40 幽冥牢、ルビノワにひっぱたかれる

 幽冥牢が、自身のサイトの更新をしなくなった。




 きっかけは本当に小さな事だったが、職務上での予定が狂い続け、結果的に、何と自己破産をしなければならなくなったのである。生活費の穴埋めとしてカードを使わざるを得なくなっていたのだが、そういった予想外の流れから、その額が数百万の借金に膨れ上がってしまったのだ。


 現状としては

『カードを使えない身になった方が自分の為でもある』

という状態だった。どうもカードがあると買い物をしてしまう。以前までは必要な際のみのいつもニコニコ現金払いだった幽冥牢がそうなったのは、予定が狂い始め、月々の支払いが滞る様になってからだ。

 それで、自分の自己破産の身辺整理に追われ、精神的な余裕をなくしているのである。




 屋敷の運営に影響しないとは言え、主がそのザマでは他の皆の表情も暗くなるというもの。その中で一番彼の心配をしているのは誰に見えるかというと、やはりルビノワだ。幽冥牢が必要な書類を役場に取得しに行ったり、あちこちに電話をかけた後、疲れた表情で

「悪い、少し寝ます」

と言って自分の部屋に引っ込んでしまうので、彼女は最近ほとんど幽冥牢と話をしていなかった。そのせいで彼女の表情にも翳りが出始めているのである。

 こんな時、朧の作る食事が皆を支えていると言っても過言ではないのだが、それにも限界というものがある。朧はルビノワの分身のつもりでいるので、彼女の事が心配だった。

 そしてその朧の心配をるいがする。るいも含めた皆の心配を沙衛門がする。

で、結果的に皆の表情が暗くなるのだ。末期的と言えた。




 食堂に沙衛門が、幽冥牢以外の皆を呼び集めたのはそんなある日の夜だった。

 情報交換も含め、皆で言いたいことを言おうというのだ。黙っているよりはマシだろう。沙衛門が皆の顔を見回してから口を開いた。

「そういう訳で、このままでは、折角何かの縁でこの屋敷に集った我々が空中分解しないとも限らないので、話し合って今後どうするか考えていきたいと思う。一人づつ今の心境を述べて欲しい。

 まずはルビノワ殿からだ」

「憂鬱です。主殿と話が出来なくて苦しいです。泣きそうです」

「その様だな。では次、朧殿」

「ご主人様が元気でないと、ルビノワさんもこの様な状態になってしまって私も辛いです」

「ふむ。では、るい」

「皆さんの表情が暗いのは主殿の元気がないのと連動しているのが分かっているのでしたら、そちらを何とかしませんか?

 ぼやいていても仕方がないですし、ここはひとつ無理矢理にでも動いてみましょうよ」

「と、言っているがお二方はどうだ? らしくない状況でうんざりしているんじゃないのか?」

「そうですね。楽しくないですもんね」

「……ええ」

 返事はしたものの、浮かない顔のままのルビノワ。それを皆が心配そうに見つめていた。




 幽冥牢は幽冥牢でヘトヘトだった。

 問題処理の為に動いている時はそれなりにてきぱきとやっている様な気もするが、それが一段落した後、妙な開放感と雑念にとらわれるのだ。

 借金苦とはこれ程までに、身体の中に澱が溜まって行く気分になるものなのか。予想外の流れが畳み掛けて来て、それでここまで追い詰められてしまう現実。それが一番恐ろしかった。

 今回の処理で、自分の親(かろうじて通常会話が出来る様になったが、基本的には嫌いだ)には

『そちらに債権の取立てが行く様なら、親子の縁を切ってしまってくれて結構』

と電話で話した。それは問題ない。


 何故なら以前、父親の残した借金がある事を不意に、債権を買い取った業者からの葉書きで知らされ、それを相続しないで済む様に、ほぼ一人で動いて財産相続放棄の手続きをした事があり、その経験の分だけ、まだどうにか、落ち着いて解決の流れに持って行く余裕があったからだ。

 その一件の際は、本来動くべきである母親は仕事のスケジュールを理由にして、全く動かなかった。幽冥牢にも仕事があった訳だが、彼の母親は子供の仕事を仕事だと思っていなかった。

 更に、その一件が終わったら、今度は

『親戚方面への挨拶がてら、遊びに行っていい?』

などと聞いて来た辺りで、幽冥牢は母親へこれまで抱いて来た怒りを爆発させ、関係が余計にこじれたのだが、母親は全く自覚なしだった。定年でも仕事を離れた訳でもない。

『面倒から逃げたのだ』

と、幽冥牢は思っている。

 父親の方の親戚に至っては、徹頭徹尾、連絡すら寄越さなかった。




 その手続きの途中で関係が途切れてしまった人達の事を、幽冥牢は後々まで引きずる事になる。

 何せ、彼女もいたのだ。それが一番大きな傷になった。彼女は年下で、大学に入りたてだった。それから数ヵ月後、何と、年末を迎える辺りに業者からの葉書きが届いて、処理手続きをスタートである。

 最悪のタイミングで、こちらはその手続きに終われ、相手は大学のテストと学園祭の準備に追われ、何ヶ月も会えていなかった。

 事情をそのまま彼女に告げれば、間違いなく怖がらせてしまう。そう考えた幽冥牢は、解決してから折を見て伝えようかと思っていた。裁判所も年末休みに入る。暗く、イライラする気分のまま、年が明けていた。

 どうにか父が最後に住んでいたという土地の裁判所で手続きを済ませ、一息ついた所に、彼女からの電話があった。そこで告げられた言葉は、

『もうそろそろ終わらせましょう』

であった。

 二人の関係を、である。


 ショックが強過ぎたのか、幽冥牢はあっさり承諾した事しか覚えていない。会っていないのだから無理もなかったし、彼女の口調からは、浮気を疑われている節も伺えた。

 いずれも無理はない。その前の年の学園祭と試験の準備の辺りから、いつ電話をかけても、タイミングが悪く、ろくに話せなかったのだ。そこから、時間が空き過ぎていた。


 それで、その電話を最後に、別れたのだ。


 生まれて初めて出来た彼女と。




 その後、幽冥牢の母親は

『あんた、というか、親父もお前も、結局自分の事しか考えてないんだろう』

と怒鳴り散らしたくなる様な、話すには遅過ぎる、まるでいらない後付け設定の様に、打ち明け話を無駄に小分けして切り出すというパターンを繰り返した。

 あんな生き物に懐いていた自分を、幽冥牢は深く呪った。

 幽冥牢が幼少のみぎりに既に、彼にその財産相続放棄の手続きを行わせるつもりだったという父も、前述の通りの、自分以外の全ての人間を、自分の付属品としか思っていない様な母親も、現在進行形で深く呪っている。

 殺意を抱くレベルなど、当の昔に通り越している。




 まあ、そんな色々があってその時もくたびれ果てたのだが、自分の場合となると、それとも違う疲労感が襲って来るのを感じる。

 自分では

『今までやった事のない処理だから緊張しているのだろう』

と思っている。

 色々な感情が渦巻いているのは分かるが、とりあえずそれをほったらかして動いているのだ。

 いつもの腹の底から来る不快感ではなく、妙なイライラにも似た脱力感もある。

(むう……こんな事では皆に顔向け出来ないな)

と思えば思う程、敗北感の様なものが募って来る。やるせない。

 自分の部屋で

「……ええい、ちくしょー!」

と喚いたりもした。

 結局の所、裁判所の処理を待つしかないのだが、それがどれ程かかるのか。


 自分がこれほど堪え性のない人間だとは思わなかった。日頃ののほほんぶりはどこへ行ったのか。

 幽冥牢は溜め息をついた。




 そんなある日、更に最悪のタイミングで、幽冥牢は廊下でルビノワと出くわした。

 彼女の方は偶然でもないらしい。壁に寄りかかって、腕組みをしているのだ。待っていたのだろうか。

 幽冥牢は彼女に声をかけた。

「どうしたんですか? こんな所で」

「主殿にお話があります」

 彼は頭の中で本日の予定を思い浮かべてみた。特になし。

 まあ、後は弁護士の連絡が来るのを待つばかりなのだが、どうにも落ち着かない。

 皆に話してあるのは、業者が来てもお金を払わない事だけだ。弁護士を経ての諸々の手続きが全てフイになるからである。皆は優しいので不意に

『肩代わりしよう』

としないとも限らない。それも不安材料の一つだった。

 それを考えた主の眉間に少ししわが寄ったのを、ルビノワは見逃さなかった。

「やはり何か溜め込んでいる事があるんですね。場所を替えて話をしましょう」

「でも、特に今話す事は……」

「主殿っ!」

 ルビノワの突然の怒った口調に幽冥牢はびくっとした。

 ルビノワはルビノワで、主が自分達に素直に甘えて来なくなったのがとても悲しかったのだ。

 幽冥牢は状況説明をするべく、言った。

「怒るのは分からなくもないですが、少し待ってくれませんか。手続きは順調に進行していて、ケリの着かない事ではないですから」

「違います。

『私達に何で気持ちを打ち明けてくれないのか』

という事で怒っているんです。

 ネットではあんなに正直に気持ちを打ち明けているのに、それなのに主殿の表情は暗いままです。まだ何か溜めている事があるからでしょう?」

 ルビノワは幽冥牢の両肩をしっかりと両手で掴み、彼の瞳を切なげに見据えた。幽冥牢は苦い顔で視線を逸らした。

 それにも構わず、ルビノワは話を続けた。

「大変な状況だというのは私にも分かります。進行状況も今、伺いました。

 ですから

『情けない』

なんて思いません。お願い、正直に話して……」




「……じゃあ、今は一人にして欲しいです」




 聞きたくなかった返事を聞き、彼女は鼻の奥がつん、とした。




(何で言ってくれないの……)




……目頭が熱くなる。

 ルビノワの平手が彼の頬を打った。

「怖いものを怖いと言うのがそんなに恥ずかしいですか!? 私だって生活苦で似た様な状況に陥った事があります! 朧だってそうです。

 けど、それでも、私も皆も、あなたに、社会人として、友人として、アドバイスしてあげられますし、悶々として皆を遠ざけるだけの今のあなたよりずっと大人だわ!

 あなたは……私達を信用してないんです!!」

「そんな事は……」

「私はあなたを見損ないました! 嫌いです……大っ嫌い!!」


 幽冥牢から顔を背け、眼鏡を外し、涙を拭いながら走り去るルビノワを、彼は追う事が出来なかった。

(借金は自分の周りの皆を不幸にする)

という、当たり前に広まっているセリフが、頭の中で何度も繰り返された。


 しかし彼が思ったのは

(また怒らせちまった……)

という言葉だけだった。

 平手打ちを食らった事よりも、そちらの方が余程堪えていた。




「それで叩いちゃったんですね?」

「……うん」

 食堂の椅子に所在無さげに座って涙を拭いているルビノワを見つけ、朧が声をかけたら彼女は珍しく大泣きして縋り付いて来た。

で、何があったのかを、朧が自分の膝に顔を埋めてしゃくりあげているルビノワから聞いているのである。

「ルビノワさんはご主人様が心配なだけなんですよね?」

「当たり前よ……自分の友達以上の存在が自分と廊下ですれ違っても会釈だけして去って行くのよ?

……そりゃあ何でも出来る訳じゃないけど、そんな態度をされたら

『じゃあ自分は何の為にここにいるんだろう』

って思うわよ……うっ」

「そうですね。よしよし」

 再び泣き出したルビノワの髪をそっと撫でながら、朧は

(もう一度話し合わせるしかないな)

と思った。


「私が話し合いの場所を作ってあげます」

「え? でも……来てくれるかしら。叩いちゃったし……」

「ご主人様をかなり高い確率で動かす事の出来るキーワードがあります。それを私は知ってますから」

「何でそんなのを知っているのよう」

「私はこのお屋敷のみんなのコンディションを管理する仕事に就いているんですよ? それくらい知っていて当然です。

 ですからルビノワさんは、私の指示した場所で待っていて下さい」


 自信たっぷりに胸を張る朧。ルビノワは

『この相棒がこの時ほど頼もしく見えた事はなかった』

と後に幽冥牢達に話している。




「この場所に?」

「ええ、そこでルビノワさんがお待ちかねです」

「分かりました……ふう。やっぱ怒ってるよなあ、この前の事……」

 苦い表情で視線を落とす幽冥牢に、朧はあえて挑発的に、こう告げた。

「これでもし行かなかったりしたら、ご主人様はルビノワさんに舐められますね。間違いなく」

 その単語に幽冥牢が反応するのをちらりと横目で確認した朧は、心の中で

(ビンゴ、かな)

と思った。


「……舐められる、か」

「きっとルビノワさんは失望してますよう?

『信じて付いて来たのにあの朴念仁っ!!』

と思っているかも」

「ああ……間違いなく」

「うーん、まだ元気がない感じですねえ。

 じゃあ、今から私の言う事が当てはまっているのなら返事をして下さい」

「はい」

「では。

 漠然とした不安を感じている」

「はい」

「皆がいなくなってしまっても

『それは全て自分の責任だから、受け入れるしかない』

と思う」

「はい」


 その様な感じで幾つか質問をされ、それに幽冥牢は素直に答えた。ほとんど『はい』で答える結果になった。

(むう……)

 指摘されて答えるのは気恥ずかしいが、何か変化が起きた様な気がする。はっきりと自分の心境を、今なら言えそうだ。

 両手を腰に当て、朧が口を開いた。

「ルビノワさんがお待ちかねです」

「はい」

「一人で行けますよね」

「ええ」

「ご主人様、ふぁいと!」

「ありがとう。では行って来ます!」

 幽冥牢は

『しゅびっ!』

と片手を上げて彼女にしばしの別れを告げると、ルビノワの待っている場所に向かって、ランニングスタイルで走り出した。




 幽冥牢屋敷の裏には小高い丘があり、そこには一本だけ大きく枝を広げた太い幹の木が立っている。そこはルビノワが一人になりたい時の、いつもの場所であった。

 そこで夏の風に吹かれながら、日差しを避けて膝を崩して座り、先ほどから幽冥牢を待っている。今日の彼女は珍しく白いワンピースに身を包んでいた。

 幽冥牢がやって来た。えっほえっほと長距離走のペースで。

 彼女の前まで走って来ると、荒く呼吸をしながら彼女にとりあえずの挨拶をした。

「ごめん。遅れました」

「いえ。来るまで待っていようと思ってましたから」


 二人で並んで座ると、幽冥牢の呼吸が落ち着くのを待った。

 やがて、どうやら落ち着いた彼が口を開いた。

「えーと、何処から話したらいいのか分からないですけども、まず。この前はすいませんでした」

 そう言って彼は頭を下げた。それを真顔で見つめるルビノワ。

「いえ、私も叩いてしまいましたし、おあいこで良いのではないでしょうか」

「叩かれて当然でしょう。どうしたら良いのか分からなかったけど、

『ああいう態度はないよな』

って反省してます」

「じゃあ、素直に話してくれますか?」

「……ああ。ねえ、こっからいつかの調子で良いですか? 堅っ苦しくて。そちらも素の喋りでいいですから。

 うちに来た頃の様なね」

「……ではそうするわ」

「どうも。聞いて、答えるから」

「今の気分は?」

「お蔭様ですっきりしてるよ。朧さんには感謝してます」

「じゃあ、何でも聞けるわね。

 辛い?」

「ああ、辛いね」

「何が辛い?」

「『今の様な状況でちゃんとしたアドバイスをくれる親戚が一人もいない』

という事実が辛い。いたずらに

『自己破産しなくて済みそうな方法はないの?』

と言うばかりで「自己破産」がどんなものか知らないで喚いているんだ。臭いものにふたするばかりで実はそれがどの様なものかを知らないんだ。呆れたよ。

『知らない』

と言うだけで、何も失わずに物事が解決するなら、人は死なないんだよ」

「そうね。その通りね。

 あなたはだから、自分で動く事にしたのでしょう?」

「自分で調べて結果を知るしかないし……」

「それで、その結果、自分の周りに知り合いが誰もいなくなっても?」

「全部が全部自分のせいだとは思わないけど、そうなったらそれはそれでしょう」

「それでいいの? そうなった時、あなたは本当に一人かもしれない。

 寂しくないの?」

「……俺が寂しくない様に見える?」

「いいえ」

「……何から何まで納得して受け入れて来た様に見える?」

 鼻の奥がつんとして、視界が滲むのも構わずに幽冥牢は続けた。

「いいえ。

『ただただ我慢する事が美徳だ』

と押し付けられて来たのよね? それ以外のやり方を模索しようとしない人達から」

 とうとう堪えきれずに幽冥牢は、自分の両膝の間に顔を埋めた。

「……ああ。俺はただ、静かに皆と楽しくやっていたいだけなんだよ。

 ネットで知り合った人達と、毎晩カキコし合ったりしていたいだけなんだよ。

 仕事だって転職出来なければ、今よりいい収入なんて得られないんだよ。

 まずは雇ってもらわなきゃ金なんて入って来ないんだよ。ふざけて仕事をしていた事なんて一度もないんだよ。

 それを

『しっかりしていないからだ』

とか

『ちゃんと仕事をしていればそうはならない』

だとか……何も知らないから……説明しても、自分で話した事で自分の頭の中がこんがらがっているし、自分でそれに気がつかない親と親戚ばかりで……ちくしょう」

 幽冥牢は肩を震わせていた。幽冥牢が嗚咽する気配を感じてルビノワは何も言わずに近寄り、彼を横から抱き締めた。

 幽冥牢は最初はその腕を解こうとしたが、悲しさの方が先に立ち、解くのを止めた。


……ルビノワが口を開く。

「私達は正直にそう言ってくれる事を望んでいたんですよ、主殿」

 申し訳なくて涙が更に溢れた。しゃくりあげて息が苦しい。

 幽冥牢は、何とか次の言葉が言えた。

「また……ヘマやったかな……」

「そうじゃないです。素直に話して欲しかっただけ。そうしてくれないのが悲しかったんですよ?

 私達が愛想を尽かしていなくなるとでもお思いでしたか?」

「うん……」

 ルビノワは彼を更に強く抱きしめた。

「怖かったんですね、そうなる可能性みたいなものを感じて。

……そんな訳ないじゃないですか。そんな風な事をする訳ないじゃないですか!」

「でも、なる時はきっとそうなると思って……だからはっきり言ってほとんど諦めてた。

『またこの屋敷で一人でやって行くしかない』

と思ってた。

『ネットの皆にも迷惑のかけ通しだ』

と思ったら凄く辛かった!

 だから……ああ……!」

 幽冥牢は、彼女の方を向き、抱き付いて声を上げて泣いた。

 それをしっかりと胸に抱きしめたルビノワの瞳からも涙がこぼれた。




 ここを出てどこへ行けと言うのか。

 皆との思い出が詰まったこの場所から出てどこへ行けと言うのか。

 考えただけでぞっとする。怖くて、切なくて、そういう風になるのが嫌で彼女も涙を流した。


 幽冥牢とルビノワはそれからしばらく、二人で声を上げて大泣きした。




 どのくらい泣き喚いただろうか。夕日が山の向こうに沈もうとしている。

 とりあえず泣き止んだ二人は、ハンカチであちこち拭きつつ、お互いに顔を見合わせた。

「こんなにわんわん泣いたのって随分前の様な気がする」

「沙衛門さん達が来た時以来ではないですか?

 あーあ、私も泣いたなあ。何かおなかが空いて来ました。主殿は?」

「俺も。ラフな話だけどね」

「屋敷に戻ってご飯にしましょう。朧達も首を長くして待ってますよ?

 ね、主殿」

「……そうしますかね」




 二人で手を取り合いながら立ち上がり、丘をとぼとぼ降りて行く。首を回してほぐす幽冥牢。前髪をかき上げるルビノワ。でも手は握ったままだ。

 幽冥牢が彼女を見て、口を開いた。

「元々人生なんて何処でどうなるか分からないですよね」

「ええ、そうですけど……どうしたんですか? いきなり」

「今回たまたまそれがはっきり目の前に迫って来ただけなのに、何であんなに慌てていたんだろう、と思って」

「怖かったからだって自分でさっき言ったわ。変な主殿」

「そうだけど、何かわんわん泣いたせいか気分が落ち着いてるな、って」

「それならそれでいいじゃないですか」

「まあ、そうか。

 ホントにすっきりしました。待つしかないもんね」

「今度はちゃんと皆に気持ちを打ち明けて下さいね?」

「そうする。

……ごめん、ルビノワさん」

「主殿……」




 夕日がほぼ沈み、紫色に染まった世界の中を、二人はしっかりと手を握り、歩いて行った―

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