第79話 役に立て


 まただわ。


 道の先に、仰向けに女がひとり倒れている。だらりと投げ出された力ない手足に見開かれたままの目。頬に無造作にかかった焦げ茶の髪と、服の裾だけがかすかに風に揺れている。おそらく生きてはいないだろう。


 これでもう何人目かしら。騎士ノースの言っていた通り、魔術師塔へ向かう道は死であふれていた。この先にまだ生きている人間はいる? そう思わせる不気味な静けさが広がっていた。


 ここに来るまでの間、闇の魔力を持つ魔物の気配も何度か感じた。あの魔力を注がれた生き物はそもそも、そんなに長い間肉体を保てなかった。形が崩れたあとの黒い泥をいくつも見たわ。それなのにまだ動き回れるものが徘徊しているなんて、魔物が生み出され続けているとでもいうの。


 この女もあれに触れ死んだのかもしれない。体に傷が見あたらないもの。死んだ女の横を通るときそう考えて胸の中がざわついた。


 大丈夫。少なくとも私は、あの魔力を受けたからといって死にはしない。気配を感じたら逃げればいいだけ。自分に言い聞かせ心で唱えながら、歩き続けた。


 ひとけがないだけでなく、あたりには甘いもの、生臭いもの、焦げ臭いもの、色んなにおいが入り混じって漂っていて、それにも不安をかき立てられた。ああ、山から強い風がひと吹きしてくれたらいいのに、前にガウディールの城壁にいたとき吹いてきたあの風。そびえ立つ山肌を見上げる。


 ぐちゃ、と濡れた音が聞こえたのは、そのときだった。最後の角を曲がり魔術師塔の屋根が見えはじめたあたり。なんの音? そう思ったのは一瞬で、すぐに道の脇で、狼が猟犬の腹を食い破っているのを見つけた。


 あの狼は魔物みたい。獲物に夢中で顔を上げもしない。今の私の魔力量が少ないとはいえ、さすがにすれ違うほど近づけば気が付かれてしまうわね。


 ラスティに貰った胸の魔石にまだ魔力が残っているから、これを使って倒すしかない。氷の刃は作れても、もし外して向かって来られたら私には避けられない。一撃で仕留めるのよ。


 狼を見つめて進みながら決意を固め、胸の魔石に震える指を伸ばす。同時に狼が顔を上げ、目を赤く光らせこちらを見た。


 と、狼はすぐに怯えた素振りで腰を引くと、身を翻して茂みの奥に行ってしまった。なぜ。ジーンと同じで私の中の魔力に気がつき恐れたの? それとも他になにか――。


「ここにおったか」


 突如背後から低い声が響いてきて血の気が引いた。バルバロスさまの声。見つかってしまった。きっと魔物は、バルバロスさまの気配を恐れて逃げたのだわ。私だって逃げ出したい。


「ゲインを目指し、城を出ようと試みているかと思っていたが。魔物を避け迷いでもしたか? 故郷の者どもとは出会えなかったのか。つくづく運のない娘よ」


 声がどんどん近づいて来る。この道を来たのだから、あの闇の魔力の満ちた場所を越えてこられたのね。この口振りからすると、ロインたちとは会っていないみたい。よかった。けれど、この男もまた強い魔力を持っていることを忘れていたなんて、私はなんて馬鹿なの。


「……おひとりで?」


 でもまさか、領主がこんなところまで来るだなんて思わなかったから。心臓が早鐘のように鳴るのを気取られまいと、ゆっくりささやいて振り返った。


「なんだと?」

「おひとりですか? 騎士のひとりもお連れにならず……私を探しに来てくださいましたの?」


 重厚な鎧を身にまとい、抜いた剣を手にした姿で立つバルバロスさまは思った通りひとりきりで、けれど心細さのようなものはまったく感じられなかった。羨ましいこと。それに音もなく忍び寄ってくるなんて、一体どんな魔術を使っているのか。


「シファードの犬を追わせた騎士が死んでおったのでな、供の者にはあやつらを追わせた」


 低い苛立ちを含んだ声に、心臓が大きく跳ねた。口の中が乾く。


「魔物に襲われたのかもしれません」

「死に様を見ればわかる」


 ロインがやったという証拠がおありになるの? 仲間内での揉め事では――だめね、こんな風に言ってもバルバロスさまを怒らせるだけ。

 忌々しげに鼻に皺を寄せるバルバロスさまを前に、それ以上ロインの味方はできなかった。弱い私。魔力の強さも、自信も、こんな場所に立つ経験も、この人にはなにひとつ敵わない。


「このような混乱の中、バルバロスさまのお姿が消えればみな不安になるのではありませんか」


 これだけ言うのがやっと。


「息子を残してきた」


 すべての答えだ、とでもいいたげな調子で吐き捨てられた言葉に、それ以上なにも言えなくなった。


「くだらぬ戯れ言に付き合っている暇はない。ここで捕らえたからには我が駒だ。その体、役立ててもらおう」


 役立つって、なにをさせるつもり。


 真っ先に浮かんだのは父の顔。私の身を盾にでもするつもりなのかと。でも違う、そんなことのはずがない。身代わりの娘はすでに用意されているんだもの。私の死に場所の話を、バルバロスさまがしていたじゃない。こんなところにいるバルバロスさまが私を必要とする理由なんて、一つしかないわ。


 闇の魔力に関する――。


 じり、と一歩後退ると、バルバロスさまが薄い笑みを口元に浮かべた。


「来い」


 強く言い切ったバルバロスさまが、こっちに向かい歩いてきた。逃げなければ酷いことをされる。わかっていても足が動かなかった。バルバロスさまの灰色の目が私を捕らえている。魔術を使われているわけでもないのに恐ろしくて……。


「煩わせるな、時間がない」


 苛立ちのあらわな声と一緒に大きな手が伸びてきた。しわだらけで節の大きな無骨な手、ラスティのとまったく違うバルバロスさまの手。


 触れられたくない。


 強く願った頭の隅に、ひとつの考えが浮かんだ。さっき、ジーンを逃がすために闇の魔力を取り込んだ。思い出すと指先が疼いた。バルバロスさまもこの魔力は警戒しているはずよ。


 ぞろり、冷たい魔力を手のひらに這わせる。体の中にある魔力は少なくとも、バルバロスさまを怯ませられればいい。これまでにされた酷い仕打ちを思いながら力を集めると、指先が痺れはじめた。手袋をしていてよかった。指の色が変わるのは見たくない。


「……!」


 思惑通り、異質な魔力を感じ取ったらしいバルバロスさまが、即座に手を戻し私から離れた。その隙をついて駆け出す。もう、そんなに素早くは動けなかったけれど。


「小娘!」


 憎々しげな声が背後から短く響いてきた。

 足を動かしながら辺りをうかがい、闇の魔力の漂ってくる方角を探す。バルバロスさまから逃げるにはあれを利用するしかない。図らずもそれは魔術師塔の方にあった。今日起こるなにもかもが、私を魔術師塔へと導いている。


「どうした、それが全力か? 小兎のほうがまだ楽しませてくれるぞ」


 バルバロスさまの声が追ってくる。憎らしいほど余裕のある声。私を追うのを楽しんでいるのだわ。いつでも捕らえられると思っている声の響きをしていた。


 そう思われても仕方がない。体の中のラスティの魔力はほとんどなくなっていて、もうそんなに長くは走れそうもなかった。ラスティのところまで行けないかもしれない。息があがる。一度大きく呼吸すると、冷たい空気が肺を満たした。


 ラスティ。


 枯れ枝や枯れ葉を踏む乾いた音を聞きながら、彼を思った。無事でいるかしら、このまま魔術師塔へ向かってはバルバロスさまも連れて行くことになってしまう、でも魔術師塔から離れてはあなたに魔石を渡せない。ラスティ、私間違っている? わからないの。


 魔術師塔が見えてきた。見慣れたはずの道に、魔術師たちが何人も倒れ伏している。赤い髪の者はいない。足元にひんやりとした魔力をはっきり感じはじめた。あの魔物だわ、近くにいる。後ろを確認しても、バルバロスさまの足取りはそれまでと変わっていなかった。この程度はこの男も耐えられるのね。


「止まれ!」


 早く、もっとこの魔力の濃いところへ。魔術師塔の周囲に漂う闇の魔力は、凍えそうに冷たかった。塔に近づくと濃度を増す。バルバロスさまは魔力を使わなければここにはいられないのだもの、きっと諦めなければならない時が――。


「ゲインを弓兵に狙わせてある。合図ひとつで矢は放たれるが、構わぬか!」


 卑怯者!


 叫びたいのを必死にこらえて立ち止まった。妹を、父を、故郷を人質に、私の心を踏みにじるこの男を許せない。憎しみが心を震わせた。そのつもりもないのに、闇の魔力が体の中に入り込んでくる。ちくちくと小さな棘を私の内に刺しながら私の中にひろがって……。


「私にどうしろとお望みなのですか」


 見つめる先のバルバロスさまは、ほんの少し青ざめて見えた。この魔力がお辛いのだろう。それでもバルバロスさまは私の言葉に笑んで見せてきた。


「この魔力を放つ魔物を探し出し消せ、おぬしが触れ、魔力をその身に移せば崩れるだろう」

「魔法陣もなしに?」


 前にお腹に置かれた時傷を負ったのよ。あのときはすぐにラスティが治してくれた。


「父親と騎士どもの命が惜しければやれ。その薬草の枯れたところのものと、塔へ続く階段におるものをだ」


 バルバロスさまは迷いなく魔物の居場所を口にした。私にはそんなに細かくまではわからなかった。薬草の枯れたところ、あるわ。前に見たときは一面緑の葉を伸ばしていたのに、今は枯れて薄い黄色をしているところが目立つ。その一部が黒く変わっていた、あそこにいるの。


「早く行け……私の腕の一振りでゲインは死ぬぞ」


 それが本当なのかはわからない。でもやらないわけにいかなかった。せめてもの抵抗に黙って歩いてゆくと、カサカサと枯れた薬草の擦れあう音がした。さらに進んで葉が黒く変色したところにたどり着く。黒いものは私の足が触れるとすぐにボロボロと崩れていった。


 凍える冷たい魔力を辿ってゆくと、それはいた。黒く丸い、兎ほどの大きさのなにかが、もがきながら形を変え蠢いて、粘りつくような濃い魔力を放っていた。キィ、と甲高い音が、途切れとぎれに口に似た穴から漏れて聞こえる。


 苦しそう。

 そう思った瞬間、魔物への恐怖は小さくなり悲しみが勝った。私と同じ。ガウディールの者に許可もなく冷たい魔力を注がれたんだわ、かわいそうに。


「イルメルサ!」 


 バルバロスさまが私を呼ぶ。急かした響きに、早くやれ、という言外の言葉を読み取った。


「楽になれるわ」


 祈りを込めてつぶやいて屈み、魔物に震える手を伸ばした。怖い。痛いのはいやだもの。周りの空気がすでに冷たい。手袋をしているから、少しは痛みが和らぐといいけれど……。


「あ……!」


 素手で池の氷に触ったみたい。刺すような冷たさとともに、すぐに魔力が流れ込んできた。予想していた痛みはなかった。苦しいのか、魔物が私の手の下で身をよじる。逃がすわけにいかない。押さえる力を強めると、流れ込む魔力の量が増えた。寒い。魔物も小刻みに震えていた。


 冷たい魔力が体の内側を滑り落ちていく。魔物に触れているのと逆の手に握っていた魔石を、使いたくなるのを必死にこらえた。これはラスティに渡すのよ。そうだわ、バルバロスさまに見咎められる前に隠さなくては。バルバロスさまに背を向けているのを幸いに、そっと石を首元から胸の間に落とした。

 そうしている間に、魔物の震えが止まった。止まったと同時に魔物は泥になって地に崩れ落ちた。そっと息を吐いて、立ち上がる。次は階段のところ。怒鳴られたくなくて急いで足を踏み出すと、体がくらりとふらついた。


 歩いて。歩けばそれだけ、ラスティに近づけるのよ――多分。たぶん、と思うと心にふっと弱さが忍び込んできた。彼は本当にここにいるの。


 怖い。もし間違いだったら。


 ロインたちから離れたのも、魔術師塔を目指したのもすべて間違いで、そのせいでみなを危険にさらしているとしたら……。


 恐怖心から足が竦みそうになったそのとき、向かっている階段とは別のところから、がさ、と音がして意識を引き戻された。まさか魔物が。怯えた気持ちで視線を動かし、薬草の間に黒い顔を見つけ胸が熱くなった。


 ジーンがいた。ジーンは、警戒しているのだろう、身を伏せまっすぐ塔を見ている。その視線を追い、私も顔を上げた。魔術師塔は大きく、暗く、そして恐ろしいほど静かだった。


 ラスティはここにいるの、そうなのね、ジーン。

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