5 幽冥牢、『朧スペース』で凹む

 春も近づいてきた昼下がり。

 そんな外界の移り変わりとは無縁に等しいこの幽冥牢屋敷の地下に朧の部屋はあった。本人が希望してここを割り当ててもらったのだが、ここに到達するまでは過酷な道筋が待っている。

 まずは陰気な、大変足場の悪い鍾乳洞だ。先日、板を敷いて歩き易くしたのだが、誰が外したのか、何時の間にか無くなっていたのを通り抜け、底の見えない断崖に掛けられた吊り橋にさしかかる。これも先日、安全性のアップを計る為、補強工事を行ったが、作業員が数名、工事を共にしていた同僚のすぐ傍で行方不明になり、何度かの捜索にも関わらず、遂に発見されなかった。工事中に

『血にまみれた十数名の白衣の連中ののらりくらりとした行進』

を見たという作業員も何人かおり、

『そいつらに連れて行かれたのだ』

という噂が工事に参加した人々の間で広まっている。そこを渡らなければならない。

 その先に

『何故こんな所に屋敷が』

と、見る者の怖気と好奇心を煽る荘厳な造りの建物の玄関が待っているのだった。

 チャイムを鳴らすと、朧が防犯カメラでのチェックと、声紋、指紋のチェックを行い、『その上で事前にアポをきちんと取っていれば本人が迎える』という非常にめんどくさい段取りを踏む必要がある。

 この地下の屋敷の主である朧もまた人嫌いが著しいのだ。

 しかし、そのチェックをクリアし、確かに朧に迎え入れられ、部屋に通されたにも関わらず、その後部屋に現れた彼女に

『あら、何時の間においでになられたんですかあ?』

と、不思議な顔をされる事が何度かある為に、尋常でない者の存在が囁かれ、この、少し、いや失礼を承知で言えばかなり夢見がちな、気立ての良い美しい娘の顔を見ようとする者は主の幽冥牢と彼女の親友のルビノワだけになってしまった。

 勿論、主の方はヘタレている。

『俺は

『夜中の草原、山岳、海や川等の水辺』

や、

『夜中の学校の敷地内や工場地帯』

が本気で嫌いだ。マジで一人で置き去りされたくない場所なんだ。ですので、日の全く差さないこの屋敷の地下ルートとかに置いて行かれたら本気で泣きます。

 だから申し訳ありませんが朧さん、いえ朧殿。迎えに来て下さい。かなり命と引き換え気味のルートを来て頂く事になる気がするので、俺の自我が許す範囲であなたの言う事を聞かせて頂きます」

と言って迎えに来てもらっていたが。

 そこまでして何で行きたがるのかというと、それは彼女が話を振り易く、気立てが良く、見目麗しく、相手にして退屈しない娘だからである。

 つまり、幽冥牢は彼女のいる部屋で彼女と過ごす時間を大事にしたいのだった。自分の散らかった部屋に来てもらうのとは精神的な充実及び男としての興奮の度合いが違うのだ。

 ある意味変態と言えるが、そう言う命を賭けたバカが出来る自分を彼は気に入っていた。

……若かったのだ。


 そんな彼を心配したのか、

『『生物』としての本能が壊れ過ぎだ』

とルビノワは何時も言っているが、

『余程の事が無いと治らないだろうと思います。もう駄目かも。周囲の人が見守っていくしかないです。放置しても開き直って喜ぶし。

 ジャンル的にストーキングはしないし、汚い描写・痛そうな描写・へましても開き直る態度が嫌いなとこは問題無い様な気もしますけど、何よりエロいので、その面ではかなりキツイ変態です。とひょひょ……』

と、言って見る見る落ち込んで行くのだった。


……何度も言うが、若かったのだ。




 午前中に済ませる仕事が早く終わると、後は殆どメイドとしてはやる事は無い。

『ちゃんと休んで体調及び精神状態を整えてくれないと可愛がります。直接。私の気が済むまで』

という大変頭の良くなさそうな雇用条件を呑んで雇われた身の上なので、朧はここに戻り自分の時間を満喫していた。何か用があれば、この頃ようやく出始めたGPS携帯が鳴るだろう。それに午後三時の通信で

『今日の朧さんにして頂く作業は全て終了致しました』

という通知が来ればもう今日は自由の身だ。

 もっとも自分とルビノワは一日当たり三時間も眠れば通常任務の遂行が可能なので、仕事時間より自由に過ごせる時間の方が多いのだが。

 ちなみにその睡眠の摂り方はヨガ行者から習った。一度覚えれば誰でも出来る。


 電波が届く廃墟は住み付く準備さえ整えれば引きこもるには丁度良い。

 ここの静けさは彼女の精神状態を回復させるには一番だった。その分他の人間の精神状態を蝕むには絶好な訳だが。



「……誰か来ないかな。このままじゃ間違いなく寝ちゃいますよう」

と、彼女があくびをひとつついたその時。この『朧スペース』の彼女の部屋のドアをノックする音。

今日はアポを取った覚えは無い。瞬時に意識が回復し、

『戦闘準備に入れ。新兵』

と、頭の中でお馴染みの昔の上官の声がした。今ではルビノワと自分は彼よりも長く生きている。

(肉体が歳を取らなくなったのはいつからだっけ)

と考えながらサブマシンガンを右手にぶら下げ、左手で持った防弾チョッキを自分の上半身の前に下げつつ、ドアの脇、向かって右に右肩を押しつけて立つ。

(相手はどうやってこの建物の中に入ったのだろう)

 一応訊ねる。

「どなたですか?」

 向こうから驚いた様な気配。それは覚えのある気配だった。

「あ、お、朧さん?

 俺、幽冥牢ですけど」

 怪訝に思いながらもドアを勢い良く開けると見慣れた主がいた。

 正直彼女も驚いた。彼は彼で彼女の手に握られているものを見て、一瞬表情が険しくなったが、すぐ元に戻った。

 それにしても何故彼はここまで来られたのだろう。こちらから迎えに行かない限り、この掴み所の無い、図々しくも変な所が遠慮がちな主は、自分からあのルートを鍾乳洞からこちらへやって来ようとはしない。

「一人で来ようとすると、変に頭痛がして寒気がし、左肩が重くなるんだ。

 肩口を手で払うと治るんだが、またすぐに同じ状態になるんだよね。すまんこってす」

と言って、何だか不憫になるほど謝るのだ。

 それをいつもなだめるのが彼女の習慣だったのに。


 一瞬、彼女の脳裏に

(本当にこの人は私の知っているあの主人なのだろうか)

と言う考えがよぎった。

それはとても恐ろしい考えのような気がして彼女はその考えを振り払った。何しろ周辺で変な事ばかり起きている場所だ。よくそんな所に住んでいるものだ、と、時折自分に感心する。

「あー、えーと、その……何時の間に君は中に?」

「あの、その前に私何時頃アポ取りましたっけ? 覚えが無いんですけど」

「えーと、おとといの朝十時頃かな」

「何処ででしたっけ」

「食堂に行く途中の廊下」

「ああ、えーと……」

 全く覚えが無かった。そもそもその時間、自分は外で洗濯物を干していたはずだ。

 自分の記憶が正しければだが。自分はよく記憶が飛ぶのだ。でも、その場所でルビノワに自分の落し物を届けてもらい、

『気をつけなくちゃ駄目よ』

と、優しく頭を撫でられたのを覚えているから、その記憶は多分正しい。

 主人は少し悲しそうな顔をしている。彼は彼でよく

『人に自分との約束を忘れられるので、自分の記憶に自信が全然ない』

と言っていたのを朧は思い出し、少し主人が可哀想になったが、でも恐らくその約束をしたのは自分ではない。明らかに他の誰かだ。

 自分にそっくりで、他の人には自分と見分けがつかない様な誰か。

 でも、主人は自分と約束をしたと思っている。それは彼の責任ではない。しかし、この状態では

『しょうがないから相手になってやっている』

と、彼に受け取られかねない。彼はそういうのを嫌うのだ。

『気が進まない状態の相手に時間を取らせて相手をさせる程ガキじゃない』

という事らしい。それはそれで立派だが、

(正直、今は少々面倒だ)

と思った。

(一体何処のどいつよ、自分に代わっていい加減な約束をして彼を傷つける様な事をしたのは)

と、自分の顔をしたそいつが憎たらしくて一瞬表情を曇らせた。



「んー、俺の勘違いだね。済まん。帰るわ。

 時間を取らせて悪かったです。あったかくしてね?」

 幽冥牢は苦笑いをしつつそう言って、朧の手を取り、優しく握った。

「ごめんな。じゃ」

 そう告げると踵を返して歩き出す。うつむいて去っていくのは彼の基本スタイルのひとつだが、多分今、彼は泣きそうなのをこらえた顔をしているだろう。

 それで、誰も知り合いのいないとこへ移動するとひとつ深い息をついてからブルブルッとしばらく震えそれが収まると

(何でも無い、何でも無い)

という顔で首の後ろを拳骨でごんごんと叩いて気合を入れ直し、歯を食い縛るのだ。

 そうやってかろうじて平静を保つのだ。誰かに舐められない為に。

 それが彼のやり方だ。彼の正気の保ち方なのだ。


 自分達二人の知らない誰かに追い詰められた結果の彼が選んだ生き方。

 主は気付いていない様だが、自分とルビノワは何度かそういう彼を目撃した事があるので知っていた。余り良いやり方ではないと思っていたから彼に

『無理しないで私達に言ってくれてもいいんですよ』

と何度言おうとした事か。しかし、ルビノワにその度に止められたのだった。

『かえって傷つけるのではないか』

と。

 確かに自分だって堪え性のない男性は嫌いだ。

 何故なら、女や友人ににすがって泣き言を言って、自分では問題を解決できないと助けを求め、何とかなると平気でこちらを見捨てて行くからだ。

『自分一人で全てを解決した』

という涼しげな顔をして。

 少なくとも過去の自分の周りにいた男性の殆どはそうだった。

 だから、基本的には男嫌いで通して来た。


 しかし、幽冥牢は違っていた。自分達を雇う時、はっきりと言ったのだ。

『俺のせいで面倒をかけそうな気配になったら、俺はここを解散し姿を消す事にするから』

と。


 彼の事情は少ししか知らない。結構複雑な様だし、

『いなくなる直前に全部話す事にしているから』

と言っていたから、こちらも具体的には聞かなかったのだ。

 その時はそこまで踏み込む様な関係ではないと思ったから。


 しかし、ここで過ごして、この頃にはもう三年が過ぎていた。その間に彼を見る目がだいぶ変わった。

 確かに愚痴を垂れるし、自分達にはずんずん近づいてくる。表向きには

『甘ったれたどうしようもない奴』

に見える。

 でも、金銭関係のトラブルを打ち明けられた事は全く無かった。給料の滞る事は一度も無かったのだ。

 労働環境も文句無しだった。

 そもそも、ポジティブな意味で働いている気がしないのだから、文句などある訳が無かった。でなければ、流れ者の自分達が落ち着こうとする筈が無い。

 彼は風邪を引いたりした時も皆の世話になろうとはせずに自分で治した。

『酷くなったら何とかしてもらうさ』

と言って、一人でフラフラ病院へ行くのを見送った事もあった。

『かえって気疲れするんだ。面倒かけさせるのって』

と聞いた時には

『何の為に自分達はここにいるのだろう』

とルビノワと二人で悩んだ。

 そこで二人は決めたのだ。

『自分達二人くらい彼の味方になってあげてもいいだろう』

と。


 実際の所、彼は人付き合いが下手だ。自分の三白眼を気にしている。

 そのせいで、知り合い以外の相手には何時も伏目がちで話しかける。それだって彼が自分でやった訳ではない。

 一人でいるのと、ネットで書き込みをしている時が、最近は一番気楽そうに見える。

 彼の珍しい頼み(命令ではなかったのだ)で、自分達が手伝う様になって知ったのだが、ネットでサイトを開いてからは知り合いも出来た様だ。

 いつも主は自分で選ぶ言葉に自信が無く、四苦八苦している。

『あーあ、俺、言葉が足りなかったかも知れないよ。言わないよりはマシかも知れないけどさ。

 後で補足しといたほうが良いよなあ』

と、玄関口を自分が掃いているとやってきて誰ともなく話すのだ。今では彼が来ないと何となく落ち着かなくなってしまっている。

 ルビノワも

『彼がスタジオをぶらぶらと覗きに来て、

『ネタがあるんだけど、書き出さないとまとまらないよう。書けば良いんだけどさ。書きます。

 じゃルビノワさんも頑張ってね。あでゅ~』

といつも言うのだけれど、そのセリフを言いに来てくれないと落ち着かない』

と言っていた。

『習慣ね、もう』

と、二人で平和な場所に馴染み始めている事を嬉しく思い、笑った。

 それが、その関係が壊れかけたのがつい先日のあの告白の時だった。どうなる事かと朧も内心冷や冷やしながらの提案だったのだが、結果的に元の関係どころか、それ以上にお互いにものを言いやすくなった。

 それはとても良い事だ。そうして回復した関係が、どこかの誰かのせいでまた壊れかけている。

(許せるか、そんなの)

 躊躇している暇は無い。ルビノワもいない。

 自分しか今ここで彼に切り出せる人間はいないのだ。

(ちょっと怖いな)

と正直思った。上手く話をまとめる自信は全然無い。

(……でも、それが何よ)

 ここに来たばかりの時の臆病な自分ではないのだ。朧は一歩踏み出し、幽冥牢を呼び止めた。




 地上の幽冥牢屋敷の、スタジオの控え室。椅子に腰掛けるルビノワの姿があった。

 仕事時間までまだ四時間もある。打ち合わせは終了したので、丁度早めの夕食を済ませた所だ。先程幽冥牢に抱き付く様にして仕掛けた、ちょいと値の張る通信端末を用いて、耳元のインカムで事の成り行きを窺っている。

 やがて、自分から好き好んで手間を掛けさせてもらいに行っている幽冥牢の

『あのさー、ホントに迷惑じゃない!?』

と言う声と、自分のとても大事な相棒の

『今度は私が手を繋いでここまで引っ張って来ますから、そんな奴に騙されないで下さい! 帰っちゃ嫌ですよう!

 何なら泊まっていったらどうですかあ?』

と言う声が聞こえて来た。


……確かこの前決めた今週のスケジュールでは、今日は自分の部屋であの二人が泊まって行く順番だ。

 ルビノワは静かに立ち上がった。

(楽しいイベントの抜け駆けはさせるもんですか。皆が皆のものなんですからね)


 あの二人をどうやって連れて来るかは向こうに着くまでに考え付けば良い。

 ルビノワはニッコリ微笑むと楽しそうに歩き出した。

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