「斬撃強化、斬撃速度上昇、切断力強化、術式昇華、最大出力」

 雷の音で自身の言葉すらも耳で聞き取れないが、問題はない。ガンガンと吸い上げられていく魔力が刻印の正常起動を証明している。

 利き手で柄を握り、もう片方の手を刃の先端へ添え腰を深く落とす。

 対象はさして大きくはない。大振りな斬撃はむしろ威力を撒き散らすだけで効率的ではない。

 敵を点で貫く刺突の体勢を完了し、幾重もの魔術刻印が輝く刃に十全な力が充填されたのを確信する。

 残り五秒。轟音も雷光も止む気配はない。

 武に長けたあの雷竜を信じるほかなかった。

(ええい、ままよ!)

 何も見えない真正面目掛けて、ディアンは己が愛剣を照準もなくただ全力で突き出す。

「〝魔光剣・刺突撃スタッド!!〟」

 注文通り、ディアンの出せる最速の一撃。大気を斬り裂き真空すら生み出す勢いで伸びた刃は視覚の効かない闇の先へ呑み込まれ。

 そして、手応えを得た。




「お見事」

 声に振り返ればそこには雷竜ヴェリテの姿。体に付着した羽根の残骸らしきものを手で払いつつ、彼女は刺突を完遂させた姿勢で片膝をついていたディアンに賛辞を送った。

「…あんま、素直に喜べねーな」

 立ち上がり周囲を見回すと、そこは大きく広い地下大空間。落下の先にあったと思われる地下遺跡の只中であった。どうやらネガの展開した結界は消失したらしい。

「アンタ一人でよかったんじゃねえか?」

「いいえ、それは正直言って難しかったかと」

 飄々とした態度で戦槌を雷光に変えて仕舞い、ヴェリテは忌々しそうに顔を上げる。

「貴方は直視しなかった…いえ発狂を防ぐ為にあえて直視はしていなかったのでしょうが。とにかくあの総量は莫大でした。総じて束ねられれば私の雷でも本体までは届かせられなかった。だから一瞬の穴を突いてネガを仕留める役目あなたが不可欠でした」

 蠅と蛆。なんの能力も持たないただの蟲の群体。そんなものでも数億数兆と集まれば充分な脅威となる。現に武勇を司る雷竜の全力を以てしても本体までに届かせ得る小さな活路を数秒維持させる程度が限界だった。

「まったく、ネガとやらは本当に油断なりません。…呑み込まれたのが私と貴方でよかったです」

「……たしかに」

 もしあのネガ結界に囚われたのがエヴレナやシャインフリートであれば、一瞬で自我を失うほどに参ってしまっていただろう。

「さて。想定外ではありましたが、ひとまず地下遺跡には到着。他の者も同様にこの遺跡へ辿り着いているでしょう。急ぎ、合流を」

「ああ。ったく、息つく暇もねえな」

 悪夢のような結界での出来事から意識を切り替え、二人は広い遺跡の奥へと足を向ける。

 その時だった。


「……貴方は」

「おい、なんか様子が」


 ヴェリテとディアンの前に、見知った姿が現れる。

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