月明かりの街で

 追っ手に気付かれぬよう慎重に茂みを掻き分けて、少年は夜の森を進んだ。度々後方を振り返り、後をついてくる少女の様子を確認しながら。


 森の中を逃げ惑う少女を少年が見つけ、行動を共にしてからかなりの時間が経過していた。だが、少年と少女は一言も言葉を交わしていない。森のあちこちに追っ手が身を潜め、今も少女を捜しているからだ。

 夕闇に覆われていた森は、既に夜の闇に呑まれ、頭上を埋め尽くす木の葉の隙間から、月明かりが雨のように降り注いでいた。

 少年と少女は迂回に迂回を重ね、ようやく森の終わりへと辿り着いた。樹々の切れ目の向こう、平坦な剥き出しの地面のその先に、巨大な穴が見えた。月の光が届かない深い闇を湛えるその穴の向こうに、人間の街が静かに佇んでいる。

 息を呑み、茂みから顔を出して、少年は周囲を窺った。巨大な穴の周りに人影は見当たらない。追っ手はまだ森の中のようだ。

 一度森を出てしまえば、追っ手の目から身を隠すものは一切なくなる。あの人間の街に辿り着くまで、少年と少女は完全に無防備になってしまう。森に身を潜める追っ手が飛び道具を持っていれば、たちまち狙い撃ちにされかねない。

 だが、その危険性を理解していても、少年と少女に選択肢の余地はなかった。家族も仲間も殺され、帰る家もなくなった少年と少女が追っ手から逃れて平和に暮らせる場所など、おそらくもう、この世界にありはしないのだから。

 少年の村を襲撃した殺戮者は、おそらく人間だろう。村の大人達が以前から噂していた盗賊なのか、全く別の集団なのか、それすらもわからない。

 いずれにせよ、少年にとって人間は信用ならない存在になっていた。


 ――でも、あの二人なら……。


 深々と息を吐いて意を決すると、少年は少女の手を引き、月明かりの下へと飛び出した。



***



「アラン、大丈夫かな……」


 窓越しに蒼く輝く月を見上げ、マリアンルージュがぽつりと呟いた。

 部屋の入り口を塞ぐように扉の前に立ち尽くしていたゼノは、窓辺に寄りかかるマリアンルージュに目を向けた。

 昼間のいざこざのあと、なんとか立ち上がれるようになったアランは、心配するマリアンルージュを振り切って、ふらふらとした足取りで店を出て行った。それきり、夕食時になっても店に顔を出さなかった。

 アランはマリアンルージュに会うために、昼も夜も欠かさず食事を取りに店に訪れていた。そのアランが急に姿を見せなくなったのだから、マリアンルージュが心配するのも無理はないだろう。

 けれど、ゼノは特に心配する必要はないと思っていた。昼間の会話から、なんとなく今のアランの心境が想像できてしまったからだ。


 ――惚れた相手の目の前で一発殴られて倒れるなんて、俺だったら恥ずかしくて二度と顔を合わせられねぇ。


 ゼノに謝罪したとき、アランは確かにそう言っていた。マリアンルージュの目の前で醜態を晒したことを気にして自宅に閉じ籠っていても、なんら不思議ではない。


「まぁ、彼は喧嘩慣れしているようですから大丈夫でしょう。情けない姿を貴女に見られてしまって、恥ずかしくて店に来られないだけだと思いますよ」


 少し意地が悪いかと思いつつも、昨日の仕返しも込めて、ゼノがアランの現況を代弁してみせると、マリアンルージュは「そういうものかな?」と小首を傾げた。

 納得はしていないようだが、心配したところで何か状況が変わるわけでもないと思ったのだろう。マリアンルージュはそれ以上、アランの話はしなかった。

 正直ゼノも、この際アランのことはどうでも良いと思っていた。今のゼノには、もっと別の問題があったからだ。


「そんなことより、今のこの状況、もっと大きな問題があると思いませんか?」

「……何が?」


 ゼノが問題を提起すると、マリアンルージュはきょとんとしてゼノに訊き返した。

 眉間に皺を寄せ、ぐっと言葉を飲み込んで、ゼノはマリアンルージュを促すように、無言で部屋の中を見回してみせた。

『羊の安らぎ亭』の客室は全て二人部屋だ。今、ふたりが居るこの部屋は、ここで働くことが決まった際にマリアンルージュに貸し与えられた部屋であり、他の客室と同様に、二人掛けのソファが一脚とベッドが二つ置かれている。


「暖炉も灯りも付いてるし、ベッドは二つあるし、何も問題ないと思うけど?」


 一通り部屋の中を確認したマリアンルージュが、話が見えないと言いたげに首を傾げる。できれば察して欲しかったと思いつつ、ゼノは本題を口にした。


「そうではなくて、俺と貴女が同じ部屋に寝るのはおかしくないかと言っているんです」

「仕方ないじゃないか。急な団体客で客室が足りなかったわけだし、私達は住み込みってことで宿賃をおまけしてもらってる身なんだから……」


 ゼノの言葉がよほど予想外のものだったのか、マリアンルージュは驚いたように目を瞬かせると、拗ねた子供のように呟いた。


 昼間、突然訪れたレジオルド憲兵隊。

 その隊長であるジュリアーノは、この『羊の安らぎ亭』で宿をとることを、半ば強制的に決定した。

 おかげでゼノが皮を剥きすぎたポタモが役に立ったわけだが、食事はともかく、どう考えても部屋の数が客数に足りていなかった。ヴァネッサの指示のもと、ゼノとマリアンルージュが夕刻までかけて、使われていない客室を全て使用可能な状態にしたけれど、それでも客室は足りなかった。

 結果として、ゼノが使っていた部屋も清掃し、客室に回すことになってしまったのだ。


「だからって、こんな……」


 言い淀みつつ、ゼノは再び室内を見回した。

 二つ並べて置かれたベッドの間には、人が一人通れる程度の間隔がある。けれど、それは周囲が寝静まった深夜になれば充分に寝息が聞こえる距離であり、手を伸ばせば触れられる、そんな距離にも思えた。


「……貴女は嫌じゃないんですか?」

「嫌って?」

「俺と同室に泊まるんですよ?」


 ゼノが躊躇いがちに尋ねると、マリアンルージュは呆れたと言いたげに肩を竦めてみせた。


「なにを今更……、今迄だって散々隣で寝てたくせに」


 そう言ってくすりと笑うと、マリアンルージュは窓辺を離れ、扉の前のゼノに歩み寄った。


「きみと同室でも、わたしは全然構わないよ」


 にっこりと微笑んだマリアンルージュの表情からは、一切の警戒心も感じられない。


 確かに、オルランドの部隊と別れて二人旅をはじめてからの数日間、ゼノとマリアンルージュは毎晩すぐ傍で眠っていた。今更なのかもしれないと、ゼノも考えはした。

 だが、見張りの必要があり、周囲を警戒しながら火の番をする森の夜と、慣れない土地とはいえ無闇に警戒する必要のない宿屋での夜とでは、その意識もまた変わってくる。いままで考えもしなかった如何わしいことを考えてしまったとしても、なんらおかしくはないはずだ。ゼノもマリアンルージュも子供ではないのだから。


 居た堪れない気分で視線を落としたゼノの目に、マリアンルージュの身体が映る。

 仕事を終え、ヴァネッサに勧められるままに湯浴みを終えたマリアンルージュは、淡い色のナイトドレスに身を包んでいた。ヴァネッサが若い頃に使っていたらしい、くびれのないゆったりとしたワンピースだ。

 今は恰幅の良い中年女性のヴァネッサも、若い頃は細身の美人だったとダニエルが語っていたが、それは本当のようだ。その証拠に、ヴァネッサのナイトドレスはマリアンルージュにぴったりだった。

 大きく開いた襟刳えりぐりからは、薄紅く上気した肌が覗いており、まだ乾いていない朱紅い髪が糸のように首筋に張り付いていた。湯上りの湿った髪から漂う甘い花の香りがゼノの鼻腔をくすぐる。薄汚いローブや店の仕事着で普段は目に付かなかったが、くっきりと谷間をつくる柔らかな膨らみはゼノが想像していたそれよりも幾分か大きめに見える。

 ごくり、と息を呑む音が、ゼノの耳の奥に響いた。

 怪訝そうに小首を傾げたマリアンルージュが、ゼノの顔を覗き込む。目と目が合い、ゼノは思いがけず後退った。


「……すみません。頭を冷やしてきます」


 きょとんとして動きを止めたマリアンルージュに背を向けると、ゼノは部屋を飛び出した。

 心配してゼノの名を呼ぶマリアンルージュの声が、聞こえた気がした。



***



「ゼノってさ、マリアのこと好きなの?」


 それは春先のよく晴れた昼下がりのことだった。

 いつもどおり丘の上の特等席に座り、祖父から譲り受けた本のページを開いたゼノに、唐突にイシュナードが言った。


「なんだよそれ。何を根拠に……」

「だって、いつもマリアのこと見てるだろ?」


 露骨に不機嫌になるゼノを見て、イシュナードは朗らかに笑った。


 当時のゼノは、愛だの恋だのといった感情は、自分とは無縁のものだと思っていた。毎朝あの丘に向かう理由が、狩りの練習で森を行き来するマリアンルージュを見るためだったことに、自分でも全く気が付いていなかった。

 その日、イシュナードに指摘されて初めて、ゼノは自身の行動の理由と、その意味を知ったのだ。

 けれど、それで何かが変わったという訳でもない。所詮ゼノは闇色の鱗の一族であり、里の住人には煙たがれる存在だった。人気者のマリアンルージュに近付きたいなどとは露ほどにも考えることはなく、胸の内に燻るその感情も、そのまま忘れることにした。

 マリアンルージュとは、きっと一生、言葉を交わすことすらないのだろうと思っていた。


 ――彼女がイシュナードに求婚した、あの日まで。



***



 月明かりに照らされた石畳の道を、ゼノは走った。

 人気のない青褪めた夜の街に乾いた靴音が響く。誰もいない街の広場の、その中央に造られた噴水のある泉の前で、ゼノは足を止めた。乱れた息を整えようと何度か深呼吸を繰り返すと、冷たい空気に肺が満たされ、昂ぶっていた感情が僅かばかり落ち着いた気がした。

 無邪気に微笑んだマリアンルージュの顔を思い出し、小さく溜息をつく。


 マリアンルージュは何もわかっていない。

 子供の頃からずっと、ゼノはマリアンルージュのことを気にしてきた。住む世界が違うからと、 自身の気持ちを誤魔化しながら。


 マリアンルージュは里の誰もが認める男イシュナードのものになるのだと思っていた。

 あの優秀で美しい完璧なイシュナードに、引き篭もりの落ちこぼれであるゼノが敵うはずもない。同じ舞台に上がろうなどとは考えもしなかった。

 関わりあったりさえしなければ、彼女を想うその気持ちも、ただの憧れで終わるものだと信じていた。

 けれど、イシュナードがマリアンルージュの申し出を断ったあの日、初めて彼女と言葉を交わしたことで何かが変わってしまった。

 彼女がくれた「好き」というたった一言が、憧れで終わるはずだった、胸の奥で燻り続けていたその想いに火をつけてしまった。一度火がついてしまったその想いは、イシュナードの存在で歯止めが掛けられていただけだった。


 イシュナードが里を去ってもマリアンルージュは変わらなかったから。

 他の誰も選ぼうとはしなかったから。

 だからこそ、彼女は変わらずイシュナードを想い、彼の帰りを待ち続けているのだと、そう思っていた。

 焼け落ちたあの村でマリアンルージュと再会したとき、彼女がイシュナードを捜していると知って、ゼノは確かに安堵した。

 イシュナードの存在が、再び、ゼノの叶わない想いの歯止めになってくれると信じて。


 だが、現実は違っていた。

 想いは日を重ねるごとに膨らみ続け、驚くべき速さで成熟してしまった。

 今のゼノは、はっきりと自覚している。

 マリアンルージュに対して抱いているこの感情が、恋と呼ばれるものだということを。



「ゼノ……?」


 静まり返った広場に、マリアンルージュのか細い声が響いた。

 振り返らずに、ゼノは噴水を見上げた。

 水飛沫が月明かりを反射してあたりをきらめかせるその風景が、幻想的で美しいと思えた。

 凍てつくような静寂の中、乾いた靴音がゆっくりと近づいて、ゼノの真後ろで止まった。

 

「ごめん、無神経すぎた。夜のあいだくらい、一人で静かに過ごしたかったよね」


 振り返らないゼノの背中に向かって、マリアンルージュが頭を下げる。


「ここ数日、仕事で疲れて一人で眠りにつく、その繰り返しで少し寂しかったから。だから嬉しくてつい、きみの気持ちを考えてあげられなかった。本当にすまなかったと――」

「そういうことではありません」


 僅かな苛立ちを覚え、ゼノはマリアンルージュの言葉を遮った。

 理解わかっていて挑発しているのなら、どれほど有難いだろう。打ち明けたくない胸の内を一から説明しなければ理解しない、マリアンルージュの鈍感さは、ある種の凶器にも似ていた。


「貴女も子供ではないのだから、わかるでしょう? 確かに、あの厳格な里では婚前の男女が情を交わすことなどあり得ない。ですが、貴女が思っているほど俺は理性的ではありません」


 吐き捨てるように告げて振り返ると、真っすぐにゼノをみつめるマリアンルージュと目が合った。翡翠の瞳に水飛沫が映り込み、きらきらと輝いている。

 見つめ合った時間は僅かなものだった。

 一度だけ俯いて大きく息を吐くと、マリアンルージュは躊躇いがちにゼノの顔を覗き込んだ。

 青褪めた月の光に照らされたマリアンルージュの頬は、ほんのりと紅く色付いて見えた。

 

「わたしだって、きみが思っているほど無知じゃない。になるかもしれないのは、ちゃんと理解わかってるよ」


 囁くように呟いて、はにかんだ笑顔を浮かべる。

 マリアンルージュのその言葉は、ゼノの苛立ちと迷いを瞬時に掻き消した。


 理解しているのなら、その先を知っていたのなら、今迄の言葉の意味は全て、ゼノの考えとは違っていたのではないか。

 マリアンルージュがゼノに向けていた感情は、ゼノの彼女に対する想いと同じ意味合いのものなのではないのか。


 もう一度、ゼノはマリアンルージュの瞳を見つめた。

 今度はどちらとも瞳を逸らそうとはしなかった。

 瞬きもせず見つめ合ったマリアンルージュのその頬に、躊躇いがちに手を伸ばす。

 彼女は静かに目を伏せて、ゼノの手のひらに頬を寄せた。


 愛おしい、と初めて思った。


 彼女の頬にかかる柔らかな朱紅い髪に、ゼノは指先を絡ませた。仄かな甘い香りに誘われて、薄紅く色付いたその唇に惹き寄せられていく。

 互いの唇が触れ合おうとした、そのときだった。


 彼女の首筋に伸ばした指先が、硬く冷たい感覚を覚え、はっとして、ゼノはその目を見開いた。

 零れ落ちる髪の隙間に、見覚えのある闇色の石が輝いて見える。それ以上、ゼノは動くことができなかった。

 余計なことなど思い出さずに、ひとときの感情に身を委ねてしまいたかった。けれど、その想いとは裏腹に、ゼノの身体を突き動かしていたあの熱は、急速に冷めていった。


「……すみません、どうかしていました」


 マリアンルージュの肩にそっと触れ、一歩後に退く。深刻な面持ちのゼノに戸惑いを見せながらも、マリアンルージュはゆっくりと首を横に振った。


「こっちこそ、ごめん。ほんと、どうかしてたね」


 手のひらで口元を覆い、俯いたマリアンルージュが、冷たい夜風に身を震わせた。


「とりあえず、部屋に戻らない? 寒くて凍えそうだよ」


 困ったように微笑むマリアンルージュの言葉に、ゼノが小さく頷きを返す。改めて、マリアンルージュの姿を確認した。

 淡い色のナイトドレスにショールを肩に掛けたマリアンルージュは、ゼノが部屋を飛び出したあのときのままだった。

 考えるまでもない。あのあとすぐに、ゼノのあとを追ってきたのだろう。こんなに寒い夜の街に、如何わしい考えに捉われて慌てて逃げ出しただけのゼノを心配して、なんの躊躇いもなく飛び出してきたのだ。


 石畳みの坂道を登るマリアンルージュの背中を追って、ゼノは広場をあとにした。


 ふたり並んで、夜の街を歩く。

 ゼノもマリアンルージュも、互いの顔を見ないよう可笑しな気を遣っていたが、その距離感が不思議と心地よかった。


「俺が言うのもなんですが、貴女は異性に隙を見せすぎです」


 坂道の向こうの宿の灯りに眼を向けたまま、ゼノはぽつりと呟いた。

 腑に落ちないといった表情で、マリアンルージュがゼノの横顔を見上げる。


「……そうかな」

「あの男……オルランド、でしたか。彼貴女に気があったと思いますよ」

「オルランドが? まさか――」


 明るく笑い飛ばそうとしたマリアンルージュだったが、不意にその言葉尻を濁す。思い当たることでもあったのだろう。


「……そうなのかな」

「そうですよ」


 考え込むマリアンルージュに素っ気なくそう返し、ゼノは足速に坂道を登ると、マリアンルージュが慌てて後を追ってきた。



 とりあえず、今はこれで充分だろう。

 他の男に付け入る隙を見せないよう、彼女自身が自覚していれば。


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