依頼その玖 『VSヨハン・V・ベニス(前)』


「やはり下らんな。この程度か」


 ヨハンが使役する悪霊、その名をムーンライト。能力としては重力を消し去るといったもの。

 だが正直言って、日向日和に対してはまるで意味を成さない能力だった。

 無重力だからどうした。身体の自由が効かないからなんだ。

 そんな状態でも攻撃する術などいくらでもあるというのに。

 既にムーンライトは片手と尾を失い、深く頭を垂れた状態でヨハンの眼前に頽れていた。

「……噂に勝る化物っぷりだな、人を外れた者よ」

「莫迦を言うな。私はどこまで行っても人間だよ」

 日和の言葉を戯言と一蹴し、ヨハンはそれでも強きに顎を上げる。

「フン。しかし経験は十分だ。貴様という規格外に対し、戦闘経験は予想を遥かに上回った」

 気を違った研究者の言うことになどいちいち耳を傾けることはしない。戦闘不能となった悪霊は今、ヨハンの盾にすらならない。

 掌から生み出した水の刃が斜めに奔り、研究者の首を刎ねるべくして迫る。

「来い、エンペラー」

 一切動じないヨハンの呼び掛けに応じたか、微動だにしていなかった悪霊に変化が起きた。

 蛇と人間を混ぜ合わせたような奇怪な姿の背に亀裂が入り、そこから羽化するように別物の何かが競り上がる。

 だが遅い。ソレがどう動いたところで水刃はもう首元まで伸びている。防ぐことなどできようはずがない。

 だが。

(そう来るか)

 皮から脱した新たな腕が甲板を叩く。

 指先が触れた傍から甲板そのものが大きく蠢く。鋼鉄はまるで粘土のようにうねり、盛り上がった鉄鋼がヨハンと水刃の合間に滑り込むように割り入って防壁と化した。

「上々だ。まあ、これで貴様を討てるなどとは微塵も思わんがな」

(愚昧な割りには理解が速いな。ただの無能ではなかったか?)

 舐めていてくれれば手早く済んだ。だがこの男、確かな判断と眼によって日向日和という脅威を正しく認識している。こうなると厄介だ。

 ともあれ時間は掛けられない。ラストアッシュは夕陽の手には余る。早急にこの男を殺し、助力に向かわねばならない。

 だというのに、悪霊は次々と船団のいくつかを変形させ、巨大な槍や剣として猛威を振るって来る。その変わりようは退魔師の扱う金剛の術によく似ていた。

 加えて、捨て駒覚悟で四方八方からやってくる灰の分身が邪魔臭くて仕方ない。個々は話にならないほど手応えのない雑魚だが、こうも群れてこられると視界が狭まる。

 そしてそれが、奴の狙いだということにも気付いてはいた。

 黒い人型が背後から長い腕を伸ばしてくる。

 進化した悪霊の能力を原型歪曲と判別した日和は接触を嫌う。

 低位の悪霊による干渉なぞ弾くことは容易だが、身の内に力を伸ばされるのは不快でしかない。

 だから回避に必要ではなかったとしても、

 躱しがてらに悪霊の両腕を長剣で斬り捨ててしまう。

 悪霊には痛覚も恐れもないのだろう。腕を失くしても尚、無貌には理解の追い付かない事実に対する疑問だけが浮かんでいた。

 見切れるわけがない。たかが一人間に使役される程度の無知蒙昧な悪霊風情には。

 警戒のし過ぎか。そう判断して日和は悪霊を側方へと蹴り飛ばす。もうアレに闘う力は残っていない。原型を捻じ曲げる力なんて、そもそも接触さえ気を払えば懸念にもならない。

 剣帝剣・白兎に力を込め、老骨の首を飛ばすべく最適な動作での刺突を繰り出す。

 仕留めた。そう結論付けた日和の思考を、老いた口元に浮いた笑みが阻害する。


「次だフェイト。真化は近い」

「―――…!」


 ぞわりと、鮫肌でなぞられたような悪寒を覚える。背後から伸ばされた両手の指が頬の柔肌に触れ。

「…」

 これまでで最速の剣撃で悪霊を振り払い、二歩三歩と跳んで別の船へと乗り移った日和が、自身の変化を即座に見抜く。

 袖から、裾から、手足が消えた。

 否、断じて否である。感覚はある。手足は消失していない。

「時間の…逆行」

 着物が途端に重く感じる。縮んだ身体が、あまりにも大きな衣服に埋もれるように隠れていた。

「ふ、ははは!随分と可愛らしい姿になったものだな日向日和!さあ!?幼児が我が最高傑作をどう挫くのか、しかとこの目で見せてもらおうではないか!」

 ヨハンに侍る悪霊の姿はまたしても変容している。新たな姿と力を獲得し、その異能に舌打ちを隠せない。

 よもや時間の操作まで可能とは。些か見くびっていた節がある。

 たった一秒にも満たない接触でここまで退行させられた。肉体年齢は十二、三かそこらか。

 よりにもよって、この姿。この年齢。

 日和は大きく呼吸を行う。かつての姿に感覚を引き戻し、慣れさせる。

「貴様……やってくれたな」

 焦りは無い。憤りも、無い。

「くはははははは!!無様だな日向日和!そうなってしまえば貴様など乳飲み子とそう変わらんわ!どれ、次は本当に赤子まで戻して―――」

 上機嫌に最強を下したことに狂喜するヨハンの台詞が、途上で止まる。

 老骨のヨハンが追えなかったのは仕方ない。だがここまで成長した悪霊が、まさか童女一人の動きを追い切れなかったのはおかしい。

 瞬き一つの内に悪霊の顔面を蹴り潰しフルフェイスの頭部を砕いた幼き日向日和は、いつもと変わらぬ不敵な表情を維持したままでゆったりと着地する。ぶかぶかの着物が酷く動きづらく邪魔だった。

「本当に阿呆だな。私という存在を脅威に思うのなら、その全てを余すことなく調べ尽くすべきだった」

 あまりにも迂闊。どこまでも愚か。

 時間を戻せば、肉体を遡らせれば、それで弱体化させたと誤認する。

 そうではない。こと、この女に限っては。

 『神童』と呼ばれた頃から既に弱体を始めていた日和にとっては、まさに今この姿こそが。


「全盛期だ。もう貴様はどうあっても私には勝てんぞ」


 それは自らなけなしの勝率を下げる行為。

 こともあろうに、ヨハンは最強を最も最強だった時期に返してしまった。

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