第72話 領主の妻たち


 翌日から、急に城内が騒がしくなった。それまでほとんど気配がなかった、婚礼についてのあれこれが整えられはじめたのだった。


 いつも以上に多くのものたちが動き働いていて、まだ朝早いのに窓から色々な音が聞こえてくる。鶏の鳴き声、怒鳴るように話す男たちの声、なにか大きなものを動かしたり落としたりする音……。

 他人ごとのように響くその音を聞いていたくて、窓辺に腰掛けてぼんやりと薄く青い空を見上げていた。


「お前も気になる?」


 足元で耳をぴんとたて、私と同じく外に顔を向けているだろうジーンにそっと声をかけると、ジーンはふす、と鼻を鳴らした。あたたかそうな首を撫でたいけれど、きっとこの子は避けるわね。


「お父さまたち、いつ来られるのかしら……」


 ぽつり、つぶやいた声は空に溶けた。


 ◆◆◆


 昼過ぎ、突然兵士がひとりやってきて、バルバロスさまが城の自室で私をお呼びだと告げた。戸惑いながらジーンを連れ、バルバロスさまの部屋に向かい歩く私の心は、ゆっくりと恐怖に侵されていく。

 寝台から乱暴に叩き落とされてからバルバロスさまに会うのは初めて。そしてあの夜から、まだ何日も経ってはいない。


「イルメルサさま、犬をここから先へ通すわけにはまいりません」


 外から中へ通じる階段に足をかけた時、そこを守護していた兵士が、私の後ろのジーンを見咎めた。内心ぎくりとしながらも顔には出さず、視線だけを兵士に向ける。歩きながら考えてきた言葉をゆっくりと口にした。


「これは私が預かっている特別な犬。他のものと同じに考えるのはおよし」

「しかし」

「お前も知っているでしょう、バルバロスさまはこれの持ち主をここに引きとどめたいと望んでおられます。なにか事を起こしてあの男の機嫌を損ねれば、バルバロスさまはどんなにかご不満にお思いになられるでしょうね」

「しかし……」


 ここまで言っても引き下がらないの。むっとしながら、もう少しきつい言葉を並べてやろうと口を開いたその時だった。


「おい、いいじゃないか、バルバロスさまをお待たせするわけにはいかん、犬を通らせてやれ」


 私を先導し、先に階段を登っていた兵士が数段降りてきて言った。すると、階下の兵士はしぶしぶ頷いたのだった。私の言葉には従わないで、他の兵士に言われれば肯くの。気にくわない。胸の中のもやもやが、さらに膨らんだ。ガウディールは好きになれない。向こうも私を疎んじている。


「おいで、ジーン」


 暗い気持ちを打ち払おうと、ジーンに声をかけた。言葉が理解できたみたいに、すぐにジーンは階段を登りはじめた。それを見届けてから私も続く。

 登りきったところには、奥に続く通路がぽっかりと口を開けている。そこは暗かった。あの奥にバルバロスさまが待っている。そう思うと、ぎゅっと心臓をつかまれたような心地がした。


 一体なんの用なの。私が出歩く姿を城の者に見せてしまえば、病が重いと婚礼のあとすぐに塔に閉じ込めるのが難しくなるのに。


 そんなことを考えながら薄暗い通路を進んでいると、途中とちゅうで魔力の気配を感じた。まるで見えない薄い紗の幕が、通り抜けるたび肌にまとわりついてくるみたい。何重にも魔力の結界が張られている。


 私の暮らすあの棟のまわりにはそんなものはひとつもなかった。


 軽んじられ悔しい。でもおかげでラスティに契約書を届けに抜け出せたのだから、きっとそれでよかったんだわ。契約書。思い出し、はっと息をのんだ。

 私を部屋から遠ざけて、あれを探すつもりなのかもしれない。あの夜、庭に埋めたとエーメに勘違いさせたけれど、あそこを隅まで掘り返したって見つかるわけがないのだ、ラスティが持っているのだから。


「イルメルサさまをお連れいたしました」


 通路を抜け、中庭を回る回廊を通り、さらに進んだ先にバルバロスさまの部屋があった。それはつまり領主の部屋で、本来なら婚礼のあと私も使うはずの場所だった。どんな部屋かはとても気になる。


 先に立つ兵士の背のかげから、そっと中をうかがう。扉のない入り口には、深緑色の天鵞絨の幕がつけられていた。今は大きく上に開かれているそこにも、きっと強い魔術が組み込まれているだろう。


 バルバロスさまは、暖炉のそばの椅子の背に手を乗せ、立っておられた。こちらに背を向けていても、隙はない。

 そこはがらんとした空間で、暖炉と中央に置かれた大きな寝台ばかりの目立つ簡素な印象の部屋だった。窓も小さく、柵が入っている。両親の部屋にあった温かさはない。でも意外だわ、壁面に狩った獣の首や武器が並ぶ、悪趣味な部屋かと想像していた。


「来たか」

「はい」


 答えると同時にバルバロスさまが振り返って私を見た。強い視線に射竦められ体に緊張が走る。その私の横を、礼を取った兵士が通って戻っていった。これでふたりきりだわ、こんなところで。


「どうした、中へ。火のそばへ来るがいい」

「……はい」


 返事をしたものの一歩が踏み出せない。そんな私を、ジーンが追い越して行った。そうだわ、この子がいてくれた、と、ほっとできたのは一瞬。バルバロスさまが目を細める。犬がいるのはご不快なのかしら。なにか、なにか先に言わなければ。


「侍女が」


 バルバロスさまの唇が動くより早くそう言うと、なぜかジーンが足を止めた。


「フラニードが身投げを」

「愚かな娘だ」


 不愉快そうに鼻に皺を寄せたバルバロスさまが、小さく顎を揺らし続きを促してきた。


「そのことでこれの持ち主を逆恨みし、犬に危害を加えんとする者がいるからと、魔術師が昨日私に預けていきました」


 魔術師。ラスティ。昨日の彼の無愛想な顔がちらつく。彼の魔力はまだいくらか体に残っていて、私を温めてくれていた。会いたい。


「そのようだな」

「ご存知でしたの?」


 非難しながら、頭の中のラスティの姿を消した。想っても辛くなるだけ。


「方々から報告を受けておる」


 なら、わざわざ説明させないで欲しい。言えない言葉を心で呟く。


「それを近寄らせるな」

「ジーン、そこでお待ち」


 私の声に振り返ったジーンに入り口脇を指さしてみせると、ジーンはすぐにその場所へ戻って腰を下ろした。


「賢い」

「はい。とても」


 こんな相手にでも、ジーンがほめられるのは嬉しかった。そうだわ、バルバロスさまがほめていたとあとで大袈裟に吹聴しておこう。司祭さまはますますこの子に手を出しにくくなるはず。


「なにを考えている?」

「えっ?」

「なんぞ企んでおる目をして」

「そんな」


 なんて目ざといのかしら。けれど誤魔化すのは得策ではない。


「あの、バルバロスさまが犬を大層ほめていらしたと、あとで言いふらそうと、そう考えておりました」


 口にすると私の小さな企みはなんとも馬鹿馬鹿しく幼いもので、手袋の中のてのひらがあっという間に汗ばんだ。

 気まずくて、たまらず視線を床に落とした私の耳に、信じられない音が聞こえた。ふ、と小さく、笑いを含んだ吐息の音。顔をあげると、バルバロスさまの口元には薄く笑みが浮かんでいる。


「そうするがいい。さあ姫、こちらへ。渡すものがあるのだ」

「は、はい」


 今日のバルバロスさまは機嫌よく見える。数日前に私と怒鳴りあったことなど、まるでなかったみたい。

 言われるまま、ゆっくりと足を進めた。

 機嫌の良さがかえって恐ろしかった。どこにこの男を激昂させるものが落ちているかわからないから。それに触れないまま、無事部屋を出られるのかしら。


「先日のことを謝罪させてくれ」

「えっ?」


 バルバロスさまの立っているところまであと数歩、というときに突然謝罪をされ、足が止まる。


「痕の残る傷はないか?」


 寝台から叩き落とし、つかんだ腕を焼いた相手にするにしては軽い謝罪。むしろ蒸し返されて恐怖心が蘇ってきてしまう。この部屋には、あのとき制止してくれたエーメはいない。


「は、はい。魔術師が治癒を」

「そうか。我々の式も近づいてきておる、つつがなく済まさねばならんからな」


 そこまで言われ、理解した。みなに疑問を抱かせるなというのね。お父さまや、賓客の方々。外から来て去っていく人間たちに。

 真意に気がついてじっと黙り込んだ私には、バルバロスさまは関心がないようだった。


「さて、そのためにもこれだ」


 つまらなそうに言って椅子の座面に手をのばしたバルバロスさまに差し出されたのは、小さな絹の袋だった。口を結んだ紐がバルバロスさまの指にひっかけられて私の前で揺れている。手には触れるなというのね。


「受け取れ」

「はい」


 バルバロスさまに近づくと、熱を感じた。暖炉の炎なのに、一瞬男の魔力かと錯覚した。じりじりと肌を焦がされる不快な熱。


 バルバロスさまの指に触れないよう慎重に袋を受け取ると、それは少し重かった。きっと貴金属だわ。約束の髪留めかしら、それにしては袋が小さい。


「中を見ても?」

「無論、そのために呼んだのだ」


 そっと口をあけ、手のひらの上に中身を落とした。ぽとぽと、と落ちてきたそれは指輪だった。指輪がふたつ。どちらも金の台座に翠玉が飾られていて、綺麗に磨かれている。


「婚約の指輪を無くしていると聞いた」

「お心遣い、感謝いたします……いつの間にか指から消え失せておりました」


 本当はあの夜に土塊になって崩れ落ちた。それはバルバロスさまもわかっておられるだろう。私たちはお互いそれ以上無くした指輪については、なにも語らなかった。

 

 用意された指輪はどちらも古めかしい意匠のものだったけれど、威厳がある。石も前のものより大きい。元々お持ちだったのかしら。

 疑問が顔に出ていたのか、バルバロスさまはふいに煩わしげな色を顔に浮かべた。


「妻たちの墓を開ければどこかに似たものが入っているだろうと思ってな、捜させた。気に入った方を人前に出るとき身につけておけ」

「副葬品を奪ったのですか?」


 信じられない。この男の妻になるというのはこういうことなのか。死んでなお軽んじられる。


「あれらにはもう必要のないものだ。残りは取っておけ、今後は浅ましい下女に奪われぬでないぞ」


 その女を思い上がらせたのはどこの誰だと思っているのか。


「亡き妻たちからの贈り物と思い受け取っておけ」


 “お借りするに留めます、早々にお返しできそうですので”


 浮かんだ当てつけの言葉はぐっと腹に飲み込んだ。ふたりきりの今、この人を怒らせるのは恐ろしい。ジーンがいても、私を守りに入れば斬って捨てられてしまうわ。この子を守るとラスティに約束したのだ。


「そういたします」


 震える手で指輪を握りしめ呟くと、バルバロスさまはふん、と詰まらなそうに鼻を鳴らした。


「可愛げのない娘だ」


 もっと喜んでみせなければいけなかったのだろうか、フラニードみたいに。そうしていたって最後には、城壁から落とされて浅ましい下女と呼ばれるのに。


「……ありがとうございます。まだご用がおありですか?」

「ある。それを読んで聞かせてくれるか」


 バルバロスさまが顎を動かし椅子の方を示した。椅子には本が一冊乗っている。英雄の叙事詩。


「王妃が息子の死を讃えるところを」

「はい」


 そっと近づいて本を取り上げると、バルバロスさまはすぐにどかっと椅子に座った。私は少し離れたところに腰をおろす。分厚い絨毯はよく乾いていた。

 この詩は知っている。昔、おじいさまにも頼まれて何度か読んでいるもの。

 ゆっくりと朗読をはじめると、目の端にうつるバルバロスさまがおじいさまのような気がしてくる。ここはシファードで、今の父の……おじいさまの部屋。心の底からそう思ってしまえればいいのに、さすがにそれは難しかった。現実は夢よりずっと色濃く重い。


 ここはガウディールで、この老いた男が私の婚約者。あと何日かすれば、私はこの男の持ち物になる。


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