7 朧、幽冥牢の小説を読んで凹む
先日、幽冥牢の小説の続きを読んで、一時的にではあるが、幽冥牢恐怖症になった朧。どうやらまだそれは回復していない様子で、午前中の仕事を終えた彼女は早々にこの『朧スペース』に引っ込んでいた。
先程三時の定時連絡が入り、今日はもう仕事がない事を確認済み。それからはずっと広いダブルのベッドの上に突っ伏しているのである。着替えてもいない。傍目にはファンシーさ大爆発だったが、彼女はそれどころではないのだった。
(まさかあんなにえげつないキャラを生き生きと描ける人だったなんて……ををぅ……!)
どうやら幽冥牢のやらかしているコーナーのひとつは、彼女に並々ならぬ精神的苦痛をもたらしている様だった。これまでどんな陰湿な敵を相手にしても、屈する事のなかった粘り強い精神を誇る彼女も、
『自分の生活圏内にそういう存在を含んでいる事に気が付かなかった』
という事実を前にしていささか参っているのである。
(そりゃ小説は小説だけど、このままだと私はあの小説を書いている人が苦手になってしまう)
しかも彼は今日ここへ来ると言うのだ。
『万人に理解してもらえるものを書こうなんて初めから思っちゃいない。でも、俺がこういうのを書いているだけで変人扱いされてはかなわんし、かと言って朧さんが我慢したりするというのも凄く変な話でしょう?
なので話し合う時間をもらえないかと提案します! よろしくお願いします!! この、躯螺都幽冥牢、躯螺都幽冥牢にどうか、どうかチャンスを!」
と、選挙運動中の政治家風に主張するので昨日話し合いをし、
『私は読まないけど書き出すのは問題ないし、口出しする筋合いではないので許可します』
という結論に達し、かたは着いたのだが、珍しく具合が悪くなってしまったので早めに休んだのだ。
そして今日仕事場に顔を出したら、幽冥牢が自分の顔色を見て衝撃を受けた表情を浮かべ、
「ずぇったいに後でお見舞いに行くから!」
と言い出したのだ。凄い気迫であった。彼の身体を巡る血液の音が直に聞こえる程で、その押しに負けた彼女はこうして部屋で
『だらけ~っ』
としながら彼からの電話を待っているのであった。
とっとと来て欲しかった。眠くなって来たのだ。
(そもそもこの状態だとご主人様が来てから着替える事になるよう)
というのが一番の心配事だった。
部屋の外で待っていてもらった状態で着替えるから多分手は出されないだろうと思うが、気にはなる。雇用主が紳士である事を祈った。
その時、お馴染みのGPS携帯が着メロを鳴らした。
「お、お疲れの所を大変申し訳ござりませぬ……」
殆ど屋敷に戻ったに等しい鍾乳洞の入り口(向こうからは通り抜けた場所に当たった)まで迎えに行き、そう行って頭を下げる幽冥牢の手を引き、戻って来た時にはもう五時過ぎであった。
今日は例の、行った事はないが聞いた所によれば修学旅行の夜みたいな雰囲気と流れだそうであるお泊りスケジュール表では、自分の部屋がその場所になる為、後は仕事を終えたルビノワが来るのを待っていれば良い。
思えばその習慣が定着するまではホントにあっという間だった。その内容は気恥ずかしくて言えないが楽しくやっている。
部屋の外で待っている幽冥牢はどういう顔をしているのか少し気になったが、着替え終わった朧は彼を部屋に迎え入れた。
いつものネグリジェでは、三人の時ならともかく、少し恥ずかしいので浴衣にして上にいつもの渋い藍色のどてらを羽織ってみたが、
(妙な雰囲気にならないといいな)
と思った。今はちょっとそういうのは困る。
そういう事を気にしていると、胸の辺りやお尻の辺りが気になり、何だか裸で歩いているのと殆ど変わらない様な気がして来た。
身体が熱い。元々具合が良くないので頭もふらふらして来た。
心配したのか幽冥牢が声をかけて来た。
「来てしまって何ですが、横になった方がいい様に見える。凄く顔も赤いし」
「あっいえ、大丈夫です」
「嫌でなければちっとおでこいい?」
「あ……はい」
「ちっとごめんなさいよ」
「あっ……」
額に触った幽冥牢の手を感じて朧はびっくりした。確かに今日は寒いが、この手の冷たさは何だ?
「何かやっぱり熱いよ。ルビノワさんを呼ぶから、寝てた方がいいよ」
「ご主人様の手が冷たいんですよ! どうしたんですか?」
「俺は冷え性なの。血行不良。昔からだから」
「そうなんですか……」
「喉とか節々とか痛くない? おなか痛いとか」
「特には。フラフラするだけです」
「薬とか買って来たからさ。これ」
袋を開いて色々見せる幽冥牢。100%のオレンジやりんごのジュース、充○野菜、卵、そばつゆ、他にもどっさり買い込んで来た様だ。迎えに行った時から気にはなっていたが、
(まあ、色々と……)
と思った。幽冥牢は荷物をテーブルに置くと、着ていた上着を脱いでこれもテーブルに置いた。
「風邪ではないので、多分薬は大丈夫です」
「じゃ一応、置いとく。おなか空いたりしてない?」
「少し……何で今日はそんなに優しいんですか?」
「何でかぁ。うーむ……駄目?」
「駄目じゃないけど調子が狂います」
「怪しいからね、俺。大丈夫、何も盛らないので」
少し自嘲気味に笑う幽冥牢。何か悪い事を言った様な気がして朧が口を開こうとした時。
「それに朧さんもいつもの口調じゃないじゃん。だから真面目にしてるのさ。
すぐに飯を作るから寝ていていいよ? さあさあベッドに入った入った」
「はい……」
朧からどてらを受け取ると、テーブルに置き、毛布と分厚い掛け布団をかけてやった。
「はい、これで寒くない?」
「ええ、でもあんまり眠くありません」
「だけど、あれだ、
『横になっているだけでも疲れが取れる』
って言ってたでしょ?」
「ええ……」
「それと……そうだなあ、どんなのが良いのか分からなかったけど、これとか読んでてくれる?」
彼がさっきのビニールから出したのは
『トーキョー○○○』
という繁華街や映画、何が流行っているかをダイジェストに紹介している雑誌だった。
「じゃあ、それ読んでて。すぐ作るね」
「やっぱり何か変です」
「ん? 怖い?俺」
「そうじゃなくてやっぱり親切過ぎます。 落ち着きません」
あぁ、と声を上げて、顎に手をやりつつ、天井を見やる幽冥牢。それから朧を見下ろす。その切り裂く様な流し目は彼の癖なのでどうしようもなかったが、今は凄みを感じた。
「昨日の小説がやっぱり嫌?」
「いえ、それは関係ないです」
「うーむ……俺らしくないとか」
「……少し」
朧は
(こんなので本当に彼を信用していると言えるのだろうか)
と悲しくなったが、疑っているのとは違う。
このもやもやした感じは何だろう。何か、気恥ずかしくて落ち着かない感じ。
昔、強く心を支配した感情。
(……そうか、私は切ないんだ)
と彼女は思った。
「変な事、したりしないよ?」
「違うんです」
「うーん。じゃあ、作る所、監視してて」
「えっ……」
「具合が悪くなったらベッドに戻っていいから、作る所を監視してて下さい」
台所に向かって、沸騰した湯に投入したそばつゆが静かに煮立つのを見ている幽冥牢。その彼の後ろに椅子に腰掛けて眺めている朧。
(やっぱり落ち着かないよう)
と思った。 幽冥牢は幽冥牢で
(やっぱ俺って日頃の行いに問題があるのかなあ)
と、悲しく思い、溜め息をついた。彼の場合は格好が問題なのだが。何が落ち着かないって、面接の際に予めある程度の説明などがあり、これは幽冥牢の趣味なのだが、アニメや洋画、ロックバンドのプリントTシャツが彼は好きで、よく着ているのだった。で、指には
『これのおかげで何度も分厚いドアに挟まれても指が飛ばずに済んだんだ』
との事でごつめの、少し歪んだ咆哮している狼のデザインリングがある。腰には財布に繋がるチェーンが適度な長さでぶら下がっている。つまり、ロックバンドの人みたいな佇まいなのだ。髪はルビノワとは違うトーンで主に赤く染めているし。
お椀に少しつゆをすくい、朧に渡す幽冥牢。
「味見して。熱いよ?」
「はい」
ふーっ、と息を吹きかけ、朧は飲んでみた。
(……あ、おいしい)
「どう?」
「丁度良いです」
「ん。じゃあ、その濃さで良い?」
「はい。でも何作るんですか?」
「すぐ出来るよ。待ってて」
「ご主人様も料理するんですね」
「最近は全然しないんだなこれが。サボってる」
「でも、卵の片手割りしてたじゃないですか」
「ああ。何か下手になってた。やっぱ、ずっとやらないと駄目ね」
「出来ない人の方が多いですよ」
「俺が出来るんだから練習すれば誰でも出来るさ。だって朧さんは出来るでしょ?」
「ええ。でも手に付いちゃいますね」
「付かないとカッコイイよね」
「そうなんですよねえ」
朧の口調がだんだん何時もの調子に戻って来たので、幽冥牢は
(よしよし)
と思った。
それから、ご飯を丼によそって彼女に見せる。
「この位でいい?」
「……もう少し多めで」
「はいはい」
にこにこしながらもう少しよそう彼を見て、疑問が浮かんだが、少し考えた朧の頬が染まった。
「もう。何ニヤニヤしてるんですか?」
「いや、
『おなか空いてて良かったなあ』
と思って」
「言わないで下さいよう、そんな事」
「だって作って食べてもらうのって嬉しいじゃん」
「ああ……」
(そういう事か)
と彼女は思った。
「でもー……」
「はい、失礼しました。出来上がりー」
彼が作ったのは、適当に切った葱と豚コマを軽く味付けして炒め、沸騰したそばつゆの中に投入し、とき卵でとじたものの丼だった。
テーブルにて。不安げに朧の様子を見ている幽冥牢。食べる朧。そばには玄米茶の湯飲みが置かれている。
「……どう?」
「美味しいですよ♪」
嬉しそうに微笑しながら幽冥牢は椅子を引き、座った。
「そうか。良かった」
チョイスが良かったのか、ぱくぱくと美味しそうに口へ運ぶ朧。飲み込んでから口を開いた。
「もっと色々お料理すれば良いじゃないですか」
「色々作れないし、作ってやる奴いないし」
「……何か女の人の話みたいです」
「そうね。へへへ……」
「ふふふ……」
少し、二人で笑った。笑いながら言う幽冥牢。
「冷めない内に食べてね」
「ふふふ、はーい☆」
食べながら朧は思った。
(この人は変じゃない。……あんな、いや、ああいう小説を書いているけど、それ以外にも変な人が一杯出て来る忍法帖のマンガとか描いたりしているけど、それはあくまで主人公キャラ達に対しての比較対象としてのキャラ構築のそれなのかも)
昨日の話し合いの後から考えていた事に結論が出た様な気がした。幽冥牢は上手く言えない様だったが。
朧は何だかとても嬉しくなった。
(そうだ。変だけど変じゃない。
だって……凄く優しい。だから、変だけど変じゃない)
強くそう思う事にした。
「どうしたの? にこにこして」
「ご主人様?」
「はい?」
「元気が出て来ました」
「そうか。良かった。
後さー、これはルビノワさんにも言ってるんですけれど、『ご主人様』とか『主殿』ってどうにかならん?名前に『さん』付けくらいでいいんですけれど。偉くないし」
「保留です」
「そっかぁ」
何度目かの交渉もどうやら失敗の方向に終わりそうで、幽冥牢は苦笑した。
朧が食べ終わった丼を置いて、ごちそうさま、と告げてから、幽冥牢を見つめた。
「ん?」
「あのう、明日も頑張ります。だから……」
「だから?」
「私が治ってもそのままでいて下さいね」
何か切実なものを感じた彼は訊ねた。
「ん~……変な小説書いちゃうよ?」
「いいです」
「馴れ馴れしくベタベタしちゃうよ?」
「仲良しだからOKです☆」
「おまけに天然ですが」
「私もそうだから問題ないです」
「そうなのか……」
「ええ☆」
「……まあ、お互いルビノワさんには迷惑かけない様に気をつけましょうね?」
「そうですねえ☆」
そう言って彼女は微笑む。
それはとても、魅力的だった。
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