34 壊れた朧、治った朧

 今度こそ本当に朧は何もしなくなった。出来なくなってしまった。

 無理もない、と皆は思った。それで何とか声をかけようとして、ずっとかけそびれているのである。




 先日までの墓参りの際、朧はかつての仇敵と遭遇し、そこで彼女は知らされてしまった。

『かつて彼女の付き合っていた相手は、彼女と一緒にいたから殺されたのだ』

と。

『朧の過去の因縁のとばっちりで殺されたのだ』

と。

 その男が彼女にはっきりそう告げた。彼氏を殺した相手が、である。




 恐らく真実だろう、とルビノワは思った。朧と同郷である彼女には、連中のやり方が嫌と言うほどよく分かっていたから。

 まあ、その男は沙衛門が始末をつけたというからそれでいい。問題は朧のケアなのである。別々に移動していたルビノワ・幽冥牢達とランデブー地点で落ち合った時、朧は意識を失っていた。ホテルをチェックアウトし、昔の知り合いに連絡を取って、少し値の張るルートで日本に帰って来るまで朧はずっと眠ったままだった。

 途中で意識を戻した様だが、ずっと寝転んだままで、目が覚めても活動しようとしなかった。起きようとしないのだ。

 目をつぶって眠りに落ちるのを待つ。それの繰り返し。完全に周りを拒絶していた。

 その落ち込みぶりに初めは皆同情していたが、放っておくと治りそうにないという事次第に分かって来た。身の回りの事もしなくなりつつある。その世話はルビノワとるいに任せきりだ。

 自分とるいが一緒にいながら完全にしてやられた、と沙衛門は思った。




 早急に何らかの手を打たなければならない。それもルビノワとるいが中心で彼女と接して。

 というのは、今回の事で朧は、沙衛門や幽冥牢を見ると体調を崩す様になってしまったのだ。吐き気、目眩、頭痛、動悸と息切れに襲われる様になった。肉体年齢の経過を止める手術を受けた彼女達専用の医療機器の診察の上で複数の薬を調合、規定量を服用して、どうにか朧は歩いていられる。

 一度だけ話を聞いて欲しくてルビノワの付き添いで出向いたが、こちらと目も合わせず、俯いてずっと震えていた。

 涙をボロボロ流し、小声で

「助けて……助けて、助けて! もういや……怖いよ……いや……!」

と言い続けた。見ていてやり切れなくなって来る。ルビノワにくっついて離れようとしない。るいと一緒の時はるいにべったりだ。夜は彼女達二人の内どちらかが交代で一緒に寝る。

 身体にも引っ掻き傷が増えて来た。そちらは幽冥牢にも経験があったから、自分でやっているのだという事が分かった。

(自分みたいにナイフで切り傷を付けまくらないだけマシか)

と思った。




 ここで突然明かすが、幽冥牢は過去に職場でのノイローゼ気味で、そういう事をしないと辛くて仕方がない、という時期があった。そりの合わない先輩がいて、同じ部署で、あろう事か、そいつは所謂圧力団体に所属している事を幽冥牢や一部に喧伝していた。それを傘に来たそいつに、仕事の失敗の度に脅迫される毎日。

 上司はダイレクトに何でも聞くタイプで、逆に危なくて、結果、誰にも相談出来なかった。

『何でも自分一人で解決出来なければ、社会に存在していてはいけない』

と親に小さい頃から態度で示されていたのが、かなり響いていた。

『お兄ちゃんなんだから』

という一言がいつも重くのしかかって来ていた。

 今考えるとアホらしい。好きで長男に生まれた訳ではないのだから。しかし、

『そういう考えは甘ちゃんなのだ』

と周りに言われるとそういう気もして来る。体育会系の会社だったので、

『何でも気合で片付けろ』

という社風に従わなければならなかった。そもそも誰に相談できるというのか。


 そういう流れで、シラフでその内、そういう事をする様になった。そうなっても死ぬ気はなかったので、腕の外側の皮膚をただ何回も切り付けるだけだ。それで多少落ち付くという日々を過ごしていた。

『体内の血液量が少なければ、苛立つ元気もなくなるだろう』

と考えてしまう程に追い詰められていた。

 幻聴にも悩まされ、物忘れが酷くなり、全くいいザマだった。




 今ではそうする理由がないのでしない。傷は、腕に薄く残っている。

 多分もう消えない。幻聴も止んだ。とても静かだ。

 アホな事をしたな、と思う。だからもうしない。皆に心配や迷惑をかける方が辛いからだ。

 それに、ネットで話だけでも聞いて貰える事が分かったから。それだけで充分だ。

 ホームページを開いて更にそれがよく分かった。結構話せば聞いてくれるものだ。真面目な話もボケをかましてもちゃんと聞いてくれる。

 なかなか会えなくなってしまった人も含めて、皆が話をとりあえずは聞いてくれる。

 だから、凹んでも立ち上がれる。


 ここまで読んで呆れた人もいるだろう。それならそれでしょうがない。判断は委ねる事にする。




 しかし

『失敗したな』

とか

『ちと大変だ』

という程度なら、別にぽろっとこぼしてもいいのだという事が分かった。もっと切羽詰って

『もう駄目だ』

という所まで行かないとそういうセリフを吐いてはいけないのかと、ずっと思っていた。

 やはり、別にそれでも問題はなかったのだ。単純かもしれないが、とても大事な事だ。

 話を聞いてもらえる。それだけでいい。

 リンクを晴らせて頂いた方々のページを見て周るのは個人的にとても重要な事になった。楽しい事も色々教えてもらった。

 とりあえずは気分は悪くない。まだ行けそうだ。

 だから、どんなに落ち込んでも、もうしない。




 その頃は、それで踏ん張れたのだ。




 話を戻そう。

 朧はほとんど喋らなくなった。爪を噛む癖がつき、その度にルビノワとるいが優しくなだめた。

「爪を噛みそうになったら自分達に甘えていいから」

 そう言って抱きしめる。その間、幽冥牢と沙衛門は遠くからそれを眺めている。

 自分達の存在に気が付くとルビノワ達の後ろに隠れる。大体その時には目に涙が浮かんでいる。

 震えている。

 それで二人に手を引かれ、肩を抱かれながら、何回かこちらを振り返り、去って行く。




 屋敷の庭の、『彼女』の眠る墓地のすぐ傍。

 途方に暮れつつ、晴れ渡った空を、幽冥牢と沙衛門は並んで座り、見上げていた。

 不意に幽冥牢が言った。

「昔の俺もああだったんだな、きっと」

「そうだったのか? そうは見えないが」

「ちょっとね。会社員だった頃、そういう事がありまして。その時は夜間での専門学校の友達が

『そんなとこ、辞めちゃいなよ』

って言ってくれて、それで踏ん切りが付いたなあ。大分悩みましたし、

『死ぬしかないのかな』

と思っていました。

 何時間寝ても疲れが取れなくなっていたので、ある日決意して、

『もう辞めます』

と上司に言って、年明けに辞めました。それを言った後の方が、上司の責任逃れとかでいびられて針のむしろになって大変だったけど、辞めて正解でした。

 だって、会社のキャンペーンとやらで一人当たりのノルマを課して、やれ、

『職場に来る客に6桁のお値段の宝石を売れ』

とか、やれ、

『損害保険の客を取れ』

とか言われましてね。駄目なら自腹だし、

『可能なら親戚に売れ』

とも言われてました」

「ふむ、無茶を抜かす会社だ」

「ホントに。私が入社した時点で経営が傾いたって知らされて、それを、アホみたいなそういうキャンペーンで持ち直そうって考えてたみたいで。

 あのまま行ってたら、どうなってた事やら。火傷した所にわざと水抜き剤ぶっ掛けたりしていたから。それで脂汗流してニヤニヤして。全くザマあないです」

 ここまで自嘲気味に話してから、沙衛門が自分の顔を見ているのに気付いた。優しい眼差しだったのでちょっとうろたえた。

「主殿」

「はい? やはり、呆れました? こういう人間で」

「いや、違う」

「気になるなあ。言ってみて下さいよ」

 何だか不安と期待が入り混じった奇妙な気分になって来たので、ふざける様に沙衛門の首っ玉にかじり付いた。その腕を沙衛門は掴んで優しく揺すって、こう言った。

「辞めて良かったのだぞ、そんな所。だから気にするな。

 そう言おうとした」




 不覚にも硬直してしまった。

 ストライクだ。普通に言っただけなのに、心の奥にすんなり入って来た。

 思いがけぬ所で肯定されてしまった。もっとそっけなく笑い飛ばされると思った。

(ああ、くそ、やられたなー……)

と、頭の隅で思いながら、彼の背中に頭をぐりぐりと押し付けた。

「沙衛門さんは、やりますなあ」

「主殿? どうした?」

「ちょいと見ないで」

「ああ」

 当の昔に察していたが、沙衛門はただ、黙って空を見上げていた。

 その背中に、幽冥牢の問いが投げかけられる。

「ホントに、辞めて良かったんですよね……」

「……ああ。俺だって辞めるさ、そんな所」

「そっか。……そっか」

 幽冥牢は沙衛門の背中に額を押し付けたまま、動かなかったが、その心配りに深く感謝した。

(自分の方が責任を感じているくせにさ……)




……しばらくそうしていた後、沙衛門が口を開いた。

「ところで主殿、お主が凹まずに済んでいるその方法は使えぬか?」

「え?」




 二人はルビノワとるいに、急いで食堂に来てくれる様に連絡を取った。ややあって、廊下を走って来る足音がした。ルビノワ達だ。

「ごめんなさい、廊下を走っちゃって」

「お気になさらず。こっちは友達が大変なんだから」

「何か考え付いたのですね?」

「ええ、沙衛門さんがね」

「どんな方法ですか?」

「まあ、席に付いてくれるか、二人とも」


 もどかしそうに席に付く二人に、沙衛門と幽冥牢はその方法を話した。納得し、問題点を挙げ、それを皆で考える。

 実際には全然難しくない。これを読んでいるあなたも、どこかで同じ事を経験した事があるはず。

 後は、まあ、気楽にやる事だ。また、悪い方に考えない。それくらいだ。

 経費は6、7万でおつりが来るだろう。電話も家のものが無い所はそう多くはないのではないか。

 あるシステム契約を用意する必要があるが、月々の経費はそうかからない。そういうお話である。




 提案がまとまった頃、ルビノワがまだ不安そうに言った。

「上手く行くかしら……」

「まあ、俺はいっつも駄目もとですから、ハイ」

「主殿、変にやる気満々だな。さっき泣い……」

「ああ、黙る! もう!!」

 沙衛門の口を塞ぎにかかる幽冥牢と、楽しげにされるがままにしていた。

「何だかいつもより仲良しになってますけど、何があったんですか?」

 そう言いながら、ルビノワとるいはいつもの、変に艶やかな困惑した表情を浮かべて、互いにそれを見合わせた。




 その方法と同時進行で、幽冥牢と沙衛門もルビノワ達の指示に従って、彼女の回復の手助けになるであろう事にした。

 自分達に出来るのは、彼女と直に接する事だ。

 最初は手を触れさせ、いずれ、握手したり、話をする時間を長くして行く。やはり初めは手に触れながら恐怖が蘇ったのか、朧はしくしくと泣き出した。唇がわなわなと震えているのを見て、幽冥牢は抱きしめてやりたくなったが、それをしては元の木阿弥なので、

「もういいよ。よくやったね」

と言ってやると、彼女は唇を噛んで

「うう……」

とだけ言った。もしかして返事だろうか。

(そうだったらいいな……)

と思ったら不意に切なくなり、胸が締めつけられた。鼻の奥がつん、とした。


 ルビノワに朧を任せた。肩を震わせてルビノワに支えられつつ去って行く彼女。

 また、沙衛門が自分の顔を見ているのに気が付き、訊ねた。

「今日は何?」

「いや、何やらべそをかきそうな顔をしているので気になった」

「朧さんが、滅茶苦茶怖いだろうに、頑張ってこっちの手を触ってくれました。それで

『よくやったね』

って言ってあげたら

『うう』

って。それを見てたらつい……」

「俺の時もそうだった。こちらから握ってやれないのが切なかった」

「あんなになっても治ろうとしてるんだ……」

 その後ろで、話を聞いていたるいが穏やかに微笑んだ。




 三ヶ月が過ぎた。

 何とか普通に会話してくれる様になった朧を、幽冥牢は皆と一緒にある部屋へ連れて行った。そこには、安いけれどもウィンドウズのPCとネット回線に繋ぐ設備一式が揃っていた。

 それを起動させながら幽冥牢は言った。

「今日からホームページを作ってもらおうと考えました」

「誰かの仕事……?」

 おずおずと朧が聞く。口調など幽冥牢にはどうでも良かった。自分と話してくれる様になっただけで大分マシだった。

 幽冥牢は話を続けた。

「朧さんが自分の好きな様にページを作るんです。

 最初から凄いのを作れなくたって問題ないんだから、本当に好きな様にね。

 どう? やってみようかな、と思いませんか?」

「私の話なんか聞いてくれるかな……」

「俺も最初はそう思っていました。でも、誰かがネットの向こうから、きちんとした返事をくれました。

 参考になればいいんですが」


 こんな調子だったが、結局その日は

『やっぱりまだ怖い』

と言ってしょんぼりする彼女をなだめる事になった。まあ、最初だし、そういう事もある。

 根気よく続ける事にした。何日か日を置いて、言い方は悪いが、騙し騙し勧めてみる。

 了解を得られぬまま、数週間があっという間に過ぎ去り、ある日。遂に彼女が首を縦に振った。

「やる」

「ホントに?」

「うん」

「やり方は分かる?」

「あまり……」

 悲しそうに肩をすくめる彼女。それを見て

(俺のページのサポートをしてくれたのにな……)

と幽冥牢は少し寂しくなったが、気を取り直して一冊の本を手渡した。

「これ、俺も使ってる本。これを見ながらなら、きっと誰でも出来ます」

「誰でも? ホントに?」

「ええ、俺だって作れたんですから、まず間違いなく」

「私でも?」

「出来るわよ。きっと出来る」

「私達もお手伝いしますよ」

 ルビノワとるいが励ます様に言った。そこで一寸考え、朧は口を開いた。

「……本当に分からない時だけ聞く。後は自分でやる」

 どうやらまた一歩前進の気配。幽冥牢が手短かに伝える。

「よし。ご飯の時は呼びに来ます。後、誰かに来て欲しい時はインターホンで呼べますから」

「分かった」

「じゃあ、後でね、朧」

 そう言って立ち去ろうとしたルビノワの首に腕をそっと回し、朧は彼女の頬に口付けをした。びっくりして朧の顔を見るルビノワ。

 その瞳を見て、朧が目を潤ませながら呟いた。




「頑張るから……」




……ルビノワの胸が切なくなった。

 思わず彼女をかき抱きそうになったが、それを押し殺し、しっかりと抱きしめるに留めた。そして彼女の頬に優しくキスをする。

 そして彼女の柔らかい頬を両手でそっと挟みながら告げた。

「後できっと来るから。私も頑張る、お仕事。

 一緒に頑張ろう?」




『一緒に頑張ろう?』




 傭兵稼業で朧と初めて会った頃、散々悪態をついた後、交戦中に重傷を負ったルビノワは、様子を見に来た彼女に、そう言われた。

 自分と彼女にとっては、魔法の言葉だ。いつもそれで何とかなった。二人で何とか出来た。

 いつかそう言って励ましてあげよう。そう思っていた。


 いつも照れてしまって上手く言えたと思った事はない。……今は上手く言えただろうか。

 彼女はその事を覚えているだろうか。


 視界が滲んできたので、ぎゅっと目を閉じ、開く。……多少マシになった。

 朧にしばしの別れを告げ、ドアを閉める。


 廊下をしばらく歩いた頃、幽冥牢が言った。

「上手く行くことを祈りましょう」

「きっと大丈夫ですよ。だって、わ、私の……うっ……」




 言葉に詰まった。声が出ない。しゃくりあげて来る。

 目をぎゅっとつぶった。涙が溢れた。急いで眼鏡を外す。

……やっぱり駄目だ、と思った。朧がいないと自分は駄目だ。

 もうすぐ治るからそれまで待てないのか。……駄目だ。




(朧……早く一緒にあちこち行こうよ……)




 ルビノワは、幽冥牢の胸に縋り付いて泣き出した。

 酷い声で、自分でもそれが悲しかった。

「私のっ、ひっ、友達……ですから、ひっ、だ、だいじょ……ぶ……ひっ……!!

 朧……! いないと嫌だ……っ……あああぁぁぁ……!!」

 わんわん泣いた。大声を上げて子供の様に泣いた。

 もう朧がいないのは嫌だった。辛くて耐え切れなかった。

 それを抱きしめて支えている内に、幽冥牢ももらい泣きしてしまった。力強く抱きしめる。

「そうだね……いないと辛いね……酷い話だよなあ、ホント……ちくしょう」

 るいも沙衛門に縋り付き、涙を瞳にため、ルビノワを見つめている。優しく自分の胸に抱きしめながら、沙衛門が言い聞かせる様に告げた。

「朧殿が頑張っている。皆で暖かく見守ってやろう。

 それに朧殿は負けた訳ではない。治ろうと、必死に立ち上がろうとしている。

 つまりはただの療養期間に過ぎず、何のかうんとに入らぬ。そういう事では?」

 幽冥牢達がそれぞれの口調で、

『そうだ』

と告げた。

「ならば、勝負はこれからだ」

 そう言って、沙衛門は不敵に微笑した。




「キスマーク……」

 それを時々指でそっと撫でながら、彼女は孤軍奮闘していた。

 まだ怖さは消えていない。キーボードを打つ度、それが増幅して行く様な気がする。

 腹の底に来る熱を持った嫌な感じ。パニック状態で動悸が激しくなって来る。作業を中断し、机との距離を開けるべく椅子を引く。ルビノワやるいから習った前屈で、頭を心臓の高さまで下げる。そのまま、深く、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。

 どうにか動悸は収まったが、滝の様な汗が気持ちが悪い。濡れタオルで汗を拭いて、着替えよう。




 再び椅子に戻った。モニタを眺める。

 ぶり返しが来たのか、悲しくなって来た。涙が滲む。

「う、うう……」


 そのまま、キーボードに突っ伏してしまえば楽になれるだろうか。

 そう思ったその時、頭の奥で声がした。




(また自分は一人だと思っているわね……この忘れん坊!)

(誰?)

 朧はその声に問いかけた。

(あなたの片割れよ。もう忘れたの? ひどーい……)

(だって私、ホントに覚えてない……)

 朧の脳内で、『彼女』は頭をわしわしとかきながらため息をついて、言った。

(ああ……もういいや。さあ、どこが分からないの? 教えて御覧なさいな)

 朧は本のページの一部分を指差した。

(ここがどうしても上手く行かないの……どうすればいい?)

(ああ、そんな泣きそうな顔しない。要はゆっくりでいいから進めていればいいのよ。

 私が手伝ってあげるから一緒に頑張ろう?)




『一緒に頑張ろう?』

 そう、先程の女の人も言っていた。名前は覚えているはずだが、記憶が混濁して、浮かんで来ない。

(ルビノワよ。あなたのお友達)

『彼女』の声が囁く。そうだ、ルビノワだ。それと、るいさん。

 ルビノワは何だか涙ぐんでいたのを無理にやっつけて

『また来るから』

と言って出ていった。

……今一つ思い出せない。はっきり出て来ないのがもどかしい。


 そのまま彼女はキーボードを叩き、分割ではあるが睡眠を摂り、本とにらめっこをし、朝昼晩とご飯を食べた。

 そして何日かして、彼女のホームページは出来上がったのである。




 無料ホームページのスペースを借り、ツリー式掲示板に登録して、という手続きをしたのは幽冥牢だった。あちこちの検索エンジンに登録してくれる無料のページがあり、そこで手続きもした。

 実は彼は先日まで色々と前準備をしていた。自分の知り合いのページの掲示板に

『一度見てみてくれないか』

というカキコをしただけだが。それで朧のページとリンクしておき、リンクした事だけを彼女に明かす、という訳だ。

 後は成り行き任せ。この方法は直接の知り合いでない方が望ましいのだ。




 手続きが済み、何日かして、朧にこう告げた。

「あの事を、打ち明けてみませんか?」

「ええっ、あの事を書くの……?」

「そうです。そのまま書く必要はないですから、適当にぼかして

『こんな事があった』

ってカキコして、皆に意見を聞いた方がいいと思います」

「でも……どうなるか分からないし」

「一人で考えているよりはずっとマシかと。掲示板てどういうものかも、更に良く分かると思います。

 まあ、考えてみて」

 そう言って幽冥牢は部屋を出て行った。

(何を考えているのだろう……)

と思った。色々な記憶がぼやけている。今聞いたばかりの事も忘れるのが当たり前になっていた。

 結構長い時間考えた後、彼女はまだ震える手でこれまた長い時間をかけてアレンジした内容であったが、『日記』のコーナーにそれを打ち込んだ。そしてアップした。

 以下がその文章の大体の内容である。




『どうも、管理人の○○です。今日は、

『こんな事があったのだけど、自分はこう思うのだが皆はどうか』

という事を書きます。一寸重いので、気が向いた人だけ見て頂ければ。


 昔、短い間でしたが付き合っていた人がいました。相手も私も同じ職場でした。

 年上で、渋いおじ様という雰囲気だったのですが、不思議と気が合い、お付き合いを始めたんです。

 教師の資格を取るまで、私はあちこちで転々として来ましたので、そう言う事は初めてでした。

それで大変素敵な時間を過ごしたんですが、ある日、彼が事故で死んでしまいました。突然の事だったのでかなり取り乱しましたが、最近やっと落ち着いて来ました。

 先日、その事件の時、現場にいて、私の事をよく知っている人に

『あんたのとばっちりで死んだんだ』

と言われて愕然としました。確かに私はあちこちで転々として来て、悪い知り合いと揉めてしまった事もあります。多分その人達はまだ私を恨んでいるはずです。

 でも私は相手のやり方を見てどうしても納得が行かなかったから意見をしたんです。それで揉めてしまったんですけども。

 私にさっきの話をした人は、その事を知っていて言った様です。

 今、大変落ち込んでいます。周りの皆のおかげで何とかやっていますが、ネットで知り合った皆さんはどう思うでしょうか。

 気が向いたら率直な意見を聞かせて下さい。掲示板で大丈夫です。


 長い話でごめんなさいね。気分を害した方にはお詫びしますm(__)m』




 二日後の、からっと晴れた昼過ぎ、朧から皆に呼び出しがかかった。インターホンで連絡を受けた四人は、彼女の部屋へ急いで向かった。

 そこでは、朧がモニターを見て涙をこぼしていた。ルビノワとるいが駆け寄り、両側からそっと手で肩を、背を、撫でてやる。

「何があったの? 大丈夫?」

「どうしたの?」

 朧は黙って画面を指差した。皆で争う様に見る。

 一人、幽冥牢はその後ろで壁に寄りかかり、順番を待った。まだ様子見という事らしい。

 頭の中で

(顰蹙を買いそうな態度かもだけど、それはそれでしょうがないな)

と思った。




 しばらくして、るいが彼女の手をそっと握った。

 沙衛門が朧の頭にそっと手を置いた。

 ルビノワが朧の肩に眼鏡を外して額を押し付けた。そして、涙をこぼしながら、そっと言った。

「……良かったね、朧」


 その画面は掲示板だった。

 そこには来訪者からの励ましのカキコのスレが立ち、返信に次ぐ返信で埋め尽くされていた。

 それぞれものの言い方の違いはあれども、ほとんどが肯定的な意見だった。

『頑張れ! 応援します』

『今、ちゃんとしてれば過去は関係ないと思うよ』

『気にする事ないよ』

等々。

 朧は、彼女は、それを見て嬉し涙を流していたのだ。




 ルビノワとるいをそれぞれ見やって笑顔を見せると、朧は再びPCモニタを眺め、告げた。

「ルビノワさんが、皆が

『一緒に頑張ろう?』

って言うから出来たんですよ。……覚えていてくれたんですね、あの言葉」

「……うん。いつかお返ししようと思っていたからね。

 それにしてもあなた、ホントに……雰囲気、出し過ぎで……」

 朧の頬に自分の頬を押し当てると、ルビノワはやがて、すすり泣き始めた―




 それを見て

(どうやら、もう大丈夫な様だな)

と思った幽冥牢は、そっと部屋を出た。

 後は皆に任せる。お茶でもすすろう。

(……老人だな、ホントに)

と一人で苦笑しながら食堂に向かおうとしたその背中に、沙衛門の声がかかった。振り返る。

「どうですか? 皆は」

 沙衛門は右手を額に当てながら、ありのままを告げた。

「不憫な話だが、あのままではルビノワ殿とるいは涙の出し過ぎで……」

「何だかえらく嫌な話になってるな、おい!」

 ツッコんでおき、それから、はは、と笑う。沙衛門もわはは、と笑った。

 そして、訊ねる。

「ところで、主殿。如何にしてあんな方法を?」

「知ってたって言うか……俺だって励ましのメールをもらった事ありますもん。それがヒントかな。

 後はまあ……昔の話ですね」

 何かを吹っ切った様子で、幽冥牢は穏やかな笑顔のまま、窓を見やった。

「教えてくれー」

 そう言いながら彼の首っ玉にかじりつく沙衛門。その腕に自分の手を乗せながら

「うぎゃー」

と、幽冥牢が苦笑してうめく。




…………そして。

(俺だって昔、スタンドの馴染みのよく話すお客に切り傷だらけの腕を見られて

『うわ、ひでえ。誰にやられたの? 大丈夫?』

って言ってもらえた時、ホントに嬉しかったものな……)




 そう、心の中で付け足した―

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