23 朧、彼氏の形見の指輪探しでぷんすかする

「ない……」

 自分の部屋で箪笥の引出しを開け、朧はそう呟いた。

 それは引出しの中の何処にも無かった。ずっと大事にしまってあった物なのに、今見たらない。どこかへしまい直したのだろうか。朧は自分の頼りない記憶をチェックし直した。

 やはり覚えが無い。ここ数週間の内にその引出しをいじった覚えが無いのだ。

「何で……?」

 彼女はそれから部屋中を非常に心細げな顔をしてあちこち開け放し、中の物を引きずり出し、果てはベッドまで引っくり返した。その頃には半べそをかいていた。それはまた今度にするには彼女にとって気にかかり過ぎるものだったから。

(灯台下暗しなら早く出て来てよう)

 その時玄関の方でノックをする音がした。近頃ようやく一人でここまで来られる様になった、彼女の主、幽冥牢だ。




「えーと……タイミングがよろしくなかった……ですよね?」

「そんな事、ないですもん」

 様子見の言葉を投げかけると朧はぶすくれた。その頬を、涙が伝う。

(いやいやいやいや、明らかに滅茶苦茶ご機嫌斜めそうだし、泣いてるじゃん!)

 胸中でシャウトする。

「あの……」

 無言で発言しかけた幽冥牢を見やる朧。幽冥牢としては、自分より小柄で愛らしい、日頃お世話になっている、尊敬すべき人物である彼女が狼狽しているのはとても精神衛生上大変よろしくない。愛らしいのが更にまずい。なだめている内にもやもやして来そうだ。

(何かですっきりしてから訪れるべきだった……!)

 賢者タイムを獲得してからの来訪でなかった自分を呪った。もしそれを済ませておけば、女性と対峙しても概ね問題はなくなる。それくらいには、本当は女性は大好きなのだ。おっぱい星人だし。

 思考を振り払おうとするも朧の様子に上書きされ、その複雑そうな視線にたじろぎつつ、幽冥牢は部屋の惨状と泣きべそをかく彼女を見て、どっちから先に対処したらいいか正直迷ったが、

(泣いてる女性のケアの方が先だな。決定!

 邪な俺はとりあえずくたばっとけ!!)

と、思考を整頓し、訊ねた。

「一緒に探しますから。ね? 見つからない時って焦りますよね。分かります」

「だって、だってこんなに探しても見つからないですし……」

「大事にしまっていたのに無くなるっていうのは俺だって結構あります。それで気になったから一生懸命やってるんでしょ?

 なら、納得が行くまで探してみましょう。何と言いますか、朧さんは悪くないと思います。ね?」

 そう言って彼は、朧の手を取ろうとしたが、彼女が手を引いたので、こちらも引いておく。警戒が必要だ。状況がそう示している。

「すいません。じゃあ手伝ってもらえますか?」

「ういす。で、一体何が見つからないんですか?」

「リングです。昔の彼に貰ったもので、露店で買ってもらった物ですけどとても大事な物なんです」

 そう言いながら一回引っ込んだ涙がまた彼女の瞳に溢れて来る。幽冥牢は困惑したが、余計な事は話したくなかった。

 思い当たる所から訊ねてみる。

「それは泣いちゃうのも無理はないですね……この前話していた人の事でしょう?」

「そうです。見つからなかったらどうしよう……」

 ぎゅっと握ったハンカチで口元を覆う朧。

(ああ、また何か思い出してるな、この人は)

 きっと楽しかった頃の思い出でも浮かんで来て、彼に済まなく思っているのだろう。そう幽冥牢は考えた。人の慰め方は千差万別なので、彼は対処にまた困った。朧の側からのスキンシップの方が圧倒的に多いので、こちらからは何が許されるのか、全く思い当たらない。

『受け身対応なら任せとけ! 上手く行くか知らんけどな!!』

というのが、幽冥牢の基本的な異性に対するスタンスなのだ。

 さておき、彼の事を思い出して泣いている女性を、果たして抱きしめて慰めたりしていいものか。あり得ない。

 少なくとも、それは自分の役割では無い気がした。

 昔、朝方まで一緒に過ごした女性(恐らく、読者の皆さんの希望の展開にはならなかった)が、その後の帰り道、元気がなさそうなので

『大丈夫?』

と訊ねたら

『彼氏ヅラしないで』

と言われた事があって、それ以来ずっとこういう状況に対しては及び腰なのである。

(ああ、誰か来てくれないかなあ。どう足掻いても裏目に出るパターンだよ……)

と思った。

 仲がいいと思っていると、思わぬ所でしっぺ返しを食らう事があるので正直疲れるのだ。自分と人との親しさの距離は幽冥牢にとって、永遠の謎なのである。

 それはさておき、とにかく彼女をなだめなければならない。心の中で頭を掻き毟りながら、彼はとりあえず声をかけた。

「じゃあ、探してみましょう。疲れたら休憩をはさんでまた探せばいいかなと考えます」

「そう……ですね。泣いていても始まらないし」

「そう思ってくれると助かります。偉そうな事は言いたくないので」

 まずは落ち着いた様だ。朧からリングの大体のデザインを聞くと二人は分担して探し始めた。




 それから二人は部屋の隅から隅まで文字通り隈なく探したが、それらしい物を見つけ出す事は出来なかった。

 いつまでも見つからないとイラついてくるもので、珍しく朧が愚痴り始めた。

「何で出て来ないの……? あたしが何かした?」

(滅茶苦茶怒ってるー! これは相当大事なもんだぜぇ……!!)

 凄惨な印象を受けた幽冥牢は、朧が向こうを見たタイミングで、さりげなくちらりと時計を見やった。あれから三時間ほど経っている。

 人間の集中力はせいぜい長く持って一、ニ時間と聞いている。朧は自分が来る前から探していた様子だから、もっと長いだろう。一旦休んでお茶でも飲んでから探した方が、上手く探せるのではないか。

 そう思った幽冥牢は彼女に提案してみた。


「……と思うんで、一旦休憩にしてから探した方が良いんではないかと提案します!

 その、ぶたれてもしょうがないですけど、能率としてどうかなという事で」

 朧が冷め切った眼差しで見返すと、告げた。

「それなら私一人で探します。ご主人様は帰って下さい。こんな状態ではお構い出来ませんし」

 鋭利極まる声だったが、表情が険しくならない様に心がけつつ、意見を投げてみる。

「ああ……いや、その。はっきり言うと俺から見て朧さんは休憩を入れた方がいいと思います。

 見つからないから、ご機嫌も悪くなっちゃう悪循環じゃないかなと」

「そりゃそうですよう。無いんですもん。機嫌も悪くなります。

 どうしたらいいか分からないですし」

「だから、あえて一度休憩して頭を休めません?

 その方がいいのではないかと思うんですが、どう、でしょう、か……」

 朧は日頃表情豊かな為、こういう状況下で彼女が沈黙すると、傭兵時代のあれこれを拝聴している幽冥牢としては、正直生きた心地がしないのだ。退散すら出来ずに料理されるのは目に見えている。

「うーっ……分かりました。じゃあ、私お茶の準備をして来ます。

 ご主人様は座っていて下さい」

「了解です。恐れ入ります」

 幽冥牢は深く一礼すると、

『えーと』

と言いながら、お茶の飲める様なスペースを作り始めた。それを見た朧は

(ホントはサボりたいだけなんじゃないの?)

と半ばイラつきながらキッチンへ向かった。

 とことんタイミングが悪く、良くない方へ状況が動いていた。




「あった……」

 キッチンの流しの所でティースプーンを出そうと引出しを開け、彼女はそう呟いた。

 いつこんな所にしまったのだろう。全く覚えが無い。そもそもこんな所に自分が入れる訳が無い。

 大事にそれを指にはめ、少し考えてから他にこういう事をしそうなのがいる事を思い出した。

 来客時に、自分の代わりにいつの間にか客を彼女の部屋まで通したりしている『あいつ』だ。自分にそっくりな顔をして、いつぞやは主といい加減な約束をして面倒な事態を引き起こした『あいつ』。

 他に思いつかない。大した事をしないと思った為、今まで放っておいたのだが、どうもまずい方に作用したらしい。

(それにしたって、ひどい……)

 よりによって自分の大切な思い出の品を隠すなんて、一体どういうつもりなのだ。朧は周囲を見回した。

 いる訳が無かったが、どうにも腹立たしい。自分の前には決して姿を現さないのか。

 それから、やっと冷静になり、自分らしくもない先程までのあれこれに、憂鬱な気分になる。

(ご主人様にひどい事しちゃった)

 イラついて八つ当たり気味に

『帰ってくれ』

だなんて。

『やはりまだ、昔の彼の事を吹っ切れていないのだ』

と朧は痛感した。

(美味しいお茶を持って行ってそして謝ろう)

 片付けを頼む事など気まずくてとても出来ない。お茶の後、どう対応したものだろう。

(誠意を見せるしかないか。誠意。あう~……)

 二人分のお茶を入れると彼女はトレーにそれを載せ、散らかった自分の部屋へ向かった。




 部屋を見て朧は目を丸くした。

 幽冥牢が片付けをしてくれている。あれほど片付けの嫌いな彼がだ。それも殆ど終わっていた。

 窓を開け放ち、空気の入れ替えまでしてくれていた。

「あの、どう見ても見つからない所から片付けておきました。下着関係はいじってません。と言いますか、ベッドの上にまとめておきました。後で身体検査をされても構いませんが、くすねてません。ただ、

『床にまいとく訳には行かないだろうな』

って思って。

 それをしていて思ったんですけど、やっぱりこの部屋にはないんじゃないかと」

 そう言うと、彼は、ぼーっと突っ立っている朧の手から、手を震わせながらトレーを受け取り、寄せておいたテーブルに置いた。幽冥牢の手が震えているのは、『書痙』と呼ばれる、長時間ペンでものを書く人間特有の発作であるらしい。なので幽冥牢が通常モードなのは分かった。

 幽冥牢はそれから朧の顔を見て訊ねた。

「やっぱ、いじらない方が良かったかもですよね……すいません」

 その途端、また朧の瞳に涙が溢れて来た。苦い顔をする幽冥牢。経験が警報を鳴らす。

(ああ、これは間違いなく自動的に完全に俺が悪者状態確定だわ)

 そう思った彼は、お茶の事が気になったが、ここから退散する事にした。

 父のいない女だけの家庭で、母方の親戚もほぼ女系。ご機嫌斜めな時の異性の恐ろしさは、幼少のみぎりから大変良く理解している。まずこういう時は間違いなく、

『性別が男だから』

という、その理由のみで激しく追及を受ける。考えるのも嫌な、苦い思い出しかない。


 その経験から、とてもじゃないが対処しきれないと思った。

「では、失礼しますので。すぐいなくなるので!

 ホントごめんなさい。じゃ」

 そう言って彼女に手を合わせ、死を覚悟しつつ退散を試みる彼の服の背中を朧がきゅっと掴んだ。


 それがまずかった。演出で言えば恐ろしい程のタイミングの良さだ。

 幽冥牢は危うく絶叫しかけた。

(『いつかこんな感じで理不尽に殺される日が日が来るんだ』と思っていたが、まさかそれが今日だったなんて……!)

 それだけを何とか脳内で呟けた幽冥牢の耳に届いたのは、意外な声だった。

「そうじゃないんです! ごめんなさい!!

『帰れ』

だなんて酷い事言って!」

「え?」

 それだけ言ってみる。ここから更に絶望を叩き付けられた経験も数知れない。うんざりする程に。

 朧の次の言葉を、幽冥牢は待った。自分の心臓の鼓動が耳に響く様だ。死んでしまう前に、話があるならとっとと済ませて欲しい。死んだら聞けなくなるから。

「……ありました、台所に」




 朧が何か言った様だ。幽冥牢の脳味噌は既に、相手の発言内容を理解するのをやめてしまっていた。

 これまでの人生経験が彼に植え付けた非常事態警戒態勢モードを継続して展開中である。

 黙っているのも不自然だろうから、何か喋ってみよう。

「……えーとつまり?」

 様子見。幽冥牢は安心させておいての追撃に備えた。

 彼の人生経験において出た答えだが、少なくとも自分にコミュニケーションを図ろうと接近して来る相手の人間性と行動内容は、オフラインにおいては連結していなかった。祖母と叔母数人と幾人かの甥を除いた、適当に何か話した後に不意に暴力を振るったりするのが、家族も含めての幽冥牢の、オフラインにおける周辺の人間の態度だった。


 とどのつまり、例を挙げればだが、ツンデレという性格性を高く評価する連中の思考が幽冥牢には理解不能なのだ。そういうのをお望みであるならば、自分の周りのそいつらをまとめて、熨斗も付けてプレゼントしてやりたい。平和ボケした、あり得ないマゾ思考としか思えない。

 何せ幽冥牢は小さい頃から、性別が男だというだけで父の影を被せられ、実際、自分の寝床だろうと全く安心出来なかったのだから。


 という訳で、呆れた事に、朧が彼の服の背中を掴んだ事がスイッチになって、幽冥牢の人間味を覆い隠すかの様に、その非常事態警戒態勢モードが展開してしまったのである。

 かつて、幽冥牢は幾度か学校を飛び出した事があるのだが、それ程の憤怒を覚えさせた相手が屁とも思っていないのを目の当たりにした時の状態だった。どこに行くとかそんな事は考えず、とにかく冷静に荷物をまとめ、自宅に帰ったり、補導されたりしにくい場所へ撤収していた。具合を悪くした生徒の早退に見せかける事を躊躇いなく選び、堂々と歩いて、もしくは自転車で走り去った。

 生徒が、それも問題児とかではなく、日頃普通に授業を受けている幽冥牢が荷物を背負ってから机を持ち上げて叩きつけ、教室のドアを蹴破って歩み去り、行方不明になったので、どうにか彼を発見した担任から、

『学校側は危うく警察に通報して身柄確保を頼みかけた』

と後で聞かされたが、知った事ではなかった。

 とことんどうでも良かった。


 怒っているのではない。いつぞやのルビノワと沙衛門達の初顔合わせの時に去ったのとも違う。

 自宅に撤収したものの時間を持て余してぼんやりとしていた時には、心当たりのひとつとして訪れた担任の説得を聞く羽目になった。最初は会話すらアホらしかったのだが、

『それがきっかけで戻り辛くなる事もあるから、早めに戻った方がいい』

と提案され、そんなものかと思った。その後、その日の午後に学校に戻った時には普通に恥ずかしく感じたし、原因となった連中がせせら笑っているのはあっさりスルー出来た。

 そんな曖昧な状態だ。

 面接などでいう所の動揺と緊張した状態が限度を越えると冷静になるのに加えて、現状確認と生存を最優先する状態と言えばいいだろうか。


 基本的にそうさせた連中だけが憎い状態なので、その連中には怒っている。が、八つ当たり的な行動には走らない。全く意味がない。

 脱出後は傍若無人な振る舞いは無駄に目立つから避け、ひたすらに人ごみに紛れようとした。


 実際嘆かわしい状態だ。今回などは覆い隠された人間味が見たら、殴りつけていたに違いない。

 朧やルビノワの境遇に同情を抱いていたはずなのに、自分でどうにかなるレベルを超えてしまった。

 が、幽冥牢自身の基準で、社会的な倫理観を全力で抑え付けるモードになったので、そんな事を考える気配すらなかった。




 朧が先程よりも悲しげな様子で言った。

「私は置いた覚えがないので例のあいつだと思います。引出しにスプーンと一緒に入っていました」

 それを聞いて、朧の話の内容を理解する冷静さが10%程、幽冥牢に戻った。

 何故泣いているのかは何となく分かるが、考えた端から浮かんだ意見が消えて行く。

 朧がどう動きを見せるか、それだけを監視している。会話内容を記憶はしているが、どうでもいい。

 話しかけてみる。

「指輪、あったんですか?」

「はい」

 指輪……指輪とは何だろうか。命より大事なのか。何の価値観も見い出せない。

 指輪自体は知っている。自分もはめている。何故か。突然の事故で指を切断されない為。幾度もリングに助けられている過去の経験からだ。

 で、朧のそれは何なのだろうか。指輪……指輪。

 概念は分かるのだが、非常事態モードなので、

『それは生存活動に必要なものなのか?』

という選択基準で照らし合わせると、少しもピンと来ない。

 目の前の女性について再確認してみる。朧。仕事仲間。元傭兵。女性。それと、人間。

 感情的なものを刺激するデータのはずなのに、それが完全に麻痺してしまっていた。

 危険度レベルについて考える。

……これまでの自身の人生において間違いなく最強。


 そこで更に、PCのゴミ箱を空にするかの様に、幽冥牢の脳内で会話内容がリセットされてしまった。ここに来てからの流れは一応思い出せるが、彼女と今成されている会話内容に、全く重要性が見い出せない。

 朧にいつ危害を加えられるか。それはどの程度のものなのか。それが最優先。他の情報は度外視だ。

 危害は加えられたか。否定。

 追加攻撃の可能性。ない訳がない。こちらに憤怒している人間が危害を加えようという行動については、せいぜい幽冥牢の目の前でそうするか否かの違いくらいで、全く何もなかった例はない。必ず何か発生した。

 考えてみよう。目の前の朧が、探し物をしていて、それは指輪で、見つかったらしい。

 まだ殴りかかっては来ない。監視は継続。


 そういえば、間が空いてしまった。今更だが、言葉でも投げてみよう。

 キーワードは確か指輪だ。指輪……。

 聞いてみる。

「えーと、指輪?」

「そうですよう! どうしちゃったんですかあ、ご主人様!?」

 朧は泣きそうな顔をしている。危険性とそれは無関係なのか。否定。

 安心させた方が生存確率を上げるか。 可能性としてなら、考察に値しない数値。論外。

 こちらの発言で危険度は下がるのか。不明。

 改めて聞いたデータを照会した幽冥牢の脳味噌が、最適と思われる言葉を弾き出す。

 コミュニケーションとやらだ。仕方ない、喋ってみよう。

「指輪があった。ん? 指輪……」

「しっかりして下さいよう! 怒ってませんからあ!!」

 縋り付いて来た。安全か。不明。被害状況は。特になし。

 そこから成されるであろう攻撃の特定。該当項目が多過ぎて絞り切れない。

 彼女が体重を預けて来た。こちらを転ばせる事が恐らくは可能だ。予想理由のデータソースは? かつての体育の柔道での授業。

 彼女はプロだ。こちらは素人。危険。

 事故死に見せかける技術も持っているはずだ。理由など後でどうとでもなる。担任や上司の間に立たされて、揉めていた理由を追求された時に、適当な理由を平気で口にする奴を山程見て来た。

 何度裏切られたと思っている。近しい関係? よく遊んだ? 忙しい仕事を一緒に切り抜けた?

 だから何だ。その程度の理由で揺れるな。

(おい)

 理論武装している思考に、圧倒されていた幽冥牢の人間味が語りかけて来る。そちらが支配した分の幽冥牢は、自身の右脳の辺りを掌の下の部分でごちごちと叩いてみた。軽度の痛み。冷静さが戻りつつある。

 幽冥牢は幽冥牢として、朧に話しかけた。

「ちょっと待って? 何だろう、えーと、深呼吸してみます」

「は、はい……」

 対象が離れた。危険度は。無限大。

(いやいやいやいや、朧さんが泣いてるじゃんか。泣いてるの!

 しょうがねえな、とりあえず落ち着け。深呼吸するんだろ?)

 そうだった。

 幽冥牢は人間味とやらに従って、万歳しては、両手を腹部に当てる感じで、三回程深呼吸してみた。特に変わりはない。もう三回。

 回復度合いとしてはいいとこ、20%くらいだろうか。

 何故朧は殺しに来ないのだろう。それだけが釈然としない疑問として残った。

 人間味は地道に元の自分の思考に戻そうとしており、それは効果を見せていた。状況を改めて整頓してみる。朧が指輪を探しており、それがあったと聞かされた。で、今だ。

 指輪。大切なもの。見つからなくて泣いていた。

 どう思うか。よく分からない。まだ考える必要性がピンと来ない。

(可哀想だろうが!)

という人間味の意見にどやされる感じで、

『そうかも』

と同意する。

(自分だったらどうよ?)

と、人間味が問いかけて来る。また少し考える。

……重要度と状況にもよるが、余裕があれば他の事は後で考えるとして、まあ、探すだろう。

「どうですかあ?」

「すいません、今しばらく。

 すぐ済みますのでちょっとだけ」

 表向きを取り繕う事は出来た。幽冥牢は朧に手をかざしてそう告げると、しゃがみ込む。人間味以外の何かが、幽冥牢の思考の中で収縮して行く感覚があった。

 吐き気はしないが、具合が悪い。右目の鼻の筋側の上部にまだ緊張感を感じた。親指でぐいと押してみる。

 不快感の和らぎを感じた。お茶を飲めばすっきりするだろうか。

(飲めば分かるよ。もらえ、馬鹿!)

 ジト目で人間味がどやして来る。そんなに怒らなくても。

 思考がようやくまともになって来た。

 朧さん。指輪。ご機嫌斜め。

 殺意はない様子。泣いている。指輪は見つかった。

 そう、指輪だ。で、『あいつ』というのも思い出した。

 何度かそいつには一杯食わされている。記憶を正確に思い出そうとする時の癖で、幽冥牢は眉間にしわを寄せつつも、訊ねた。

「すいません、俺、今、猛烈に変だったよね?」

「本当に大丈夫ですかあ?」

「普通にものを考える事なら、どうにかなるかと。

 何て言いますか……朧さん達が傭兵としての、現場での仕事モードの時って、どうなりますか?」

「危険な現場でという条件ですよねえ?」

「そう、そういう場所での仕事モードの時です」

「うーん、軽口を叩く仲間もいますが、所謂仕事モードでは、私は無駄口は叩きません」

「だとしたら、多分それに近いです。

 以前ルビノワさんと私が、誤解でぶつかって、危うく彼女に殺されかけた事がありましたよね?」

「ああ、嫌な思い出ですねえ……それがどうしたんですかあ?」

「ルビノワさんは、朧さんから見て、傭兵の仕事で現場投入されたらどんな感じですか?」

「女性である事で既に命取りなので、まあ、私と同じく無駄口は叩かなくなりますねえ」

「なるほど……朧さんが私のシャツの背中を掴んでからの様子は、そのイメージで捉えて頂ければ。勝手に、民間人なりの自衛モードに入っちゃったというか」

「自衛モード……救援に来た兵士に後ろから殴りかかって足払いを食らったりするテンパり具合の方ですかあ?」

「そんな感じです。あんな風に殴りかからないと思いますけど、その程度の違いです。

 激しくテンパッてたみたい。失礼な話ですけど、

『殺される』

って思っちゃったみたいで」

「むぅ……」

 朧は理解してくれた様だった。それから、

「ベッドに腰掛けた方がいいです」

と言って、まだ脳に不快感を感じる幽冥牢を支え、座らせてくれた。

「ありがとうございます」

「いえ。お茶を淹れますねえ」

「何から何までホントに」

「いいえ」

 幽冥牢は嘆かわしく思い、頭をまた掌の半ばから下で、両側からこめかみを挟む様にして押してから、深くため息をついた。

「全く酷いザマです。

 あのルビノワさんとの正面衝突以来、どこかで理解し合えていたはずなのに。そんな事をルビノワさんも朧さんもしなかったのにね。

 俺、最低です」

「無理もありませんよう。仕事モードの時の剣呑さは、個人差こそあれど、怖いものですし。

 私達なんか傭兵だった訳ですから」

「先に伝えておきたいんですけど、もし、俺がまだぼんやりしてて、それに危険を感じたらビンタして下さい。恐らく気分がしょぼくれて、聞き分けが良くなるはずです」

「酷い緊張状況下に置いちゃったんですねえ……気が進みませんけれど、了解ですよう。

 はい、どうぞ。熱いですから、気をつけて」

 朧がティーカップを皿に載せて渡してくれる。幽冥牢の猫舌具合を深く理解してくれている諸注意。その何気ない気配りに、また警戒度が下がった。

 何度も吹いてから、少しだけすする。程好い甘み。目の奥に暖かさを感じ、緊張感が少しずつ溶けて行く感じがした。

「美味しいです」

「良かったですう」

 朧が微笑み、自分の分を淹れた。ベッドに幽冥牢と並んで腰掛け、紅茶の香りを楽しんでいる様子の彼女が一口含んだのを見て、彼は少し待った。

 ややあって、安心した様な吐息を漏らす朧に申し訳なさを感じつつ、疑問点を幽冥牢は訊ねてみた。

「えーと……それで、『あいつ』って、あの朧さんにそっくりな『あいつ』ですか?」

 朧の物憂げな眼差しが虚空を舐めた。

「ええ、そうなんです。また悪戯したんだと思います。

 それに気付かずに、ご主人様に酷い事を言ってしまって済みませんでした」

 朧がうつむいた。なるほど、ご機嫌斜めの理由はどうやら幽冥牢の想定範囲で済んだ様だ。

 彼女の名誉を尊重すべく、フォローを入れてみる。

「いや、途中にヒントなしでなかなかその答えに至るのは難しいかと。

 これまでには軽く悪戯されるレベルの事しか起きませんでしたし」

「でしたねぇ……」

 互いにまた、紅茶を含み、何となく沈黙する。

 中身がなくなる頃、付け加える様に、朧に言ってみた。

「状況が分かったので、お気になさらず。

 それに、大事なものをなくしたら焦りますって。俺だってずっと探すでしょうし、

『ぐぬぬ』

って顔をしたと思いますし。そのくせ、散々探した所から後で出て来たりしますし。

 ね?」

「はい……」

 朧が皿ごとカップをテーブルに置いたのを見て、幽冥牢も立ち上がって置こうとすると、朧が受け取ろうとしたので渡し、

「ご馳走様。何にしても、大事なものが見つかって良かったです」

と、正直な所を告げた。

「あ、ありがとうございますう」

 朧が改めて、切なげに眉をひそめた。

(今日はまだ未使用だったな)

と確認してから、ポケットのそれを朧に差し出した。

「えーと、はい、ハンカチ」

 それをきゅっと握ると、朧はまたボロボロ涙をこぼしてうつむいてしまう。

 どうしたものか、少し悩んでから、聞いてみた。

「あのう……頭を撫でさせて頂いてもよろしいでしょうか? とても気になるので」

「気に、なる……?」

「ええ。心配だという事です。嫌ならそこははっきり言って下さい」

「……うう、うう……!」

 しゃくり上げながら、何度も頷く朧。

 ひとまず、嫌ではないらしい。許可は得た。

「えー、じゃあ、ちょっと失礼」

 その頭を撫でながら、

(何でこういう事になるかなあー……)

と幽冥牢は思ったが、気分を取り直して、いつもよりラフな口調で、朧に言ってみる。

「もう無くさない様にしなよ?」

 はっと朧は顔を上げた。

「いつも持っていても良いんですか?」

「仕事の邪魔にならなければ問題ないかと。

 大事な物なんでしょ? はめるか、ポッケに入れとくといいです。

 見つかって本当に良かった。ね、朧さん」

 そう言って、幽冥牢は意識して、穏やかな表情を作ってみる。慣れない事なので、駄目だったらそれはご愁傷様だ。

「ありがとう……」

 そう言って、彼女は幽冥牢に目一杯抱き付いた。

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