秋雨
音崎 琳
秋雨
掃除のあと閉めわすれた窓から、雨音が絶え間なく流れこんでいた。秋の長雨。放課後の教室が、細かな水の音に包みこまれる。白く蛍光灯に照らされた教室の中には、少女がひとり残っていた。
使い古された黒板消しが、黒板の上を滑っていく。右、左、右。黒板消しが滑ったあとは、幾分きれいになっている。
その黒板消しを握っていた少女は、いちばん下まで拭きおえて、「よし」と呟いた。黒板の正面から二、三歩あとずさって、仕事の成果を確認する。
「すず、いい加減終わったー?」
間延びした声がして、少女──すずは教室の外を見た。黒い学生鞄を下げ、水色の傘を握った梨子が、廊下に立っていた。
「え、まだ」
すずは、あっさりそう答える。もう一度拭き直すつもりだった。それに、黒板の桟も拭いて、黒板消しもクリーナーに掛けなければ。
梨子は教室に入りこむと、手近な机に、どさりと鞄を載せた。
「なんで、すず一人で黒板掃除してんの?」
梨子は言いながら傘を広げた。
「そっちこそ、なんで教室の中で傘を広げるの」
梨子は、にやりと笑っただけで答えなかった。すずは不満そうにため息をついて、黒板に向きなおる。
「それで? すずはどうして居残りさせられてるのかな?」
「別に、残らされてるわけじゃないし」
黒板消しが左右に動く。梨子はくるりと傘を回した。ゆっくり黄緑の鳥の模様が回転する。
「ちゃんと答えてくれないと、こっちで勝手に言っちゃいますけど?」
「は?」
すずは黒板の左端で手を止めると、怪訝な顔でふりかえった。
「そうだねー……あ、こんなのはどう?」
「『どう?』って言ってる時点で、すでに梨子の妄想だからね」
梨子は、すずの言葉をさらりと無視した。
「今日提出の、英語の問題集が出せなかったんだ。二組の担任は、英語の吉村先生だもんね。すずは問題集が終わりそうになくて徹夜したけど、結局終わらず、朝慌てて家を出たら、英語の教科書を忘れてしまった。その上徹夜明けで授業も壊滅。怒った吉村先生は、すずに黒板を磨きあげるように命じた、と。あ、今日の英語、二組は六限じゃん。さらに信憑性アップ」
「何が信憑性よ。ちゃんと出しました!」
すずは大声で抗議したが、梨子は聞こえないふりをした。
「だめだよー、すず。宿題は出さなきゃ。うーん、でも、授業中に寝るほうが問題かな? 居残りまでさせられるんだもの、よっぽどぐっすり寝てたのね」
短気なすずの、堪忍袋の緒が切れた。
「いい加減にしろ!」
梨子は、開いていた傘を盾のように、さっと自分の前にかざした。ばすん、という気合の入った音と共に、すずの握っていた黒板消しが、見事にその上に命中した。
ぽとり。
黒板消しが床に落ちる。
しばしの沈黙ののち、梨子は言った。
「すず、私の傘は濡れているんだよ」
せいぜい雑巾だと思ったのに。
水色の傘には、くっきりとチョークの粉が残っている。だが、問題なのはそちらではない。
濡れた使用済みの黒板消しなんて。
* * *
十分ほど経ち、水色と黄色、二つの傘が、そそくさと校門を出ていった。
あの後、とりあえず黒板だけでもきれいにした二人は、床を拭き、乾いている方の黒板消しはクリーナーに掛け、濡れている方と合わせて黒板の桟に置いてきた。明日の朝どうなっているかは、神のみぞ知る、である。
「そうだ。すず、今日うちに来ない?」
梨子はくるりと傘を回した。わずかに水滴が舞う。チョークの粉は、すでに雨が洗い流していた。
「結局、黒板掃除の謎、聞いてないし。あれほど言い渋るとは、きっと感動の冒険譚が待受けてるんだね」
「違う。そっちが人の話を聞かなかっただけであって、そんな大した話じゃない」
「うん、オッケー。愛と涙の一大ドラマね。くだらない落ちだったら承知しないから」
「もう!」
* * *
梨子の家のダイニングキッチン。
同じ社宅に住み、幼稚園の頃から互いの家を行き来している二人にとっては、勝手知ったる他人の家だ。すずはすっかりくつろいでダイニングテーブルに着いていた。プリーツスカートの裾がちょっと冷たい。
「今お湯沸かすから」
梨子は、すずに背を向ける格好で、制服のままやかんを取り上げた。
「先に着替えてきていいよ」
「いや、火に掛けてからにするから、あとよろしく」
「はいはい」
「まったく、なんで今時やかんなのかなー。てぃふぁーるー」
梨子はぼやきながら、やかんに水を注いだ。
換気扇を回してやかんをガスコンロに掛けると、台所を出ていく。
梨子の両親は共働きだから、家の中にはふたりしかいない。急に静かになったダイニングで、すずはひとり頬杖をついた。
梨子の気配が遠い。雨に、遮られてしまっているせいかもしれない。窓は開けていないはずなのに。
雨音は途切れない。
気づくと、やかんの口からは、もくもくと白い湯気が立ち上っていた。すずは慌てて立ち上がって、火を止めた。ついでに換気扇も止めてしまうと、台所は静まりかえった。
雨が迫る。
次の瞬間、梨子が戻ってきた。いつもどおりの表情、見なれた白とグレイのパーカー。
「お湯沸いた?」
すずは笑みに紛らせながら、ほっと息をついた。
「沸いたよ」
「よーし、お茶会だー」
梨子はすずの隣に並ぶと、備え付けの戸棚に手を伸ばした。
「お茶会っていうか、ただのおやつだけどね」
「またそういうことを。いいじゃないの」
秋雨は、また窓の向こうに帰っていく。
秋雨 音崎 琳 @otosakilin
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