番外編

朝霧の森を駆ける

 朝鶏の鳴き声を耳にして、夜が明けたことを知った。

 温かい毛布から抜け出して、壁に掛けてあったいつもの服に着替えると、わたしは自室をあとにした。

 玄関の脇においてあった木製のバケツを手に、まだ薄暗い道を駆けていく。

 里の端に位置する、峡谷を望める切り立った崖。そのところどころ出っ張った岩を階段代わりにひょいひょいと降り、わたしは渓流の水をバケツですくい上げた。

 冷え切った水に満たされたバケツを確認してひとり頷いたあと、川岸を通り抜けて、崖の上へと続く坂道を登った。

 森の樹々が紅く色付くこの季節は、水汲みを終えてこの坂を登る頃に、ちょうど朝陽が昇る。

 今日も計算通りの時刻に、あの場所へ行けるはず。

 膨らむ期待とともに、自然と歩調が速まった。


 坂道を登ると、崖の上にひっそりと建てられた小さな小屋が目に入った。

 峡谷に面した壁の窓辺に彼の姿を見つけ、わたしは足を止めた。

 窓際の椅子に腰を掛け、ぺらぺらと本のページをめくる、彼の名前はゼノ。

 峡谷から吹き込む冷たい風に揺れる髪は夜の空を連想させる闇の色。本に書かれた文字を追う紅玉のような瞳は、初めて視線を交わしたときから、わたしの心を捕らえて放さない。

 彼は毎朝同じ時間に、こうして自室の窓を開け、本を読み耽っていた。

 

 わたしが彼の姿を目にすることができるのは、早朝のこの場所で、この時間だけのことだった。

 同じ里で暮らしているにも関らず、彼は人前に姿を現さないから。

 理由はわかっている。

 その昔、里の人々が彼を、彼の家族を排斥したからだ。

 彼の一族が蔑まれる理由も考えずに、里の子供たちはまだ子供だった彼を一方的に攻撃したのだ。

 わたしも同罪だった。

 あんな仕打ちはいけないことだとわかっていたのに、皆を止められなかった。ただ見ていることしかできなかった。

 やがて里長の仲裁もあって里の大人たちが謝罪し、彼の家族は和解を示した。でも、子供だった彼は心に深い傷を負ってしまったのだと思う。

 彼が心を開いた相手はたったひとり――三十年前に里から姿を消した彼の友人イシュナードだけだった。


 昔のことを思い出し、いつもより長く立ち止まってしまった所為かもしれない。

 本のページに視線を落としていた彼が、ふと、窓の外に目を向けた。

 わたしは慌てて身を翻し、里へと続く緩やかな坂道を駆け出した。


 ――どうか、彼に気付かれていませんように。


 振り返ることもできずに、わたしはただ、そう願った。



***



 その日、それまで誰に勧められても成人の儀の資格を得ようとしなかったイシュナードが、突然その資格を得た。

 あまりにも不自然なその行動に少なからず疑念を抱いたわたしは、家路についたイシュナードのあとを追いかけた。

 両脇に草が生い茂る細道の途中、イシュナードはわたしを待っていたかのように、ひとり佇んでいた。


「やあ、マリア。どうかしたの?」


 余裕たっぷりに微笑んで、イシュナードはわたしに向き直った。

 小刻みに息を切らしながら、わたしは疑問を口にした。


「どうして、成人する気になったの……?」

「どうして、って……」


 イシュナードはポカンと間の抜けた表情を見せたあと、悪びれるわけでもなく答えた。


「……ゼノを説得できたから」


 最初は、その言葉の意味がわからなかった。

 混乱して頭を抱えそうになるわたしを尻目に、イシュナードは自慢げにそれまでの経緯を語り出した。

 元々、イシュナードは里の外の世界に興味津々だったらしい。

 彼の友人――ゼノが丘の上で読んでいたのは祖父から譲り受けた外の世界の本で、はじめ、イシュナードは本を読みたいがために彼に近付いた。けれども、すぐに本だけの知識では物足りなくなり、彼は実際に外の世界に行ってみたいと思うようになった。

 異種族との交流を禁じるこの里で、里の外に出られる許可を得られるのは一部の成人男性だけで、イシュナードひとりでは上手い口実を作れない。

 そこでイシュナードは外の世界に興味を持っていたゼノを唆し、ふたりで里を出る計画を立てたのだ。


「まず手始めに、な僕が成人して結界から出る許可を得る。その裏で、あまり期待されてないゼノには無能を演じてもらう。あとは、成人の儀の資格を得られないゼノの狩りに僕が付き添うってかたちで、長期間、里を留守にする建て前を作って……」

「そんなの、きみに都合が良いだけじゃないか。彼を巻き込むのはやめなよ!」


 得意げに語るイシュナードに、わたしはつい、声を荒げて噛み付いた。

 里長の一族であるイシュナードと過去に蔑まれてきた一族のゼノとでは、里での立場も全く違う。イシュナードなら厳重注意で済まされることでも、ゼノが同じように許されるとは限らないはずだ。

 けれど、イシュナードはわたしの言葉なんて気にも留めていないようだった。


「巻き込んでなんかいないよ。ゼノだって外の世界に興味があるんだ。なんならマリア、きみがゼノを止めてみれば良い」


 そう言って、わたしの頭をくしゃくしゃと撫でた。

 わたしはそれ以上、何も言えなかった。

 言い合いになったらイシュナードには絶対に勝てないし、そもそもわたしはゼノと仲が良いわけでもない。わたしが彼の心配をしたところで、彼がわたしの忠告を聞き入れることはないだろう。

 里長や大人達に告げ口をして引き止めることはできるけど、それで嫌な目に合うのは闇色の一族のゼノだけだ。

 わずかな沈黙のあと、無言で俯くだけのわたしにイシュナードが優しく言った。


「一緒に行きたい?」


 悪魔の囁きに似たその言葉に、わたしは勢い良く顔を上げた。


「そんなこと、できるわけない!『外』とは関わっちゃいけないって、それが里の掟じゃないか」


 掟を破った者がどうなるのかはわからないけど、わたしたちは子供の頃からずっと、掟を守るようにと言い聞かされてきた。

 この里で暮らす以上、掟は絶対のもので、外界との接触が禁じられていることにだって意味があるはずだ。

 けれど、イシュナードの考えは違っていた。

 彼は突然、強引にわたしの身体を抱き寄せると、ひそひそと耳元で囁いた。


「掟が気になるなら、里長を継ぐ僕の伴侶になれば良い。そうすれば、何も咎められなくなる」


 わたしは耳を疑った。

 共犯者になるために夫婦になるだなんて、冗談がきつすぎる。

 そのときのわたしはすでに成人の儀を終えていて、里の若い男の人から何度か求婚もされていた。その中でもイシュナードのこの求婚は一際馬鹿げていて、わたしは彼を勢いよく突き放すと、振り返りもせず足早にその場をあとにした。



***



 幾らか季節が巡って、陽の短い季節になった。

 木の葉がひしめく森の小径を、わたしは父と兄に付き添われて歩いていた。イシュナードに婚姻を申し込むために、だ。

 里で唯一の年頃の娘だったわたしにとって、婚姻とは里の将来を担う優秀な男の血を遺すためのものだった。

 わたしの前ではあんなだけど、イシュナードは里の若い男のなかでは最も優秀で、皆の期待を一身に背負っていた。

 彼こそがわたしの婚姻相手に相応しい、選ばれるべき存在だと、里の誰もが考えていたと思う。

 だから、わたしは――、それなのに。



「ごめん。その申し出は受け入れられないよ」


 いつもよりも少し緊張して婚姻を申し込んだわたしに、イシュナードは言った。後方に控えていた父と兄が驚いたのが、振り向かなくてもわかった。

 状況を理解できずに思考を空回りさせるわたしに向かって、イシュナードは今までにないほど優しい口調で尋ねた。


「本当に、きみは僕のことが好きなのかな。僕はきみが大好きだから、僕の一生をきみに捧げてもいいけど。でも、きみが本当に好きなのは……」


 わたしはただ、イシュナードの口から紡がれる言葉に耳を傾けることしかできなかった。 

 呆然とするわたしの瞳を愛おしむように見つめて、彼は続けた。


「きみの瞳がいつも追いかけているのは、僕じゃなくて、ゼノだろう?」


 イシュナードの口から発せられたその名前に、わたしはびくりと肩を震わせた。

 まさか、イシュナードの口から彼の名前を告げられるとは思ってもみなかったから。


「……なにを根拠に? わたしは、彼と一度も口をきいたことすらないのに」


 やっとの思いで口にした。その声が微かに震えているのが自分でもわかった。 


 だって、彼――ゼノとは何の接点もなかった。

 里と森を繋ぐ道を見下ろすあの丘で、本を読み耽る彼をみかけた。

 それが気になって、森を行き来するたびにその姿を探してしまいはしたけれど、稀に目が合ったことだってあったけれど、そんなときだって、彼はつまらなそうに本のページに視線を落とすだけだった。

 まるで、わたしの姿なんて、その目に映っていないかのように。

 常に異性から好意を寄せられていたのに、よりにも寄って、全くわたしのことを見ていない彼のことを好きだなんて。


「そんなわけ、ないよ」


 わたしは俯いて、吐き捨てるように言った。


「そう……、でも考えてごらん。今のままでは、僕のすべてをきみに捧げることはできないよ」


 優しい瞳だった。けれど毅然とした態度で、イシュナードはわたしを突き放した。



***



「冗談じゃ済まないぞ。絶対にあってはならんからな。よりにもよって、あの闇色の一族の小僧など……!」


 帰り道、父が声を荒げて言った。

 父も兄も、他の家族も、わたしを取り巻く里の人々は皆、彼をつまはじきものにする。そんな彼らの中心にいるわたしも、きっと彼の目には同じような存在として映っているのだろう。だから目を合わせても、見えていないふりをするのだ。


 イシュナードには申し訳ないことをしてしまった。無意識に、彼を利用してしまっていた。

 イシュナードに指摘されて、初めてわたしは自分の本当の気持ちに気が付いた。

 子供の頃から、わたしはイシュナードの側を駆け回っていた。でもそれは、イシュナードがいつもゼノと一緒に居たからだったのだろう。この闇色のペンダントを欲しがったときだって、わたしはゼノのことを想っていたに違いない。


 森の小径を降りながら、耳元で揺れるペンダントに、わたしはそっと指先で触れた。

 茫然と空を見上げると、樹々の合間をゆっくりと流れていく雲が見えた。



「待って!」


 唐突に声が響いた。

 声の主の姿なんて、ほんの少しも見えなかったはずなのに。直接話をしたことなど、一度もない相手のはずなのに。その声が誰のものなのか、わたしにはすぐに判ってしまった。

 振り返ったわたしの前に、父と兄が立ち塞がる。ふたりの肩越しに、夜の空を思わせる闇色の髪が見えた。


 ――ゼノ。


 心臓が跳ね上がるように、どくん、と大きく胸を打った。


「違うんだ。イシュナードがきみの申し出を断ったの は、理由があるんだよ」


 立ち塞がるふたりに構うことなく、彼は真っ直ぐにわたしを見据えて言った。

 彼の呼吸は僅かに弾んでいて、わたしを走って追ってきたことが容易に想像できた。


「マリア、先に行きなさい」


 振り向かずに、低い声で父が告げた。有無を言わせぬ強い口調だった。

 でも、わたしは父の気迫に圧されはしても、その場から離れようとは微塵も思わなかった。足が勝手に、ゼノの元へと向かっていた。父と兄のあいだを擦り抜けて、わたしは引き寄せられるように坂道を登った。


「マリア!」


 父の制止にも構うことなく、一歩一歩、歩みを進める。

 いつも伏し目がちの紅い瞳を見開いて、驚いたようにわたしを見つめるゼノの顔が、なんだか可笑しかった。


「父さんも兄さんも、先に帰って。わたしは彼の話が聞きたい」


 父と兄を振り返って、わたしは告げた。

 その言葉を口にしたとき、自分が一体どんな表情をしていたのかはわからない。

 けれど、呆然として動きを止めた父と兄が黙ってその場を去っていったのだから、それまでの父や家族に従順だったわたしとは何かが違っていたのだと思う。

 ふたりきりになった森の小径で、わたしは彼に笑いかけた。


「話を、聞かせてくれる?」



 その日、わたしははじめて、長いあいだ想い焦がれたその人と、言葉を交わした。



***



 雨のように木漏れ日が射す森の中、彼の背中を追って歩いた。

 驚きとも怒りとも言えない表情でわたしを見ていた父と兄の顔が、時折り脳裏をよぎっては消えた。

 それでも、迷うことなく先を行く彼の背中を追い掛けるだけで、わたしは今まで感じたことのない晴れやかな気持ちになっていた。


 生い繁る草を掻き分けて進んだその先に、わずかに樹々が拓けた空き地があった。

 中央に転がる横倒しになった丸太の前で立ち止まると、彼はわたしを振り返り、何度かわたしと丸太のあいだで視線を行き来させた。わたしは首を傾げて、しばらく棒立ちになっていた。

 やがて彼は困ったように表情を曇らせて、丸太の端に腰を下ろした。


「……座らない?」


 彼に促されて、ようやくわたしは彼の行動の意図を察した。

 いつもなら、たとえ彼が相手でも、気兼ねすることなくさっさと隣に座っていたと思う。

 でも、先ほどイシュナードに指摘されて自分の気持ちに気がついたばかりで、わたしは完全に彼のことを意識してしまっていて、不自然に距離を置いて丸太に腰を下ろすことしかできなかった。

 そんなわたしの様子から、わたしが彼のことを警戒していると思ったのだと思う。

 

「怖がらせてごめん。……でも、他の誰かに俺とふたりで話してるところを見られたら、きっと変な噂がたつから」


 そう前置きして、彼は淡々と話しはじめた。


 その内容は、イシュナードの口から語られたものとはまるで別のものだった。

 一方的に抱いている好意を知られ、突き放されるものだとばかり思っていたわたしは、少し拍子抜けしてしまったけれど。

 イシュナードが彼に語った夢を、里の者に知られたらどんな仕打ちを受けるかもわからない秘密を、彼はわたしに正直に打ち明けてくれた。

 どうしてそんな秘密を教えてくれるのかと尋ねるわたしに、彼は言った。


「きみに落ち度があるわけじゃないことを、伝えたかったから」

「……きみは優しいね」


 呟いて、わたしはようやく肩のちからを抜いた。

 直前の状況から考えて、彼はわたしとイシュナードのやり取りを聞いていてもおかしくないと思っていた。

 保身のためにイシュナードに求婚して断られたわたしに好かれているなんて、イシュナードの友人である彼にとっては不愉快極まりないことに違いなくて。イシュナードがそうしたように、彼もまた、わたしを拒絶するのではないかと思っていた。

 でも、どうやら彼は、わたしとイシュナードのやり取りを聞いたわけではなく、わたしが去ったあとイシュナードに話を聞いただけのようだった。

 わたしは俯いて、彼にイシュナードを婚姻相手に選んだ理由を打ち明けた。

 そのすべてに嘘はなかったけれど、本当の気持ちだけは伝えることができなかった。

 ただ胸の奥で、同じ言葉を何度も反芻していた。


 ――きみのことが、好きだよ。



 彼と眼を合わせることが、わたしにはできなかった。視線を交えてしまえば、気持ちが伝わってしまいそうで。

 彼は必要最低限のことしか話さなかったけれど、その言葉の節々からは、不器用な優しさが伝わってきた。

 いつも一人で丘の上に座っていた彼の姿を思い出して、元々口下手なんだろうなと、わたしは思った。


 彼の話が終わって、空き地に沈黙がおりた。

 わたしに気を遣ったのか、彼はその後もしばらく黙って側にいてくれた。


 森の樹々がかさかさと音を立てていた。風が吹いて、木の葉がひらひらと目の前を横切り、彼の足元へ静かに舞い落ちた。自然と視線が木の葉を追っていた。それは彼も同じだったようで、顔を上げた彼と目が合った。

 促されるように、わたしは精一杯の想いを口にした。


「きみの髪は、安息をもたらす夜の闇のように優しい色だね。わたしは好きだよ」



***



 その年の収穫祭で、わたしは例年どおり祝祭の舞を踊った。

 毎年、豊穣の女神様への祈りをこめて踊り続けてきた舞だったけれど、その年は少しだけ気持ちの在り処が違っていた。


 はじめて自覚した淡い恋心が愛しい彼に届くように。

 願いを込めて、わたしは精一杯舞い踊った。

 

 けれど、祭りの会場に彼が現れることはなかった。



***



 雪溶けの季節になった。

 イシュナードに求婚を断られて以来、わたしは花嫁修行と称して、料理や裁縫、家畜の世話から子育てまで、いろいろなことを母に教わる日々を送っていた。

 里のみんなは、わたしとイシュナードのことについて薄々気付いていたようで、たびたび若い男性がわたしの元を訪れた。


 そんなある日、わたしは父に呼び出された。

 ちょうど部屋で刺繍の練習をしていたときのことだった。


「お前、まさかあの小僧が来るのを待っているわけじゃないだろうな」


 新しい婚姻相手を決めようとしないわたしに痺れを切らしたのか、責めるように父が言い放った。

 あの日、わたしが父の意向に逆らってゼノの話を聞いたことを理由に、父はわたしと彼の関係を疑っていた。


「そんなんじゃない。イシュナードに断られたからって、すぐに次の相手を決められないだけだよ」


 誤解と怒りの矛先がゼノに向けられないように、わたしは即座に父の言葉を否定した。

 あの日から、わたしは一度もゼノと会っていない。以前のように、森へと続くあの道で目を合わせることすらしていなかった。


 収穫祭の夜、彼は祭りの席に現れなかったから。

 わたしがイシュナードに振られたと知ってからも、彼は成人の儀の資格を得ようとしなかったから。

 彼の気持ちは、ひとかけらもわたしに向けられていないことを理解した。


 あの日、彼がわたしを追ってきたのは、彼の優しさ故のことで。その優しさが残酷に思えた。

 もし父が言うように、彼が成人し、求婚しに訪れていたら、きっとわたしは周囲のことなんか目もくれずに申し出を受けたと思う。

 でも、そんなことは、絶対にあり得なくて。


「イシュナードのこと、まだ諦めてないんだ。そのために花嫁修行だって頑張ってるんだから」


 険しい表情でわたしを見下ろす父に、刺繍を施した布地を差し出して、わたしは言った。

 

「大丈夫、ちゃんと理解してるよ。この里で幸せになろうと思うなら、婚姻相手はイシュナードしかいない。だから、認めてもらえるように頑張るよ」


 それは本心だった。

 想う相手に想われることは、そう簡単ではないことを知ってしまったから。

 ならばせめて、添い遂げる相手は彼を傷つけない人であって欲しい。


 わたしは、そう願った。



***



 外界の視察に出ていたイシュナードが忽然と姿を消したのは、それからすぐのことだった。 同行していた者を問いただしても、その消息は全く掴めなかった。

 里のみんながイシュナードの奇行に考えを巡らせるなかで、わたしはふと思った。

 あのときのゼノの言葉は間違いではなかったのだと。


 イシュナードが去ったあと、しばらくは慌ただしい毎日が続いた。けれど、里のみんなが落ち着きを取り戻すのに、そう時間はかからなかった。


 誰もが相変わらずだった。

 この里の人々は、変化を望まない。

 まるで、時の流れに身を任せて、緩やかに滅びゆくことを受け入れているかのように。

 そしてそれは、わたしも同じだった。


 イシュナードがいなくなってから変わったことといえば、わたしの暮らしに新しい日課が加わったことだ。


 わたしは子供のころから、毎朝、川に水を汲みに行っていた。だから、里の外れの川の近くで闇色の鱗の一族が暮らしていることも知っていた。


 ある日、水汲みの帰りに彼の家の前を横切ってみた。

 特に期待はしていなかった。本当になんとなく。彼の家を近くで見てみようと思ったのだ。

 だから、あれは本当に、わたしにとっては奇跡のようなものだった。


 目の前の部屋の窓辺に人影があった。

 それが誰のものか気がついて、わたしは慌ててその場から逃げ出した。

 わたしの存在に気付くことなく、彼は静かに本を読んでいた。

 それは毎朝の、彼の日課のようだった。


 それからというもの、わたしは毎朝、水汲みの帰りに本を読む彼の姿を探すようになった。

 気付かれないように、遠くから彼を眺めるだけ。

 声を掛けるなんてできなかった。そんな勇気は何処にもない。

 ただ、彼の姿を目にするだけで、その一日が幸せなものになる気がして。

 代わり映えのない毎日でも、ほんの少し楽しく思えるようになった。



***



 少し肌寒い朝だった。

 いつものように水汲みを終え、彼の家へ向かったわたしは、窓辺を見て足を止めた。


 彼の姿が窓辺になかった。

 こんなこともたまにはある。そう思ったけれど、次の日も見当たらなくて。

 思い切って、彼の母親にそのことを尋ねた。


 彼の母親は憔悴した様子で、わたしに小さな紙切れを差し出した。

 紙に綴られた文字列を読んで、わたしは弾かれるようにその場から駆け出した。

 家に戻り、狩りに出るときと同じように素早く身支度を整えて、森に向かった。



 ――イシュナードを捜すため、里を降ります。


 手紙にはそう書かれていた。

 彼は里の外に出たのだ。


 それは、わたしが最も恐れていたことだった。

 イシュナードを追って外の世界に出た彼は、この里に帰ってくるだろうか。

 彼を孤立させ続けたこの里に帰ってくる理由が、彼にはあるだろうか。

 

 いいや、彼はきっと帰ってこない。もう二度と、彼には会えない。



「そんなの嫌だ!」


 誰にともなく、わたしは声を張り上げた。

 いつかイシュナードが言っていた。一緒に外の世界に行かないか、と。

 今がそのときだ。



 記憶を辿り、イシュナードに教わった結界の抜け道を思い出しながら、森の小径を駆けた。

 わたしは今、里の掟を破り、禁じられた行為に手を染めている。

 それなのに、不思議と身体が、心が軽かった。


 里の皆の期待に応え、ずっと正しい・・・行いを心掛けてきた。

 里の大人たちが決めた厳しい掟を守り、自分の気持ちから目を逸らし続けてきた。


 でも今は、わたしを縛るものは何もない。



 朝霧に覆われた森を抜け、まだ見ぬ外の世界に期待に胸を膨らませる。

 大切な、大好きな、恋い焦がれた彼の元へ、いつか辿りつけると信じて。



 ――わたしは、旅に出る。


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滅びゆく竜の物語 柴咲もも @momo_4839

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