依頼その玖 『VSヨハン・V・ベニス(後)』


(あれは、危険ですね)

 灰の動きが沈静化したことで余裕を得た雷竜ヴェリテが、空を飛翔しながら割れた次元の先を見る。

 刻一刻と天空に引かれた一線が罅割れて領域を広げていく。

 誰一人として知らない全く未知の世界。それがこの先にはある。おそらく異世界転移で数多の世界を蹂躙し占領してきた悪逆非道の『カンパニー』でも認知していない文字通りの新世界。

 一切が異なる法則のもとに成り立つ世界ではどれだけの危険性があるのかすら予想できない。ヴェリテはもちろん、他のどの種族ですら太刀打ち出来ない『何か』がいてもおかしくない。

 既に出せる限りの攻撃手段は尽くしてみた。だが次元の罅にはまるで通じていない。物理的な干渉では無理なのだろう。となれば爪牙やブレス、直接的な攻撃しか知らない竜種であるヴェリテには手が出せない。

 ラストアッシュの動きは先程までとは段違いに緩慢になっている。もう重火器はおろか灰の追撃すら来ない。散り散りになっていた灰は全てゆっくりとだがあの輸送船へと集束しているようだ。

(夕陽…)

 遠目にではあったが一部始終は目撃していた。しばらく彼は唯一無二の心の支えである幸と二人きりにさせておいた方がいいだろう。

 日向日和は交戦中。何故か姿が幼くなっているが、動きはむしろより鋭くなっているような気さえする。助太刀は無用だろう。

 となれば、やれることはそう多くない。

(あれをどうこう出来るとは思いませんが、何もしないでいるのも手持無沙汰というもの)

 雷竜としての全霊を以て。

 やれる限り天空の裂け目へ向けてブレスを放ち続ける。




     -----

 神速に達する槍の刺突は自前の能力と相まってより凶悪な技と化していた。突き抜く空間そのものが撓み、掠りでもすれば人体を理屈抜きで融かすように抉り壊してしまう。

 まるで飴細工のように虚空をぐにゃぐにゃに歪ませる悪霊は、強度も耐久も関係なしに防御力を無視した性能を獲得していた。

(厄介は厄介だ、次元ごとズラされると攻撃も通らん)

 壁のように前面に展開された歪曲時空はそれだけで不干渉の盾となる。位相ごと世界と切り離している故にこちらから手出し出来ない。

 普通の攻撃では無意味。

 なら通す手を繰り出せばいい。

「大神より別たれしは火雷、八柱束ね、死の穢れ、焼き燻せ、屍に群がる」

 幼子そのままの可愛らしい八重歯で親指を噛み、切れた指から滴る血液で剣に文字を書き連ねる。

 ソウイル、ダエグ。

 共に『日』と『陽』を現すルーン。加えて豊穣イングによって性能を倍加。

 字そのものに宿る力を抽出すること自体、真名解放を扱う陽向家の人間ならば容易のこと。だからこそ神秘を持つルーン文字とは発端となる国の違いはあれど相性はすこぶる良い。

 血に濡れる白刃が仄かに光を放ち始める。暖かなものではなく、その真逆を往く暴力的な雷光。

「威信を示し、大炎を巻き、天を返し、地を引き裂け。空に還り、あとには清涼を。それは鳴り響くもの、雲に伏せるもの。八大束ね祀り囃せ」

 白樺ベオークがさらなる増大を促し、ハガルによって破滅を呼び込む。

 幾重にも幾重にも重ね書くルーンが止め処なく莫大な力を増大させていく。

 ある妖魔が得意としている〝術付ルーイン〟の真似事。だがその威力はオリジナルを遥かに凌ぐ。

 とてつもない補助を受けて剣帝剣が悲鳴を上げるように鳴る。それすらも耐久を跳ね上げるルーンに支えられて折れることすら許されない。彼女の手に納まるということは、そういうこと。

 それだけの力、既に時空を歪めているのは敵だけではない。軋む剣身から洩れ出でる刺々しい光の波動は直近の船を撫でるだけで吹き飛ばす。

 北欧の叡智に後押しされるは極東の神威。

「くくっ…この小娘がぁ!」

 自らの操る悪霊に絶対の自身があるのか、ヨハンは神を具現したかのような恐ろしき気配の前に一歩も下がらない。悪霊は先の天空を割ったのと同じ刃を穂先に備え、必殺の突きを構える。

 跳び出すは同時。だが全てにおいて悪霊は童女に至らない。

 速力で負け先手を打たれ、威力で劣り槍は折れ、そして異能に削られ本来の能力を落とし切られた悪霊に勝てる要素は一つも無く。

「〝焔箕禍雷ほのみかずち〟」

 雷竜の咆哮の数十倍にも上る煉獄の稲妻が振り抜いた長剣の先から迸り、両断された悪霊ごと背後の研究者を襲った。

「ッ…!?」

 何事か叫ぼうとしていたヨハンも、光に呑まれて塵も残せなければどうしようもない。

 計算していたわけではなかったが、神雷の矛先は幸いにもカレンダーコロニーが建っている方向とは真逆だった。そうでなければ、勢いを維持したままの雷はコロニーの三つ四つ平然と喰らい尽くしていた。

 船団の六割ほども一緒くたに消し飛ばして、黒煙と火の手がそこかしこから上がる地獄のような光景を日和は見ていない。邪魔な敵は文字通り消した。次に目を向けるのは空。

 未だ攻撃を続けている雷竜でもまったく干渉できていない天の亀裂だが、日和にとっては些事に過ぎない。

「軽いな…」

 しみじみと呟く。本来の年齢、本来の身体なら、先の一撃ほどとなると流石に少しばかり疲れるものだが、この幼子の肉体は違う。

(しばらくはこのままでいたいところだが、そうもいかないようだ)

 この身体に固定していた元凶が滅んだ影響か肉体も元に戻りつつある。ならばせめて、今の内にとっとと空を閉じることにしよう。

 短く小さい手をにぎにぎと確かめて、頭上に持ち上げる。


 全盛期の退魔師は次元の罅を二分で片付け、今は自分より年上となってしまった愛し子のもとへと急ぐのだった。


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