金の林檎

「まだ腫れてるね……」


 俯いたゼノの頬を隠す闇色の髪を指先ですくい、顔を覗き込んで、マリアンルージュが小さく息を吐いた。

 赤々と腫れ上がっていたゼノの頬には痛々しい青痣が浮きあがり、切れた唇の端にはかさぶたが被さっている。依然としてまぶたは腫れぼったく視界も狭まってはいるが、昨夜とは違い、はっきりと目の前のものが見える程度に視力は回復していた。

 おかげで、現在の状況はゼノにとっては有難い反面、少々厄介でもあった。

 マリアンルージュの無防備さは相変わらずであり、怪我の具合を確認するためとはいえ、整ったその顔を躊躇いなくゼノの顔に近付けてくる。

『世界律』を遵守するゼノにとって、マリアンルージュは唯一の交配可能な相手である。ゼノ自身、恋愛感情は抜きにしても、マリアンルージュをそういった対象として意識している自覚があった。

 この状況で、自身の身体が熱を上げるのを止められるはずもなく、怪我のために顔色の変化が判別し難いことが救いのように思えていた。


「準備ができたら厨房にくるようにって、おじさんが言ってたよ」


 ゼノに着替えを手渡すと、マリアンルージュは救急箱を抱きかかえて立ち上がった。


「先に行ってるね」


 柔らかな笑顔とともにそう言い残して、マリアンルージュは静かに扉を閉めた。

 廊下が軋む微かな音が遠ざかっていくのを確かめて、ゼノは洗濯された白いシャツに腕を通し、胸のボタンを留めた。エプロンを腰に巻き、ベッドから立ち上がる。


 朝の仕込みはもう始まっているだろう。料理の経験は無いが、雇われの身である以上、与えられた仕事はこなさなければならない。

 なにより、マリアンルージュだけを働かせるわけにはいかなかった。


 窓を開けて、早朝の冷えた空気を胸いっぱいに吸い込むと、ゼノは部屋に鍵をかけ、厨房へと向かった。



***



「それで? 怪我の方は大丈夫なのかい?」


 動物の骨や鶏ガラが煮え立つ大鍋をかき混ぜながらダニエルが訊ねると、厨房の隅に座り込んでバケツいっぱいのポタモの皮を剥いていたゼノが「おかげさまで」と頷いた。

 まだ客入りのない食堂から、軽快な靴音と椅子やテーブルを動かす音が聞こえてくる。マリアンルージュとヴァネッサが開店の準備をしているのだろう。床の掃除からテーブルの準備まで、鉱山夫と工房の職人達が昼食に訪れる前に終わらせなければならないのだ。

 マリアンルージュが働き始める前は、ヴァネッサひとりで全ての準備をしていたこともあり、店内の清掃はおざなりになりがちだったと聞く。

 だが、ここ数日で『羊の安らぎ亭』の館内は目に見えて綺麗になった。それに貢献しているのが間違いなくマリアンルージュである以上、ヴァネッサがマリアンルージュを可愛がり、傍に置きたがるのも当然のことだろう。


 二杯目のバケツを引き寄せて、ゼノがポタモの皮を剥きはじめた、ちょうどそのとき、水桶を片手に提げたマリアンルージュが、厨房を抜けて裏庭へと出て行った。僅かな間をおいて裏の戸口が開き、マリアンルージュが再び厨房へ姿を見せる。

 脇目も振らず食堂へ戻るマリアンルージュの姿をゼノが目で追っていると、その視線に気が付いたダニエルがニヤニヤと顔に笑って口を開いた。


「恋人じゃないってのは本当のようだが、お前さんはマリアのことがよっぽど気になってるみてぇだな」


 唐突に話しかけられて、ゼノは危うく手にしたポタモを落としかけた。手のひらから転がり落ちるポタモをゼノが慌てて両手で掴むのと同時に、床に落ちた包丁が乾いた金属音を立てる。

 取り乱すゼノを尻目に、出汁の摂れたスープを口に含み、ダニエルは舌鼓を打った。


「否定はしませんが、俺が彼女を気にかけているのは、彼女がまだ旅に不慣れだからであって……決して恋愛がどうこうというものでは――」


「ありません」と言いかけて、ゼノはふと、あの人狼ヒトオオカミの少年のことを思い出した。

 そういえば、彼も同じようなことを言っていた。マリアンルージュのことを好きなら、曖昧に誤魔化さずにはっきりと好意を示すようにと。

 けれどゼノには、マリアンルージュに対して抱くこの感情が、恋愛のそれであるのかどうかがわからない。

 元々他人と接する機会がなかったところに、初めて好意的に接してくれる異性が現れたのだ。しかも、マリアンルージュは幼いゼノが憧れに似た感情を抱いていた相手でもある。舞い上がった気持ちになるのも仕方が無いことだろう。

 しかしながら、果たしてそれは、相手がマリアンルージュ故のことなのだろうか。

 例えば他の誰かが相手であったとしても、同じように優しく接して貰えさえすれば、同様の感情を抱くのではないか。

 ゼノには、その答えがわからなかった。


「マリアとは、そういった感情を抱けるほど長い付き合いはありませんから……」


 そう呟いて、ゼノは小さく溜め息を吐いた。

 そもそも、ゼノとマリアンルージュは互いに相手のことをよく知らないのだ。


「お前さん、面白おもしれぇことを言うなぁ。恋愛感情を抱くには時間が必要だと、そう思ってんのか」

「一過性の感情を恋だと錯覚する人もいるのでしょうが、そんなものはそのとき限りの、唯の情欲に過ぎないのではないかと思うんです」

「ふむ……」


 ゼノの反応を楽しむように茶化した言葉を口にしていたダニエルだったが、対するゼノは大真面目だった。

 床に落ちた包丁を拾い上げ、手の中のポタモを見つめたまま真顔で答えを返すゼノに、ダニエルは腕を組み、唸りながら首を捻った。


 やはり、愛だの恋だのそういった話は男二人でするものではないようだ。重い空気が漂う厨房で、二人は黙々と仕込みを続けた。

 やがて、ゼノがバケツ五杯分のポタモの皮剥きを終えた頃、客入りを知らせる明るい声が厨房に響いた。



***



 昼食時も終わりに近付き、満席だった店内に空席が目立ち始める頃、厨房で皿洗いをしていたゼノは手を止めて食堂を覗き込んだ。

 食事を終えた鉱山夫達が席を立ち、次々と勘定を済ませて店を出て行く。店内に残っているのは、食後の一服を愉しむ年配客と、昨夜ゼノに一撃をくれた若い鉱山夫の二人だけだった。

 閑散とした店内に、食器を重ねる軽い音がカチャカチャと響く。後片付けを任されたマリアンルージュがひとり、食堂と厨房を忙しなく行き来していた。


「ほらほら、休んでる暇があったら汚れた皿を運んできてちょうだい」


 ぼんやりとゼノが食堂を眺めていると、厨房に戻ってきたヴァネッサが声高に告げた。はっとして振り向いたゼノを押し退け、ヴァネッサは手早く泡に塗れた食器を濯ぎはじめる。

 濡れた手をぶら下げ、ゼノが所在無さげにしていると、厨房の入り口に置かれたカウンターテーブルの前にマリアンルージュがやって来た。絶妙なバランスで食器が積み上げられたトレイをカウンターに置き、前髪を掻き上げて一息つく。そのまま厨房に目を向けたマリアンルージュは、ゼノの視線に気がつくと、小首を傾げて言った。


「終わったの?」


 どう説明したものかと、ゼノが流し台のヴァネッサに目を向けると、ヴァネッサは茶目っ気たっぷりにゼノにウインクして見せた。くすりと笑って再び食堂へ向かおうとするマリアンルージュに、ゼノは慌てて声を掛けた。


「手伝います!」


 ダニエルもヴァネッサも可笑しな気を遣うものだ、などと思いつつ、ゼノは厨房をあとにした。



 使用済みの食器の山をゼノが厨房へ運び、マリアがテーブルを拭いて椅子を整頓していく。散らかっていた食堂は、ふたりで手分けして片付けるうちに、あっという間に開店前の姿に戻っていった。


「おつかれさま。おばさんに報告してくるね」


 食堂を見渡して満足気に頷くと、マリアンルージュはゼノに一言告げて厨房へと向かった。

 ひとり食堂に残されたゼノが壁際で手持ち無沙汰に立ち尽くしていると、長いこと煙草をくゆらせていた年配の男が、手招きしてゼノを呼んだ。懐から金の入った皮袋を取り出して勘定を済ませ、男は深々と頭を下げて店を出て行った。

 しんと静まり返った店内に、ゼノと若い鉱山夫だけが残された。

 随分前に食事を終えたにも関わらず、未だ店内に居座り続けるこの男の考えには、だいたい察しがついていた。

 目的は十中八九マリアンルージュであり、大方、厨房に戻った彼女が再び現れるのを待っているのだろう。

 妙な苛立ちを覚えながらゼノが男を観察していると、ちょうど顔をあげた男と目が合った。


「おい、お前」


 沈黙を破り、男が席を立つ。ずかずかと歩み寄られて、ゼノは咄嗟に後退った。昨日の痛みを身体がまざまざと覚えていた。


「……何か?」


 問題を起こすわけにもいかず、ゼノは平静を装って尋ねた。男は問いに答えず、無言のままゼノの顔を睨みつけてくる。

 一触即発。いつ殴られてもおかしくない。

 そう考えて、ゼノが静かに身構えたときだった。


「悪かったな」


 唐突に、男が頭を下げた。


「あんまり威勢良く出てくるもんだから、まさか喧嘩が全く駄目だなんて思わなくてよ」


 唖然として男を見上げるゼノに、ぶっきらぼうな態度で男が言った。

 てっきり因縁を付けられると思っていた相手の思いがけない行動に、ゼノは困惑した。だが、素直に謝罪するその行為を無碍にする必要など何処にもない。

 ゼノがぎこちなく頷きを返すと、男は顔をあげて表情を柔らげた。


「話がわかる奴で良かったぜ。俺はアランだ。よろしくな」


 和解の証明のつもりなのか。アランと名乗った男は、ゼノに向かって手を差し出した。

 何が「よろしく」なのか、と思いながら、ゼノが躊躇いがちに手を差し出すと、アランはその手をがっしりと両手で握った。


「いや、マジで本当に悪かったと思ってんだ。あんだけ弱いのに意を決して俺と彼女の間に入ってきた、その気持ちを考えたらよ。お前も彼女に惚れてるに決まってんのになぁ」


 握った手をぶんぶん振り回しながら、アランは更に捲し立てる。


「惚れた相手の目の前で一発殴られて倒れるなんて、俺だったら恥ずかしくて二度と彼女の顔を見れねぇ。だけどお前は仕事上それを避けるわけにもいかねぇだろ? 今日の働きぶりをみて感心したよ」


 褒めているのか貶しているのか、判断に困る言い草だが、本人の様子を見る限り悪気はないように思えた。おそらく天然の無神経なのだろう。

 溜め息をつきたくなるのを堪え、ゼノが握られた手を引くと、アランは「おっと、すまねぇ」と笑って後ろ髪を掻いた。


「俺を殴ったことに関してはもう忘れますが、彼女に変な真似をするのはやめてくださいね」


 念を押すように告げて、アランの目につかないよう、ゼノはエプロンの尻のあたりで手を拭った。

 悪い人間ではないのは理解わかったが、このアランと言う男はどうにも暑苦しい。

 ゼノが二度目の溜め息を堪えたとき、入り口の木戸が開き、来客を知らせるベルがカランカランと軽快な音を鳴らした。


 入り口を振り返ったゼノの眼に映ったのは、隊列を組んで並ぶ制服を着込んだ男達だった。人数にして三十人以上の団体のようだが、宿泊客という雰囲気ではない。何より、彼等が身に纏う制服には見覚えがあった。


「いらっしゃいませ!」


 ベルの音を聞きつけて、マリアンルージュが厨房から顔を出した。入り口を塞ぐように並ぶ人の列を見て目を丸くするマリアンルージュに、先頭に立って店内を見回していた男が声を掛けた。

 

「この街唯一の宿というのはここで間違いないだろうか?」


 輝かんばかりの金色の髪と、晴れ渡る空のように澄んだ碧い瞳を持つ秀麗な青年は、美しい外見に似合わない、どことなく不遜な口振りで尋ねた。

 男の問いに小首を傾げたマリアンルージュが厨房を振り返り、顔を覗かせていたダニエルとヴァネッサが勢い良く首を縦に振るのを確認する。


「そのとおりですが、ご宿泊のお客様ですか?」


 マリアンルージュがにこやかに微笑む。

 男は「ふむ」と納得したように頷くと、口元に薄らと笑みを浮かべ、


「なかなかどうして、美しい娘じゃないか」


そう呟いて、マリアンルージュの頬に触れた。

 男の無遠慮な行動にゼノが眼を見開くと、同時にアランが駆け出し、驚いて後退るマリアンルージュを庇うように男の前に立ちはだかった。

 一瞬のことでわからなかったが、どうやらアランはマリアンルージュの頬に触れた男の手を払い除けたらしい。男は手の甲をさすりながら、不快感を露わにアランを一瞥した。


「汚い手で触らないでいただきたいね」

「そりゃ、こっちの台詞だ」


 言うや否や、アランは得意の正拳突きを繰り出した。

 アランと男の体格差は、アランとゼノのそれと然程変わりがない。客同士の喧嘩とはいえ、この男に昨夜のゼノの二の舞になられても困る。

 相変わらず喧嘩っ早い男だと思いつつ、止めに入ろうとしたゼノだったが、対する男は余裕の表情だった。

 アランの正拳突きを華麗にかわして懐に入り込むと、腹部に勢い良く肘を埋める。「うぐっ」と低く唸り、アランはその場に崩れ落ちた。


「アラン!」

「大丈夫!?」


 うずくまったままのアランに、ゼノとマリアンルージュが駆け寄った。だが、当のアランは腹部を押さえて屈んだまま立ち上がれない。


「失礼した。急なことで手加減できなかった」


 見下すような視線を三人に向けて、冷ややかにそう告げると、男は厨房へ向き直り、顔を覗かせていたダニエルとヴァネッサにうやうやしく一礼した。


「レジオルド憲兵隊第三隊隊長ジュリアーノ=ブルーニだ。近隣の村家を脅かしていた盗賊の残党を追っている。疲弊した部下の休養のために部屋を貸して貰えないだろうか」


 ジュリアーノと名乗った男の透き通るような碧い瞳は、どこか薄ら寒い光を湛えていた。


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