第2話 故郷との別れ
二日などあっという間。まわりが慌ただしく準備を整えてくれるのを眺めているうちに、すぐに出立の日の朝が来た。
冷たい風の吹く曇り空の下、青い軍衣を着、シファードの盾を携えた四人の騎士が馬に乗りすでに表に控えている。うち一人はロインだ。荷を乗せた馬が二頭。ロインの従者の少年もいて、城の魔術師を一人乗せていた。
「今夜は騎士マルドゥムの館に泊まる手筈になっているからな。レイウッドの途中でガウディールからの迎えが待っている。それからガウディールの領地に……」
「あなた、何度その話をするのです」
長く複雑に一本に編んでもらった髪を首に巻き、毛皮を織り込んだ分厚い深緑色のマントを着込む。そうして馬上から両親を見下ろして二人の声を聞いていると、ふいに寂しさに襲われた。あわてて顔をあげ城を見たけれど、駄目だ。なにを見ても思い出深くて。窓からそっとこちらを見ている不作法な召使いたちの顔を見てすら泣きたくなる。
ガウディールの城でも、召使いたちはかしましくおしゃべりをしているのだろうか。簡単に召使いや家族を鞭打つ領主もいると聞く。バルバロスさまはどんな方だろう。少しは大切にしてもらえるだろうか。
「婚約式に立ち会えなくてすまない、イルメルサ」
「平気です」
父の声に視線を戻す。バルバロスさまにとっては四度目の結婚。行き遅れた娘との婚姻に手間をかけるのは面倒とばかり、様々なことが簡略化されている。
この年で、今更憧れが残っていたわけでもないけれど、まさか婚約式に親族がいないなんて。夫の親族に囲まれ一人ぽつんと立っている自分を想像したら、心細くて涙が滲んできた。
「婚姻の儀には私たちも行きますからね。王家からもどなたか参列してくださるそうよ」
「どなたか……ね」
小さくつぶやいた言葉が思いのほか非難がましく響き、とりつくろうように笑顔を浮かべた。
「輿入れの品も、婚姻に合わせて準備していますから、楽しみにしておいで」
「ありがとうございます、お母さま」
つまり今はなにもないと。
「おねえさま!」
と、気まずい空気を蹴散らしてくれるアリアルスの明るい声があたりに響いた。どこに行っていたのか、マントも着ずに転がるように走ってくる。その手には……革袋?
「はい、おねえさま。お水よ、魔力で出したの」
「まあ、ありがとう」
妹の差し出した袋を、手を伸ばして受け取って首から下げた。シファードの一族は水と氷の精霊の加護を受けている。水と氷の魔術を得意としていて、その魔力で作り出す水には不思議な癒やしの力があるのだ。妹アリアルスの作り出す水は特にその力が強く、ひと月近く腐敗することもない。
「頑張ったの。次に作れるようになるまで一週間はかかるわ、だからそれ、大切にしてね。貴重品よ」
「心強いわ、ありがとう」
「おねえさま……」
水色の目にいっぱい涙を溜めてこちらを見上げる妹を見たら、私の目からも涙がこぼれ落ちそうになった。風に吹かれてくしゃくしゃに絡まった妹の髪。次に撫でてあげられるのはいつになるだろう。
「さあっ、出発しなければね、明るいうちにマルドゥムさまの館まで行けなくなってしまう」
言って家族から視線を逸らし、城門の方を見た。坂を下った先、跳ね橋の向こうに道がのびている。手綱を取り、簡単に別れの挨拶をして馬を進ませた。
振り返ったのは、城を出てずいぶん進んでから。
遠く小さく見える、青い旗の翻る灰色の石造りの城。私の生まれ育った場所。両親と妹の暮らす城。いつか弟の帰ってくる城。
「ロイン」
「はい」
「みなを頼みます」
言って、城を眺めるのをやめた。思い切らなければ。再び馬を進めると、騎士たちが歩を合わせてついて来てくれた。しばらくなだらかな丘陵地が続く。まだ寒いのに、遠くの畑で領民たちが幾人も立ち働いている。首を伸ばしてこちらを見る者もいた。村の方では薄く細い煙が何本も空に登っている。パンを焼いているのだろうか、それとも鍛冶屋の煙だろうか。
揺れに合わせて、騎士たちの鎧や拍車がカチャカチャ音をたてていた。
ひゅう、と耳の横で風がうなるのを聞いて、マントのフードを被る。彼らは私を送る任務をどう思っているのかしら。そう思って、すぐ隣にいたまだ若い騎士に声をかけた。淡い緑色の髪をしている。きれいだわ。
「悪いわね、こんな時期に」
「い、いえ、光栄なことです」
うわずった、緊張した声がかえってきた。本心はわからない。途中、王領森に入らなければならない。魔物や獣が出るかもわからないのだ。
「ルベールお前、昨日は早起きが面倒くさいと愚痴っていたくせに」
「んなっ、ロインさま、それは!」
後ろからロインの声が飛んだ途端、緑の髪の騎士が顔を赤くして素っ頓狂な声をあげた。
「あら……そうだったの……それは申し訳なかったわね……」
「イルメルサさま、それは、その、私は朝が弱く、その決して選ばれたことが不満なのではなく!」
「今朝も一番遅かったよな来るのそういえば。そうか、嫌だったのか。俺は! 騎士として光栄に思っていますイルメルサさま!」
一番先頭の騎士が、前を見たまま大声をあげる。
「あらありがとう。お前、名前は?」
「アリンです!」
「覚えておくわ。お前も覚えましたよ、ルベール」
「はい……」
横を向いて声をかけると、かわいそうにこの若い騎士はすっかりしょげてしまっていた。冗談がすぎたわ。
「冗談よ。みなに感謝しています。明日までだけれど、頼むわね」
「はい」
ルベールに少しだけ馬を近づけ、顔を覗き込んで笑顔を見せると、若い騎士はほっとしたように表情を緩めた。
「ねえロイン」
「はい」
「バルバロスさまにお会いしたことがあって?」
そう聞くと、なんとなく場に緊張が走った。ロイン以外の五人も耳をそばだてている気配を感じる。
「何度か離れて見た程度です」
「どんな方だと?」
「そうですね。北の蛮族の侵入を幾度も食い止めた、火の精霊に愛された勇猛果敢な戦士だ、と聞いておりましたが、その面影がいまでも……」
言葉を探して言葉に詰まるロインに代わって言う。
「気性の激しい方かしら」
「そう……ですね。厳しい方だという噂は耳にしています」
嘘のつけないロインに、内心少し腹が立った。自分で聞いておいて、勝手だとは思うけれども。黙り込んだ私に何かを感じたのか、今まで口を聞かなかった騎士のひとりが突然話し出す。
「ガウディールのバルバロスさまといえば、お若い頃は大変な美丈夫で、数多くの女性が彼に心を奪われたそうです。祭の時にお見かけしたことがありますが、領民の子を抱き上げて豪快に笑っておいででしたよ」
顔をおおう兜をつけているので顔は見えないけれど、私を気遣う優しい響きの声がそう語った。
「そう、ありがとう」
今聞いた話を、到着までのよりどころにしておこう。そう思って、その騎士の言葉をそっと心にしまった。
「イルメルサさま、お疲れではありませんか?」
しばらく進み、荒れた街道に出た時、突然女性の声がして驚いた。振り返って、声を発した魔術師を見る。従者の後ろに乗っているので姿は見えない。彼女の羽織る白いマントだけがちらちらと馬の横からのぞき揺れていた。
おどろいた、女魔術師だったのね。城に一人いるとは聞いていたけれど。
「ありがとう私は大丈夫です、アリアルスが水を持たせてくれましたから。あなたの力はみなや馬の疲れを癒やすためだけに使ってちょうだい」
そう答えたものの、本当は少し疲れていた。馬から降りて休みたい。首から下げた革袋をあけアリアルスの水を口にしたい。けれど、自分の体力のなさのせいで一行の歩みを止めたくなかった。
ただでさえ、私のせいでこんな時期に城を離れさせているというのに。先を臨むと、はるか遠くに濃く黒い森が横たわっているのが見えた。王領森レイウッド。その先には雪をいただいた山脈。ガウディールはあの山の麓にある。
長い冬は終わりに近づいていた。眠っていた飢えた獣や魔物が目を覚まし始める頃だ。無事に森を越えられる保証はない。
「イルメルサさま、馬に草を食べさせたいので、先の原で小休憩を取ります」
なので、ロインがそう言ってくれた時にはほっとした。騎士たちに囲まれ街道から外れ、ロインの手を借りて馬を降りた。
ロインは私の手を取るのを慣れているとわかっていても、触れる瞬間は緊張する。触れられると、魔力がないことが嫌でも相手に伝わるから。
小さな頃は、なぜ触れた相手に手をはねのけられたり、嫌悪感を露わにされたり、良くてもひどく驚かれるのかわからなくて何度も傷ついたものだった。今では、構えずに触れ合えるのは妹アリアルスと弟ラウルくらい。
「たくさん食べさせるの?」
「いえ、ゲインさまの魔力を蓄えた飼料と、魔術師の癒やしの力も与えますので、量はさほど必要ありません」
「そう、お父さまの魔力を……」
「イルメルサさま、こちらに」
ロインと話していたら、従者の少年が声をかけてきた。座れるように布を敷いてくれてある。しばらく揺れない場所に座れるわね。
「ありがとう」
布に座るとあたたかかい。ほっと息をついて、革袋の口の栓を抜き、アリアルスの水をひとくち飲んだ。冷たい水なのに、心地よく喉を通る。それが血に流れて巡りながら体を静め、癒してくれた。
まだ先は長い、この水が助けになるだろう、アリアルスありがとう。
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