第44話 魔術師塔の魔術師たち


「お目覚めください、イルメルサさま」


 フラニードに呼ばれ薄く目を開けた。閂を開ける音がして、冷たい風と薄明るい外の光が部屋に入ってくる。フラニードが鎧戸を開けたのだ。

 窓から入る光は頼りなげに青い。まだ夜が明けて間もないようだ。その光を背に、すでに身支度を整えたフラニードがこちらを振り返った。きっちりと結い上げられた彼女の銀の髪が、白く浮かび上がり光っている。まだ眠気の残る目でぼんやりとそれを眺めた。


「魔術師モルゴーが参りました」

「――早いわ……」


 呻いて上掛けを頭の上まで引き上げる。早すぎるわよ。確かに今日魔術師塔に行く約束はしたけれど。昨日、夕食の席でモルゴーが進み出てこの話をしたら、バルバロスさまは二つ返事で快く了解してくださったのだ。


「帰しますか?」


 昨日広間にラスティはいなかった。魔力の“ろか”というのは、昨夜のバルバロスさまとモルゴーの会話から考えると、半日はかかるみたいだったからそれだろう。だったら、今魔術師塔に行けば“ろか”を終えたラスティに会えるかもしれない。会いたいわ。ちゃんと手のひらが治っているのを見たいもの。


「イルメルサさま?」

「……起きるわ」


 上掛けを持ち上げて言う。冷たい空気が隙間から入り込んできて眠気を攫っていった。


「お湯を用意させていますから、今しばらくお待ちください」


 フラニードはそんな私にちらと視線を向けると、淡々と言って部屋を横切り出て行った。彼女の足音が遠ざかるを確認してから、のろのろと寝台に身を起こす。絡み合った髪が一房肩から胸に滑り落ちた。


 昨晩のうちに、寝台の中で魔力を癒やしの力に変えたり、光や氷の粒を生み出してみたりしてなんとか使い切ったけれど、時間がかかってしまった。

 いつもより遅く眠りについたのに、こんなに早くから呼ばれるなんて。頭がぼうっとする。魔力を失った体は昨日より重かったけれど、癒やしの力のおかげかいつもよりずっと気分は良かった。


 ◆◆◆


「暑いのね」


 首元の紐を解き肩から滑らせて脱いだマントに、フラニードが黙って手を伸ばしてくる。彼女に渡して奥に進んだ。初めて間近で見た魔術師塔は大きく、異質で、そして中は薄暗かった。鎧戸は全て閉められ、あちこちに魔力で浮かばせた光の球が浮かんでいた。暗くて暑い、それを一番に感じた。次に、知らない匂いに満ちているなと思った。


「あちらこちらで様々な研究をしております。魔力は力で、力とは熱なのです。さすれば……」

「講義は必要ないわ、私は魔術師ではないの」


 昨夜と変わらず饒舌に話しはじめたモルゴーを遮る。難しい話より面白そうなものがたくさん。ふしぎなからくり、昇っていく赤紫色の煙、かごの中の毛むくじゃらの細長い、白い小さな生き物たち。きょろきょろ辺りを見回しながら、止められないのをいいことに、魔術師たちの間を抜け通された階の中央に進み出た。

 塔は広く丸く、高い。壁に沿って幅の広い石造りの階段が螺旋状に上に延びている。手すりはなく、階段の途中とちゅうに作られた広い踊場が彼らの研究場所として使われていた。階段のあちこちに羊皮紙や石板が積みあげられている。

 ラスティの洞窟も雑然としていたけれど、ここも同じ。魔術師たちは皆似たり寄ったりなのかしら。


 壁や床には小さな色とりどりの魔石が埋め込まれ、鈍く光っている。視線を上向けると、高く高く天辺に円錐形の屋根があり、幾何学的な模様を浮かび上がらせるように、木の梁が幾本も渡されていた。梁は黒く艶やかで、そこに長い間あるのだと一目でわかる。


「上から物や人が落ちては来ない?」

「魔術で目に見えぬ網を張り巡らせております。蜘蛛の巣、と言った方が近いかもしれませぬな。ほら、ご覧になれますか、あそこにひとり」


 モルゴーの指差す先を見ると、階段から足を空中に踏み出して歩き、浮かんでいるとしか思えない魔術師がいた。


「足場があると聞いても恐ろしいわ。床を作ればいいのに」

「こうして過ごしておれば、他国へ魔力の誇示ができます。それに万が一の時には罠ともなります」

「罠?」

「はい。詳細はお話できませぬが。よろしいですか、ここではなににもお手を触れずに」

「指が吹き飛ぶ、でしょう。ここまで来る道すがら、三度は聞かされました」


 答えながら両手を胸の前で守るように組むと、モルゴーは小さく笑った。


「ふたつとない大切な御身、慎重なくらいでおよろしいかと……なにか気になるものは御座いますか? なければ上階にご覧にいれたいものが」

「登るのですか?」


 見上げてげんなりする。一番上まではとてもたどり着けそうにない。


「人を宙に浮かばせる魔術でもあればよいのですが。上と申しましても、ほんの中ほどまででございますから、さ、こちらへ」


 どこかうきうきとした足取りで先を歩くモルゴーを追って、仕方なく私も階段に足をかけた。中ほどといってもかなり距離がある。ラスティの魔力はすでに切れ、正直魔術師塔まで歩くのにも体力を使っていた。塔の中は魔力に満ちていて快適ではあったけれど、回復するほどでもなく。

 でも息を切らして階段を上る姿なんて見せたくはない。さっきからちらちらと、魔術師たちに盗み見られているのは気づいている。私に珍しい異国の生き物を見るたぐいの目を向けてから、魔術師たちは決まって背後に視線を向けた。フラニードを見るためだ。


 魔力に優れたものたちの集まるここで、侍女の前を惨めによろよろ歩く姿なんて、決してさらすものか。強く思いながら自然に右手を胸元に当てる。そうしてからやっと、ラスティの魔石を失ったのを思い出した。

 そうだ、庭で彼に請われるまま渡してそれきりだった。二度目にシファードを出てから、ずっとお守りみたいに思っていたのに。ないと思うと、急に心細い。


「そこに空の魔石が転がっております、お気をつけて。おっとここには、絶叫花の蕾。踏むと酷い音が響くのでご注意を」

「掃除を、きちんと、なさい。お前たち、魔術師ときたら……」


 モルゴーが年齢と気遣いを見せずすたすたと歩いて行くので、すぐに距離は開きはじめた。軽やかに進むモルゴーの憎らしい背中を目印に、足元に転がるいろいろなものを踏まないよう気をつけながら、背筋を伸ばしゆっくりと階段を登る。

 建物にして三階ぶんほど登っただろうか、足を止め、何げなく下を覗くふりをしながら休もうとした。というのに、その高さに目が眩んだ。魔力の網があるとは言っていたけれど、見えないのだからないのと同じだもの。

 そのとき突然、私の左手の指先に、なにか湿った熱いものが触れた。


「きゃ!」


 慌てて手を振り上げ短く叫ぶと、階段の縁から足を踏み外した感触があった。視界が揺れる。フラニードの小さな悲鳴が聞こえた。落ちる。いえ、落ちはしないのだった。でも、みっともなく倒れるわ。ああ、黒い生き物が。ジーン。舐めたのね私の指を……。

 不思議と頭の中は冷静で、流れる時間もゆっくりに感じられた。それが正常に戻ったのは、腕を誰かに強く掴まれ引かれてから。腕を引かれたあとは腰にも手が添えられて。触れられた場所に、熱く強い魔力を感じた。


「気をつけろ」


 すぐ近くで響く不機嫌そうな低い声。腰の手はすぐに離された。暗い赤のローブの胸元。見なくてもわかる。それでも顔を上げれば、やっぱり。錆色の髪に、赤銅色の瞳。ラスティ。会えた。


「あっ、あ、あなたの犬が驚かせるから」


 掴まれた腕をそのままに口を開くと、上擦った声が出た。心臓が、落ちかけた驚きと、ジーンとラスティに会えた嬉しさで早鐘のように鳴っている。


「誰の許しを得てここにいる」


 私の腕から離れて行く彼の右手を素早く確認した。彼の手のひら、きれいだわ。


「モルゴーよ。もちろんバルバロスさまにもお許しいただいているわ」


 言いながら、屈んで犬を撫でる。ラスティの火傷、治っていた。よかった。耳の間を強く撫でると、ジーンは嬉しそうに私の顎の下に鼻を差し込んでくる。


「やめてよ」


 やめてと言いながら、くすぐったくて笑ってしまった。


「助かった、魔術師ラスティ」

「呼び込んだなら責任を持って面倒を見ろ、モルゴー」


 階段を降りてくるモルゴーに、ラスティの厳しい声が飛ぶ。モルゴーの方が立場は上だと思うのに、本当にラスティは遠慮がない。面倒を見るって、そこまで役立たずではないわ。むっとするのと同時に、ぷ、と吹き出した笑う声がした。

 見ると、素知らぬ顔のフラニードが私からさっと視線を外す。そのフラニードの視線がラスティの方を向いたのに気が付いた瞬間、胸の中がざわめいた。見ないで。そのきれいな顔を彼に向けないでよ。


 ラスティもフラニードに目を奪われるのかしら。恐れる気持ちを抑えて立ち上がり、ラスティを盗み見た。でもラスティは、階段を降りてくるモルゴーを睨みつけている。


「昨日はこちらをご案内できると思えるほどお元気そうだったのだ」

「昨日のことなど知るか。部外者はいるだけでも邪魔だというのに、まともに階段も登れない女を放っておくな」


 ひどいわラスティ、なんて言い草。私との繋がりを怪しまれないためとは思うけれど、彼のことよ、少しは本音が混じっているに違いない。


「言葉が過ぎるぞ、バルバロスさまにも言われておったろう。力に相応しい振る舞いを心掛けんか」


 モルゴーの言葉に、ラスティの閉じた唇が少し歪んだ。“命令するな”と思っている顔ね。


「モルゴーもういいわ。さ、案内を続けて。一体どこへ連れて行こうというの? 犬も連れて行けて?」


 執拗に私の指の匂いを嗅ごうとしてくるジーンの首を撫でながら、数段上で立ち止まっているモルゴーに聞いた。というのに、返事は後ろからかえってきた。


「なにを勝手に、俺の犬だ」

「前は部屋に置かせてくれたでしょう。しばらく連れ歩くくらい……」

「申し訳ございませんがイルメルサさま、魔術師長のエーメは犬嫌いで」


 今度はラスティに話しかけたのに、モルゴーが答えてくる。一体どうなっているのよ。あっちを振り向き、こっちを振り返り、目が回りそう。


「魔術師長? これから彼に会うの?」


 ガウディールに来た最初の頃に挨拶を受けただけでまだ言葉を交わしたことのない、ガウディールの魔術師長エーメの姿を頭に思い浮かべた。確か、父と同じくらいの年齢の茶色の髪の魔術師。


「居られればですが。気まぐれな方でございますから」

「エーメは俺がこれから会う相手。濾過を終え次第来いと言われている。後にしてくれ」

「イルメルサさまをお待たせするわけにはいかん、控えよ」

「エーメと話さねば仕事に戻れん、時間が無駄になる。その女はいつも暇そうにしているだろうが、しばらく裏の池の鴨でも見せておけ」


 鴨は見たいけれど、この物言いでは従うわけにいかなくなる。言いすぎよラスティ、私にも矜持というものがある。私を間に挟んで口論しているふたりに向け、言った。


「おやめ。騒々しい」


 ぴたりとふたりの言い合いが止まる。怪訝そうな顔で私を見るふたりを順番に見て、最後にジーンの耳の後ろを掻いた。


「みなで行けばいいでしょう。この犬は賢いからそばで待てるわ、そうよねジーン?」


 問いかけると、ジーンは私を見上げくうんと鳴いてから、探るような目を主人のラスティに向けた。

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