アッシュワールド

プロローグ

福呼ぶ童女のとある朝方

 精神は肉体に引っ張られる。

 心の成熟は体の成長に比例する。

 つまり大人になれば心も相応のものを宿し、老いればそれに準じた老齢の精神を身に着ける、ということ。

 だから人は生きた年数分だけ経験を活かし心を育てる。

 これが人外となるとそうもいかない。

 無論、人より長きを生きる人外であれば賢く立ち居振る舞いを覚え小狡く底意地悪く生き抜く術を覚えるものだ。

 だが、中には人から『そういうもの』と望まれ続けたが故に成長を止められた性質を持つ人外も存在する。

「……」

 眠気に瞳を細め、ベッドからむくりと上半身を起こしたこの童女もその一例。

 それは『生前裕福だった令嬢の幽霊』。

 それは『古き家に住まう幸福の妖精』。

 それは『人間に憑き富を与える妖怪』。

 複数の願いを押し付けられ、その果てに複数の性質が重複した人ならざるもの。

 大別としての概念種・妖精種・妖怪種を複合させた混合三種トリプルミックスへと転じた座敷童子。

 一人の少年との邂逅を経て『さち』と名を得た艶やかな長い黒髪の女の子は、くしくしと片目を擦りながら頭を揺らし、視線を横に向ける。

 そこには珍しくも、未だ眠りこける愛しの少年の姿があった。

 幸は外見の変化を封じられた少女であり、また精神年齢もその状態から固定化されている。

 つまり普通の子供らしく、夜は九時に就寝し朝は六時前後に起床する。

 彼は昨夜、見たい番組があるとかで夜更かしをすると言っていた。おそらくはそのせいでいつもの時間を超えて寝過ごしてしまっているのだろう。

 とはいえ別段致命的な寝坊でもない。登校時間までに間に合えばいいのだから、今無理に起こす必要もなかった。

「…」

 人と人ならざるものとの調和を維持する為に奔走する少年の寝顔はとても穏やかなものだ。常に血に塗れ、苦痛に苛まれながらも這いずり闘い続ける男のそれにしては、枕に埋めるその表情はやはり幾分も幼く映った。

 普段見れない彼の寝顔をいつまでも眺めていたかったが、せっかく彼より先に起きたのだ。もう一つくらい、いつもはやらないこと(出来ないこと?)に挑戦してみるのも一興か。

 スプリングの軋みで起こさないよう細心の注意を払いつつベッドからぴょこんと降り立ち、そっと部屋を出て階段へ向かう。目指すは階下のキッチン。


『いいや駄目だね。前にも言った通りこの一線は譲れない』

『ですが。…いえ、でしたらもうさらに譲歩を重ねますが』


 誰もキッチンに立っていないことを確認してからそろりそろりと小柄な身を少し開いた戸の間に滑り込ませる。何やらキッチンから繋がるリビングの方で熱のある会話が繰り広げられていたがこれを無視。早速調理器具を見つけるところから始める。


『朝食とお昼のお弁当は、はい退きます。ですがそれなら夕食はわたしの担当にさせて頂けませんか』

『いくら譲歩しても無駄だよ。私が夕陽に食事を振る舞うこの特権は誰にも渡さない。例え相手が神でもね』

『……流石に貴女がそれを言うと説得力が段違いですね……』


 難なく器具を発見し、引っ張って来た椅子によじ登って冷蔵庫から卵を数個取り出す。ボウルに開けた中身を手際よく溶いでいく様子は、神社に住まう巫女の少女に付き添ってもらった何十の失敗の上に成り立つ成果だ。


『いいかい篠。君は主を守る。私は我が子へ愛情を注ぐ。これで互いの役目は全う出来ているはずだ。そこへ欲を張って色恋を差し挟むのはよしなさい』

『それを言われてしまうと弱いのですが…。しかし、わたしも主様への恩義をこれとわかる形で示したいのです。おこがましい願いだという自覚も、もちろんあります』

『ふうむ…』


 彼の好みは甘めだ。自分も甘いのが好きなので傾向が被っていることにとても喜びを感じる。

 ここからが難所。加減を間違えればいつかのような暗黒物質が出来上がる。そうなれば全ておしまいだ。

 リビングからの声も聞こえなくなるほどの集中力に、幸の意識が眠気を吹き飛ばし最高潮に研ぎ澄まされて行く。


『…やれやれ。まったく私も甘々になったものだ。わかったよ、譲歩しようじゃないか』

『日和様…!』

『じゃあまずはそうだね。まずは……、いや待て。なんだこのふんわりとした良き香りは』


 結果を先に明かそう。

 成功だった。

「……っ!」

 無言で瞳を煌めかせ、頭上高く掲げる皿に乗った卵焼きのなんたる完成度か。自分自身でも疑いたくなるほどの見事な傑作を前に目尻には涙すら浮かんでいた。

 そして別の意味で涙を浮かべる二人の女がキッチンへ跳び込んでくる。

「幸…ッ。君という子は、人が大事な話をしている間になんということを…」

「お嬢様、それは、それはあんまりです…!一番主様の寵愛を受けているはずの貴女が何故そんなことを……っ」

「?」

 これから起きて来るであろう彼へ振る舞うのを心待ちにする上機嫌な幸は、いきなりの叱責じみた言葉に、ただ抑えられぬ笑みを浮かべたままこてんと小首を傾げるのみだった。


「またか畜生が!おい幸起きてるかーっ!?もう我慢ならん今度こそ『カンパニー』を粉微塵に潰しに行くぞぉ!!」


 上からは怒声と共にドタドタと階段を降りる足音。

 どうやら此度も異世界関連の面倒事が発生したらしい。

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