21 沙衛門とるい、幽冥牢達の時代に恐怖を抱く
沙衛門とるいが屋敷で働く様になってしばらくが過ぎたが、彼らも幽冥牢や朧と同じく、外出をそれ程好まないタイプである様だった。
仕事内容は例の映画紹介のコーナーの前座のお喋りと、オフラインでは屋敷の周辺警備、ルビノワと朧の手伝いなどを任せてみた。屋敷だけでも広いので、基本的に手が足りない。
『ホテルでの清掃業務の経験がある』
というルビノワと朧が手本を見せ、沙衛門とるいが一度で完璧に覚え、こなして見せた時には
『さすがー☆』
と幽冥牢達が絶賛した。沙衛門とるいは恐縮するばかりだったが、ルビノワと朧に点数を聞いてみたら満点との事。清掃に限った事ではないが、こういうのは慣れれば勝手に達成速度が上がるものだ。なので、仕事を覚えたら全員で相談した上で他の内容も付け足す方向とし、しばらくまた様子を見た。
『給料分以上の業務は基本的に禁止』
と幽冥牢がルールを全員に課していたので、次第に休憩時間の方が長くなった。でかい屋敷の室内清掃なのだが、それも慣れだ。慣れればチェックすべきポイントが明白に見えて来るので、それはつまり、
『ルール上、問題ない所をチェックした上でスルーする事が出来る』
という事になる。素人から見れば
『もう終わりなの!?』
とびっくりする様な速度で仕上げる事は可能なのだ。ほとんどの会社は理解しないが。
そうなると、
「主殿、ルビノワ殿と朧殿の手伝いをほぼ完遂したらしいので、何か仕事をくれ」
となる。
「ああ、だよね、普通に仕事をしていれば基本的にはそうなりますよねー」
と、幽冥牢は彼らの環境適応能力と任務遂行能力の高さに思わず笑ってしまった。首を傾げる沙衛門にソファを勧めつつ、自室の机で提出書類を書いていた幽冥牢は手を休め、訊ねた。
「るいさんはどうしてます?」
「朧殿の家事スキルを体得べく密着しておる。今日は料理についての改めての手ほどきを受けていて、当分は台所を離れまいよ」
「そうかぁ……いやはや、お二人とも本当に雇って良かったです! 真面目に働くって素晴らしいよね!!」
「生存と他者からの信頼を得るの為の基本ではないのか?」
反論しようのない事実が幽冥牢の脳天を貫く。全く以て沙衛門の言う通りなのだ。彼の意見が間違いなく正しい。
それなのに、社会には首を傾げるしかない無駄な慣習が多過ぎる。身体を壊し、生活基盤を台無しにしてくれさえする。挙句の果てには自殺に追い込まれたり。
そんなニュースと、殺伐さ極まる仕事場を転々として来た幽冥牢には、彼の正論は大変耳が痛かった。
沙衛門の眩しさに目を細め、言ってみる。
「そう考えていた時期が、僕にもありました……」
唐突に遠い目をする幽冥牢に何かを察した沙衛門が、おほんと咳払いをし、彼もまた
「まあ、その、何だ、色々あるのだな……」
などと呟いて、明後日の方向を眺めたりするのだった。
「ええ、本当に、仕事をする上では無駄な事ばかりがね……絶対この職場ではそんなん導入しないんで、皆でスクラム組みましょう」
「そこまでしないといけない様な事も?」
「うん。一見平和そうに見えて、年間自殺者と行方不明者が数万人いる国なので。出生率もガンガン下がってる国なので。
不景気まっしぐらなので」
「何と……!」
あっけに取られた様な表情を浮かべてから、沙衛門はため息をもらすと、額に手を当てた。
信じ難い事だろうなとは思う。そもそも彼らからしてみれば武器一つ持たず、帯刀すらしてない連中がほいほい闊歩しているのだ。それなのにその始末である。小首を傾げもしよう。
沙衛門は言った。
「……いやはや。
良かろう、俺などで助けになると言ってくれるのならば」
「いえいえ、恐れ入ります。
時代についてはまたその都度説明して行きたいと思ってますけれど、仕事の面に絞って率直に言えば、沙衛門さんや皆みたいに、仕事をきちんとこなしている人の意見が通らない世界の方がクソッタレなのでござるよ」
「かも知れぬ」
男二人から漂う哀愁が部屋を満たして行った。
さておき、そういう事で仕事慣れした沙衛門とるい、そして多忙さが大幅に緩和された幽冥牢、ルビノワ、朧という、チームとして評価すると、とてもありがたい状態になった。
そこで、沙衛門とるいに
『誰かが案内する形で空き時間に外出をしてみては』
という事になったのだが、そこで問題が生じた。沙衛門とるいの着物姿はとても目立つ。行っても目立たない場所が限定されてしまう。
例えば原宿などなら幽冥牢の経験上、全く目立たない。おしゃれも含む情報発信基地の渋谷から歩いて行ける距離で、ありとあらゆるファッションの人が闊歩している。ファッションには理解がある方だと思っていた幽冥牢ですら、例えば雑誌でたまに取り上げられる原宿の今のファッションのページを眺めて、
「す、スタンスが個性的ですね」
とコメントに困る程に自由だ。夏と冬、昨今ではほぼ毎週末、どこかで開催されているコスプレイベント会場並みに自由だ。
が、そこに到達するまでが恐らく一苦労だろう。ひとまず、沙衛門には幽冥牢が、るいにはルビノワと朧がそれぞれ服を貸し、昨今の衣類を調達する事と相成った。ルビノワに次ぐ巨乳のるい、そして鍛え抜いた肉体美が忍び装束の上からでも分かる沙衛門の身体のサイズに合う服を探すのは一苦労だったが、沙衛門のそれは海外のメンズのサイズにすればどうにかなった。
そこから割と短いサイクルで一周し、ある日、沙衛門が恐る恐る言った。
「ねっとという奴で見てみたのだが、和服で暮らす者もちらほらいる様子なので、そちらを数着揃えてしまえば、流行とかをそれ程気にしなくてもいいのではないだろうか。
屋敷の仕事の時は忍び装束の方が圧倒的にやり易いし……まあ、あくまで希望なのだが」
「Oh……」
幽冥牢、ルビノワ、朧は声を揃えてそう言うなり、沙衛門に見入ってしまった。
何という着想。なるほど、着物にはそういう強みがあったのだ。彼に言い出されるまでるいも気付かず、全員が
「い、至りませんで大変失礼を」
「いや、俺こそ海外のめんずのさいずしか着れぬとは夢にも思わず、とんだお手数を」
「鬼岳沙衛門が従者、並びに先達のくノ一として散られた諸先輩の皆様に大変失礼であり、仮にも免許皆伝を沙衛門様から頂いた者として名折れなので、是非切腹を」
「それは本当にやめて下さい。そういう時代ではありませんし、るいさんの沽券に関わるかもしれませんが、罪状的な意味でならもう何も当てはまりませんので」
「むしろ私なんか楽しんでましたよう」
などと、お互いに平謝りをしたりした。
結果、沙衛門の破れた袖をきちんと繕い直したり、彼が
『これはそのままでいい』
というものはそのままにしておいたり、るいはハイサイソックスを忍び装束に合わせた事で余計にセクシーになったりしたが、どうにかこうにか穏やかに過ごせている。
ルビノワの話が始まる。
「皆さんこんばんは、ルビノワです。
今日は特に更新はありません。そこでまた皆を呼んでいますので適当に話をしてもらいます。ではどうぞ」
「皆さんこんばんは。皆さんのおかげでじりじりとカウントが伸びていてホッとしている幽冥牢です」
「こんばんは、朧ですよう☆ 昨日はめそめそしちゃって済みませんでしたあ。今後ともよろしお願いしますよう☆」
「昨日さえポンというあだ名に決まってほくほくしている沙衛門だ。生きているって素晴らしいな。
今なら胸を張って身売り出来そうだ。そんな勇気がモリモリ湧いて来た事を先程るいに言ってみたら珍しくお尻をぺしぺし引っぱたかれてしまい、だぶるで嬉しい。
この様ないい事ばかり続いて、
『明日は大地を載せている亀がポックリ逝ってしまうんじゃないのか』
とちょっぴり不安なお年頃でもある」
「こんばんは、るいです。
沙衛門様、次に
『あー……身売りしてえー!』
などとホリケ○風に申された場合には私も朧ちゃんと恋に落ちますからね?
もう乱れに乱れた夜の生活を送って、そんな状態なのに
『何か前より色っぽくなった』
と城下町で振り返られてしまう程になって見せます。その時になってから悔しがっても遅いですよ? ぷんぷん」
雪の様に白い頬をぷうと膨らませながら、掌にソフトボール大の燃えたぎる溶岩を現出させ、お手玉を始めるるい。自分の術だとは言え、全く熱さを感じないらしい。
やがては膨れっ面を止め、鼻歌まで歌い出した。異様な迫力に幽冥牢達は沈黙してしまう。
「それは困るなあ。一人占めはずるいぞ、るい」
「他はいいんですねえ」
朧がぽつりと言った。
「あかんべ。駄目ですよ。
それと沙衛門様、世界が亀の背中に乗っているなんて一体何時の時代のお話なのですか? 全く情けないお話です。
いいですか、
『世界は屈強な四人の暑苦しいアフロの巨人によって支えられている』
んですよ。今度教えてあげますから一緒に勉強しましょうね?」
何だかんだ言って骨の髄まで沙衛門の従者であるという事がインプットされている様子のるい。沙衛門は未知の学問に触れて愕然とし、その後、がっくりとうなだれた。
「うーむそうか、面目ない。世界の作りは日に日に変わっているのだな。
勘弁してくれ、るい」
「ホントに反省なさっていますか?」
「どれほど俺が偉そうにしていようとお前の博学には敵わぬ。これからも俺の事を助けてはもらえぬか?
この通りだ」
見事な土下座をする沙衛門。幽冥牢とルビノワは色々な意味で唖然としていた。朧だけが
『自分の全てをるい姉さんに一人占めにされるんだ。
素敵……!☆』
と過剰反応し、妄想の世界に浸っていた。赤くなった頬を両手で覆い、息を荒くしている。
先日、聞くも涙の過去話をしてくれてから数日程、元気がなかった彼女だが、今はそのそぶりを微塵も見せない。何という健康的な肌の艶だろう。彼女の魅力が全面に押し出されている。
幽冥牢屋敷メイド、朧委員長、完全復活の図であった。
「分かりましたからお顔を上げて下さい。
これからも一緒に頑張って行きましょうね、私の沙衛門様」
「うう、るい。るい。済まぬ。ありがとう」
るいの胸に縋り付きながら、目の幅涙を流す沙衛門。それを優しく抱きしめ、愛すべき彼の頭に頬ずりするるい。
それを見ていたルビノワは小声で幽冥牢に囁いた。
「言っておいた方がいいですよね? 世界の造りの辺りを特に入念に」
「ですねー。変なのに騙くらかされたら可哀想だし、その……知識として色々とアレですし。
俺も補足しますから、言っちゃいましょう? すごくまずい事が起きる前に」
「はあ……私が切り出します」
「お、おう」
(野暮な事を言わなくちゃいけないな~……)
と、こめかみを右手の親指でぐいっと一回押してから、ルビノワは口を開いた。
「あのー。沙衛門さん、るいさん?
こんな事を申し上げるのは誠に野暮だという事は重々承知の上なんですけども」
「何でしょう?」
声を揃えて沙衛門とるいがルビノワを見やった。彼らの一転の曇りもない眼差しが、ルビノワの双肩に謎の重さをもたらした。
「あうっ……えーと」
(これはひどい)
幽冥牢が口を開く。
「ルビノワさん、俺が言います。あのですね、お二人さん。世界を支えているのは亀でもむさいアフロの四人の兄貴衆でもないのですよ?
地球は球体です」
「主殿までその様な事を仰るのですか? やだわ、もう。ほほほ」
「わははは。全くだ、主殿ってば。
純真な中年をからかうと俺のやり方であなたの肉体をもてなして差し上げるがよろしいか?」
「沙衛門殿が純真かどうかはまたいずれ」
「主殿のそんなばっさりな態度が俺を狂わせるのだ」
「何となく分かる気がします」
ルビノワが同意した。めげずに幽冥牢は続けた。
「でもホントですよ?今我々がいるこの世界は地球という星の一つで、ひろーい宇宙に浮かんでくるくる毎日回っているんですから」
「えぇ~……」
疑惑の眼差し。姿勢が正しく、膝に手を載せて真面目に聞いてくれているので、何だかこちらが彼らを馬鹿にしているみたいに見えるのが途方もなく辛い。
ルビノワが言う。
「ホントですよ? 黙っていてあなた達が恥をかくといけないと思って、今、ふつつかながら、私と主殿がそれとなくお伝えしている訳なんですから」
「何……だと……!?」
「つまりは、主殿とルビノワさんの知識が紛れもない事実……!?」
「言い辛いですけれど、現在の科学ではそうです。写真とかもネットで見られます。
ルビノワさん、お手数ですが、ちょいと検索画像などを」
「はい」
鮮やかなブラインドタッチからの画像拡大。そこには大宇宙にぽっかりと浮かぶ地球の姿があった。
「まあ、これが一日一回回っている訳なんですけれども」
その瞬間、沙衛門とるいが白黒反転印刷になってしまって、幽冥牢とルビノワは凄く気まずかったが、
『何も教えない方が酷いのだ』
と思い直した。
朧は一人、妄想に耽り何故か『スカボローフェア』を鼻歌で奏でながら軽やかに舞っていた。どこで習ったのか、見事なバレエダンスである。
その時。
「ぅおのれ服部半蔵!
織田信長の伊賀攻めの際、伊賀甲賀あわせて数百名が戦っている時に一人徳川へ走っただけではまだ気が済まぬか!……ふふ。ふはははは」
沙衛門がシャウトし、うつむいて笑い出した。まさかのチョイスだが、彼らの生きていた時代は、織田信長が本能寺の変で討たれるその前後二十年の範囲前後と聞いている。なので、あながち変な事でもないのだろう。
るいもぎりりと
「沙衛門様、ゆきましょう、江戸へ。
これほどの恥辱、あやつの屍を炭にするだけでは飽き足りません。私達二人で魔界に引きずり落とし、一寸刻み五分試しにしてその血で杯を交わそうではありませんか。
二人の永久の契りを交わすのです。ほほほ」
今までに感じた事のない妖気が二人の忍びの全身からゆらゆらと立ち上っていた。危うく幽冥牢は
『山田風太郎の「忍法帖」シリーズに出て来る忍者そのままだ!バンザーイ!』
と快哉を上げそうになったが、それを堪えて叫んだ。
「無駄な努力ですよ!」
「主殿、今何と申されたっ!」
「ああっ、いえ、ついついありのままに!
そうでなくてえーと何だ、下らない事ですよ?」
「骨まで炭にされたいのですか? 主殿っ!」
「ああっ、ごめん! えーと、ああ……だから、そういう事じゃないんです!」
目を『><』とさせながら、別に喧嘩してる相手という訳ではないので、必死に落ち着かせようとする幽冥牢。『人間関係において、途轍もなくドライだ』
とよく言われる彼だが、そのひとつ前の段階では、基本的に仲間だと思っている間柄の人間に対しては、なだめるスタンスで生きている。
『仲間だと思っていない人間に対してはどうなのか』
という質問の答えはさておいて、信じて下さい(謎の懇願)。
「どういう事なのか詳しくお訊ねしたい」
「私もです」
ずいずいと迫り来る忍法者二人の向ける紫色の眼光と立ちのおぼる迫力は、泣く子も更にシャウトさせそうで、止めに入ったルビノワはともかく、幽冥牢が肝を潰して押し黙りかけた。
しかし、ここはひとつきちんと教えておかねばなるまい。きちんと仕事をしてくれるありがたいメンバーに恵まれた雇用主として。
それは、ただでさえくじ運も仕事運も恋愛運も総じて滅茶苦茶に悪い幽冥牢にとって、何度生まれ変われば巡って来るか分からないチャンスなのだ。普通ならあり得ない流れなのだ。
実際、最初ルビノワ達が応募して来た時だって、
『夢ならいい加減に醒めろこの野郎』
と胸中でシャウトしながら、何度ほっぺをつねった事か。
その、夢の様な職場が、今、自分の目の前にある。沙衛門達の疑問も極めて当然のものだ。
それ故の、責務だ。
奥の手として、幽冥牢はかつて適当極まる上司に散々振り回され、クビにされた上に借金まで背負わされた時の事をどうにか思い出してみた。その後に、別の仕事で殴らざるを得ない無意味なイビリをかまして来た上司とそこまでの流れを、これまたどうにか思い出す。
度し難い、叫びたくなる様な憤怒で血行が良くなり、それがかえって幽冥牢に冷静さを取り戻させた。正面から沙衛門とるいを順に見ながら告げた。
「きちんと話します。 だから、沙衛門さん達も思う所があると思いますが、ちゃんと聞いてくれるなら、ひとまず座って話しましょう」
「む……良かろう」
「分かりました」
「大変お怒りなのはご尤もです。そもそも沙衛門さんもるいさんも転生させられたって辺りからが既にどうかしてますし。
ですが、今一度ご猶予を。
更なる相互理解の為に!」
つまり、
『誤解を一刻も早く解いて、互いのこれ以上の損失を減らしたい』
という提案である。これが大人のジャブだ。
「むぅ」
沙衛門が唸った。るいもため息を漏らす。
「これからの相互利益の為に!」
『両方のプラスの為のお話ですよ』
という提案。これがフックである。
同時に平伏。ごちん、と音を立ててテーブルに額をぶつけたまま、幽冥牢は頭を上げなかった。
何故なら、出来る事はこれしかないからだ。
ちなみに、社会に出て会社で初めて習った事は、
『客と揉めても絶対に自分から謝るな』
であった。つまり、方法として既にアウトなのだ。それをあえて今は出す。何も狙っていない。
(そこまで頭良くないし)
と、普段から自覚している。幽冥牢はツテもコネもないので、基本的に捨て身なのだ。
他に方法がないので、これに全てを賭けている。
ルビノワも相手に心理的圧迫を与えない為に、腕組みではなく、前で手を組んでいる。コンビニ店員のバイト経験で得た、基本のポーズだ。マニュアルではそういう効果があるらしい。
さすがに沙衛門とるいも、
『むぅ……』
と唸る。そもそも揉めたい訳ではなくて、状況に混乱してのあれこれだったので、そこでどうやら少し、落ち着いてくれた様だった。
「分かったから、頭を上げて欲しい、主殿。
ひとまず、落ち着いたから」
「ありがとうございます」
何故と聞かれたら困るが、幽冥牢はひとまずそう告げた。
「大雑把ですが、概ね正しい流れで説明します。何しろ、沙衛門さん達がこの世を去ってから数百年が経過しているので」
「う、うむ」
(この言葉もかなりきついんだろうな)
と、幽冥牢は察する。自分だって数百年後の世界の事なんか想像もつかないし、放り出されたら途方に暮れるだろう。
「まず、織田信長が討たれた後、豊臣秀吉、更に彼がなくなってからは徳川家康が天下を治めました」
「奴がか……」
「『勝者が刻んだ歴史だろう』
と言われるとまあその通りですし、諸説ありますが、現状支持されている説としては、まあ、秀吉が亡くなるまで彼は待ったんですね。自分の時代が来るまでとにかく待ったんです。で、彼の時代になったという」
「ふむ……」
「で、徳川家の時代が十五代続いたんだったかな。文化としては豊臣秀吉の刀狩りやその後に鎖国がありました。海外の文化は取り入れない方向で、徳川の時代が三百年ほど続いた訳です」
「想像もつかないですね……」
「るいは俺よりも前にこの世を去ったからな。信長はあの後、本能寺で討たれたと各地に伝えられた。
俺の仲間にも、あれを仇と睨んでいた者がいた。姉の仇だったと。俺はその場に居合わせ、助けた形となった。それからそいつは仲間になったという流れよ。
『討たれた』
と聞いて、あれは随分と悔しがっておった……」
その仲間を思い出したのか、沙衛門が目を伏せた。
「続けても?」
「あ、うむ」
事細かに伝えても、研究者によって後からちょくちょく修正が入るのが歴史というものだ。幽冥牢が学生時代に普通にテスト範囲として問題に出ていた事も、今ではあちこち修正が入っている。
「ペリー提督という人が黒船と呼ばれる船で開国を迫って鎖国が終わったり、その後に明治、大正、昭和という時代の間に国家間の戦争があったりもしながら、日本自体は国家としてどうにか続いて、今に至るのです。
全ては沙衛門さんとるいさんを含む、時代を築く為の礎になった方々のおかげなのです。いずれが欠けてもまた色々違った未来が訪れていたはずです。
ひとまず確実なのは、俺と皆が辿り着いた未来が、これだという事です」
「……そうなのか?」
「少なくとも、今は」
「そんな……そんな……ああ……」
貧血を起こし、ぐらりと崩れ落ちるるいをとっさに沙衛門とルビノワが支える。ソファを勧めておいて正解だった。沙衛門も顔色が悪い。可哀想に、るいはショックで口をパクパクさせている。
「これを」
何時の間にか朧がコップに水を持って来ていた。それを沙衛門が口移しで彼女に飲ませた。少しむせたが、背中をさすってやるとどうやら正気に戻った様子だ。沙衛門の胸にすがり付き、ぶるぶると震えている。
沙衛門ですらショックなのだ。気を張って彼に付いて来たるいは更にショックだったのだろう。
「沙、沙衛門様、寒いです」
「るい、しっかりしろ。俺はちゃんとここにいるぞ。
二度と離れるものか」
「さえ、沙衛門様……」
沙衛門はしっかりとるいを胸に抱きしめたが、彼も眉間を押しながら、肩から背もたれに寄りかかった。
「少し俺も、参っている様だ。どこから整頓したものか……」
「う、うええぇ……」
まるで少女の様にるいが泣き出した。
そんなにショックを受けるこの忍び二人が、幽冥牢とメイドと秘書にはとても不憫に見えた。
自分の信じた世界が完全に崩れ去り、その上、表面だけが穏やかな椅子取りゲームがはびこる遥かな未来に二人は放り出されたのだ。
最早別の文明で捕縛されたに等しかった。
何と声をかけたらいいのか分からなかったが、ルビノワは歩み寄ると、彼らの手にそっと自分のそれを重ね、呼びかけた。
「沙衛門さん、るいさん……」
「……主殿、ルビノワ殿……俺とるいは、どうすればいい……」
「上手く言えないけど、みんなで雇われている内はずっとここにいればいかなと。身の回りの必要書類はルビノワさんと朧さんが揃えてくれた訳だし、しんどかったら有給も貯まってるんで消化して下さい」
「ゆうきゅう?」
「そう、有給休暇。働いている人に基本的に与えられる、給料が出る休みの日です」
「そんなものがあるとは……」
「少なくともこの職場にいる限りは、その権利は保証されます。だから、ちょっと休んだりしても問題ないです。
色々混乱してると思うけれど、俺達がその都度、これまでみたいに色々教えるからゆっくり覚えていけばいいかなと」
「出来るだろうか……」
不安に満ちた声だった。
……今だ。
「そう思うよね。
いい機会だから、ルビノワさん、朧さん、沙衛門さんとるいさんに頼んだ仕事の難易度を説明してあげて下さい。お二人が来てくれた事で、どれ程助かったのかを」
「そうですね。朧、お茶を用意して。一緒に沙衛門さん達に説明をするから」
「了解ですう。沙衛門さん、るいさん、特効薬を用意して来ますから、横になっていて下さい」
「そうそう。ソファがでかくて助かったね」
「助かる……」
るいをそのままルビノワが膝枕をして横にさせ、幽冥牢の付き添いで沙衛門は対面のソファに横にさせる事にした。
横になった事で、二人ともやっとリラックス出来た様子だった。大きく息をつく。
「はぁ……」
「沙衛門さん、水は?」
「済まぬ、くれるか」
「おうともさ」
コップに注ぎ、上体を起こそうとした沙衛門を支えると、少しずつ飲ませる。半分程飲んだ所で、沙衛門はまた横になりたがったので、そうさせてやった。
ルビノワが呼びかけた。
「沙衛門さん、るいさん。そのままでいいので、聞いて下さい。
皆で楽しく覚えられる様にしますから、ゆっくり覚えましょう?
それに、折角知り合った大事な友達を見捨てたりはしませんよ。ね? お二人とも」
「かたじけない」
「お世話になります」
「こちらこそ」
そこへ朧が帰って来た。何やらティーセット以外にも救急箱やらで両手が塞がっており、ザックまで背負っている。
「お待たせしましたあ」
「おっ、早い」
ルビノワがそう言って口笛を吹いた。
「ふふふ」
日頃より更に、朧の手際の良さが輝いていた。彼女ははティーセットを載せたトレーをテーブルに置くと、幽冥牢とルビノワに濡れタオルと額に張る冷却シートを手渡した。
「汗を拭いてから貼ってあげて下さい」
「了解」
返事をして幽冥牢とルビノワがそうしてやるのを見ると、彼女は背負っていたザックを下ろした。そこから冷やし枕をタオルで巻いたものを取り出し、ひとつを幽冥牢に手渡した。幽冥牢は沙衛門の頭の下に敷いてやる。
「これは効くな」
「額に貼ったものもこれも、熱を出した時とかに使うもんなんです。高さは?」
「問題ない」
「そっか」
「ルビノワさんは、こっちです。厚手のタオルを膝に敷いて下さい。で、冷やし枕を置いて、るいさんの頭を」
「ん? あ、なるほどね。はいはい」
ルビノワはもう一枚渡された厚手のタオルを畳んで、太ももから膝までを覆う様に敷いてから冷やし枕を置き、るいをそこに改めて寝かせた。
汗を濡れタオルで拭いてやる為に髪を後ろに撫で付けてやりながら、訊ねてみる。
「どうですか?」
「大分楽になりました……」
「じゃあ、後はお茶ですねえ」
「かたじけない」
「朧ちゃん……」
「だいじょぶだいじょぶ。私だって何とかやっているんですから。
そもそもお二人はもう自由の身なんですよう? あてにならない昔の上司の事なんか忘れちゃいましょうよう」
「そうするかな。少し時間をもらう事になるが」
幽冥牢が言った。
「そんなもんですって。俺も仕事を辞めた時とか、色々吹っ切るのに時間がかかったし、皆に面倒を見てもらう事になる時だって来るだろうし。
お互い様って事でいいでしょ?」
「助かる」
「うんうん☆」
朧が頷き、リラックス効果のあるハーブティーを淹れる。
それを見た沙衛門の顔が切なそうに歪む。るいが涙ぐみながら微笑んだ。
「朧ちゃん、皆……ありがとう」
「……そうだな。気楽にやっていけばいいのだな。そうだな……」
穏やかな笑みを向けながら朧がそれぞれの前に置いて行くそれは、香りだけでも、とても効果のある一杯だった。
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