大森林攻略戦、開幕


 初めに花畑で会った時、その少年は既に傷だらけだった。血の滲む包帯をあちこちに巻いて、それでも自分ではない誰かのことを案じていた。

 そして妖精と出会い、その極めて悪質なイタズラによって瀕死にまで追い込まれても、少年は諦めなかった。毒を浴びせた妖精にすら攻撃を加えず、ただ自力で耐え忍ぶことを選んだ。

 不思議だった。自分本位で他人のことなど二の次なのが人間のはずなのに。雲海の花畑に来る冒険者達だって、そのほとんどが質の良い薬草や希少な動植物を狩る為に来ていたのだから。人間の住む場所とは隔絶された環境下にあって妖精は人間とはそういうものであると認識していた。

 なのに、少年と行動を共にしてからこっち、彼は一度とて自分の為には行動しなかった。

 知れず妖精は人間の善性を間近で見てきた。言葉ではどうとでも言いつつ必ず妖精を庇い守って来た少年。世界の命運の為に奔走し、数々の人ならざるもの達と縁を紡ぎ、世界とその未来を生きる者達の生涯を輝けるものにせんとする少年。

 誰かの為に、何かの為に。自己を犠牲にして自分以外の痛みを容認しない。

 もしかしたら人とはこういうものなのかもしれない。

 そんな風に思い始めていた妖精―――レディ・ロマンティカがエルフ達の自分勝手な物言いに憤慨したのは、その期待を裏切られたからなのかもしれなかった。

 でも、けれど。

 それ以上に、彼の在り方を踏み躙るそのやり方が。彼の生き方を利用するような下賤下劣なその横行が。

 誰よりも何よりも許せなかった。




     ーーーーー


「ティカ」


 割れ物を扱うような手付きでロマンティカの頭に人差し指を乗せた夕陽が、穏やかな声で名を呼ぶ。

「……ユゥ」

「大丈夫だ。俺はなんともない。だからお前も、そんなに泣かないでくれ」

 先程までは困惑と怒りとで思考がない交ぜになっていた夕陽だが、ロマンティカの一声でその全てがどうでもよくなった。

 そうだ。こんなだっている。全てが悪じゃない。この行いが偽善でもいい。

 そんなことはとっくのとうに分かっていて、その上で決めていたことなのに。

 忘れかけていたことを思い出させてくれたことに内心で感謝する。

 夕陽は未だ動揺の見えるエルフの面々に向かい合う。

「わかりました。魔女の討伐、引き受けましょう」

「っ…ユー!?」

「おお…ありがたい」

 驚愕に振り返るロマンティカとは対照的に、族長エインの表情には心底からの安堵があった。

 経緯や思惑はどうあれ、彼とて一族と皆が住まう大森林の未来を憂いていたことは本心なのだろう。

「ただしそれだけです。他はどうあっても受け付けない。受け付ける余裕がありません。魔女の討伐と引き換えに、『完全者』の情報と『黒抗兵軍』への助力を約束してもらいます」

「ええ、それはもちろん!では早速ですがその魔女について。ヤツらは森の最深部、『神秘の隠れ家』と呼ばれる場所にいるとされていて…」

「―――どうして?」

 歓喜に舌が回る族長が何やら説明を始めたところ、ロマンティカの涙声が小さく強く夕陽の耳に届く。

「どうして、そんなに。ユーはいっぱい、たくさん、がんばってるんだよ?なのに、なんで。…みんな、ひどいよ……!」

 またしても瞳に涙の膜が張るロマンティカに、夕陽は当たり前のことを説くように答える。

「誰も酷くない。俺じゃない皆だってそれぞれに頑張ってるんだよ。ただ、他人のことを考えるほどの余裕がないだけだ。俺だって、そんな時はある。自分勝手に自分のことだけを考えたくなることだってあるよ」

 その笑みに嘘は無い。齢十七の人間がどんな生き方をすればそんな考え方を持つに至るのか。

「……」

 隣に座っていた童女が小さな両手でロマンティカを包み込み、着物の胸元に抱き寄せる。幸の表情もまた、慈愛に満ちていた。

「…サチ…」

 言葉を遣わない幸が困ったような笑みを返す。分かっているのだ、きっと。

 『彼には何を言ったって無駄だよ。だってこういう人だもん』。

 言外にその苦笑にはそんな意味が込められていた。

「…………。そっか、そうだね」

 幸の手の内から離れ、ロマンティカは羽根を震わせて飛ぶ。

「ティカ」

「うん、だいじょうぶ。…………―――」

 もう一度名を呼んだ夕陽に応じ、やや力のない笑みを返したロマンティカが夕陽の顔を横切る寸前に何かを呟いた。

 それを訊き返す前に、一人の哄笑が部屋の全域に行き届く。

「ハハハ、ハハハハ!!久しぶりに馬鹿面を拝めたと思えば、何一つとして変わらんな、この森のクズ共は!」

「…ロドルフォ…!!」

 族長が怨嗟の詰め込まれた声を吐き出す。

 意識を取り戻したダークエルフ。ロドルフォ・エッセマンが縛られた状態で高笑いを続けていた。

「だから貴様らは阿呆なのだ。閉鎖的な生活を続け過ぎて脳まで腐敗したか!いやそれはないな、俺が解体バラしたエルフ共は確かにそれなりに発達した脳内構造をしていたぞ!おかげで実に研究の役には立った!」

「こ、の……クソ野郎!」

「殺せ!今すぐ殺せ!」

同胞エルフの恥だ、この男は!」

 にわかに騒然とする大広間。憎悪の声で満たされるこの中では部外者である夕陽に発言権は許されない空気すらあった。

 縛られ部屋の隅に転がるロドルフォを囲うようにエルフ達が集まり、殺意の注目を集める。ロドルフォはそんな彼らを満足そうに眺め、もう一度声高く笑った。

「ハッハハハ!!いや実に愉快だ、滑稽だ!!コイツらのそんな顔を見れただけでも、運んでくれた貴様には感謝せねばならんくらいだな!?」

「…ッ」

 怒号を無視して、集まるエルフ達の隙間からロドルフォの視線が夕陽の瞳とぶつかる。

 ―――カチリ。

「あ…?」

「コレは俺なりの礼だ。受け取れ。感想はあの世で聞こう。もっとも―――」

 不明瞭な悪寒に直観的な危機を感じ取った夕陽が幸との〝憑依〟を無意識に行い、人外化した聴力が妙な音を拾った。

 それはロドルフォの体内から。もう一度。今度ははっきりとした『カチリ』。


「俺はまだ、死なんがな」


「―――ッ!全員離れろォ!!」

 一瞬。

 全てが一瞬の出来事だった。


 ロドルフォの体内から何かの歯車が噛み合うような音が鳴り、

 その身体が内側から発光し、

 幹を外側から破壊した竜の式神が大広間内部に飛び込み、

 ロドルフォの体をその大きな顎で噛み付き、

 発光した肉体が木っ端微塵に爆発四散したのは、二秒にも満たない間で起きた出来事だった。




     ーーーーー


「ごほっ。……タっさん!!」

 考えが甘かった。

 ロドルフォはその体内に捕縛された時の為に自ら爆弾を仕込んでいたのだろう。捕らえた際に調べて口腔内や歯に自決用の毒物が無いのを確認しただけだったのがいけなかった。まさか体内に爆弾を抱えているとは。

 如何なる手段でか爆発の予兆を感じ取って割り込んでくれたのであろう、日和さんの式神(『タ号(?)』故に勝手にタっさんと呼んでいる)の安否を確認する。誰よりも近くで爆発を受けたはずの式神竜は、口から黒煙を吹いてはいるもののそこまで大きなダメージは負っていない様子だった。ひとまず安堵する。

 周囲を見回してみても、爆風に押されたり尻もちをついたりはしていても、エルフ達に被害は出ていない。

「幸!…は俺の中だな。くそ落ち着け、落ち着け…!」

 まず誰よりも大事な相棒の存在を目で探しかけ、内部で呼び掛けられてようやく今が〝憑依〟による一心同体化の状態であることを思い出す。急な事態に些か混乱しているらしい。深呼吸すると、黒煙まで肺に入ってしまい咽る。やはりまだ意識が乱れているようだ。

「そうだ、ティカ!おい無事か、ティカ!!」

 そうして、先程まで自分のことを案じてくれていた優しい妖精の姿が無いことに気付き、焦る。名を呼んでみても返事は無い。


『うん、だいじょうぶ。…………』


 この時どうしてか、俺はティカの放った言葉を思い出した。

 繕った力ない笑顔で答えたティカがこの後に言ったこと。それを聞き返そうとして、ロドルフォの高笑いに阻害されたんだ。

 あの子はこう続けていた。


『うん、だいじょうぶ。…………


「……そういう、ことかよ…!」

 黒煙の広がる部屋のどこを見ても小さな妖精の姿はない。既にこの部屋を、エルフの聖域を出たのだろう。

 俺の負担を減らす為に。俺の為に。

 魔女を討ちに行ったんだ。

 あの時すぐに呼び止められれば、きっとこの展開にはならなかっただろうに。

「ごっほ、げほっ!…くそ、あの野郎!やりやがった」

 今更爆散したダークエルフに悪態を吐いても全て遅い。


「夕陽!?」

「どしたのこれ!え、爆発!?」


 黒煙の吸い込まれる先(おそらくタっさんが突っ込んできた穴)から聞こえる知った竜達の声。僥倖だ、良いタイミングで来てくれた。

「これは、どういう状況で…?」

「げっほげほ!こほっ…戻ったか。早々で悪いが出るぞ!追っかける!」

 未だ煙に咽る喉を押さえ付けながら、外界へ通じる大穴へ向けて走り出す。

「どこへ!」

「誰を!?」

 突然のことにも即座に対応しつつ俺を追い越して大穴から飛び出すヴェリテとエヴレナが中空で竜化を果たす。

 悪いな。また力を借りる。

「森の奥へ!魔女を討つぞ!追っかけるのは」

 まったく勝手に飛び出しやがって。あのお馬鹿妖精め。

 ヴェリテの背に着地し、急浮上する空を見上げる。

 すぐに追いつく。追いついて。


「―――ティカだ!!」


 まだ言えていないことを言わなければならない。

 こんな子供バカの為に泣いてくれた、優しい妖精へ向けた精一杯のお礼を。

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