心変わりと、その理由
焼け落ちた集落を迂回して、少年は薄暗い森の中を走った。殺戮者の手から逃れた仲間を捜すために。
数日ぶりに村へ帰る、その途中だった。人間の数十倍にも及ぶ少年の嗅覚が鼻につく異様な臭いを感じ取り、異変に気付いた少年は咄嗟に繁みの中へ身を隠した。丘の上は遠すぎて、村を見降ろす殺戮者の姿は、はっきりとはわからなかった。けれど、その人数が相当のものだということを、少年は一目で理解した。
まだ火の粉が舞う集落に漂う動物が焼ける臭い。おそらくそれは、少年の家族の、友人の、仲間達のものだった。
あまりにも唐突で無慈悲な現実を突き付けられ、少年はその場にへたり込んだ。絶望と恐怖で、彼は動くこともできなかった。
全てを失った少年の身体が、怒りとも哀しみとも言えない叫声を上げようとしたとき、少年の目が森へ逃げ込む小さな影を捉えた。その直後、丘の上で甲高い笛の音が鳴り響く。弾かれるように少年は立ち上がり、森の中を走り出した。
――
少年は走った。この広い森の中、たったひとりの仲間を見つけるのは、とても困難なことに思えた。通常であれば、鼻を効かせて見つけることもできるだろうが、いかんせん、この異臭では――。
少年が足を止め、苦々しく顔を歪める。仲間の影を追うことを諦めかけた、そのとき。少年の元に、風にのって花の香りが届いた。
「レティシア……」
少女の名を呟いて、少年は再び走り出した。異臭の中に微かに混ざる花の香りを頼りに、繁みを掻き分けて走り抜ける。辿り着いたその先で、暗闇を駆ける少女の姿をみつけた。
脚がもつれ、転びかけた少女に、少年は手を伸ばした。
***
自由都市アルティジエの夕暮れどき。この街唯一の宿屋である『羊の安らぎ亭』の食堂は、夕食に訪れた鉱山夫と職人で溢れかえっていた。
「マリアちゃん、こっち、おかわり!」
「こっちも、追加で頼むよ!」
「はい! すぐにお伺いします!」
次々と投げかけられる言葉に細やかに気を配りながら満席の食堂内を行き来するのは、先日から食堂の給仕を任されたマリアンルージュだ。
大皿料理を片手にテーブルのあいだを器用にすり抜け、客の元へ注文の品を運ぶその動きには全く無駄がない。くるくると向きを変えて客の呼び声に応える様は、まるで舞台上で舞う踊り子のようだった。
マリアンルージュがこの食堂で働き始めて、すでに三日が経っていた。一昨日の夜から働き始めた新顔の美人給仕の噂は、その夜から朝方に掛けて、瞬く間に街の男達のあいだに広がった。
翌昼、夜と客足が増え続け、遂には他の食堂の常連客までもが列を成して『羊の安らぎ亭』に食事に来ている有様だった。
お世辞にも清潔とは言えない姿のゼノとマリアンルージュを、女将のヴァネッサが快く雇った理由が、今のゼノには良くわかる。
「
うまい話にまんまと乗せられ、マリアンルージュを餌にされてしまった。
眉間に皺を寄せ、不満気な表情で、ゼノは苦々しく溜め息を漏らした。
マリアンルージュと同じようにゼノも給仕の仕事を任されているというのに、この店の客ときたら、ゼノには全く声を掛けようともしない。待たされるのを承知の上で、忙しく動き回るマリアンルージュを目で追い、隙あらば声を掛ける。その繰り返しだ。
「この街の男は、どれだけ女性に飢えているんだ……」
竜人族の里のように女性が少ないわけではないはずなのに。それにも関わらずこの有様とは、人間とはつくづく欲深い。
厨房の入り口で立ち止まり、ゼノがぼやいていると、
「この街にも若い娘はいるんだがなぁ。マリアほどのべっぴんさんは、そうそう見かけねぇもんよ」
大声で笑いながら、この宿の主人であるダニエルが厨房から現れた。
短く切り揃えた墨色の髪と、揉み上げと繋がった顎髭が囲むその厳つい顔に、勝ち誇ったような笑みが浮かべられている。どうやら、連日増え続ける客にご満悦の様子だ。
いつにも増して無愛想な顔で、ゼノが客の引いたテーブルを片付け始めると、ダニエルはやれやれと肩を竦め、ゼノの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「恋人が野郎共の見世物にされて腹立たしい気持ちはわかる。だが、客の前でそんな不機嫌な顔すんじゃねぇ」
「どうせ誰も俺の顔なんて見てませんよ。それに、マリアとは恋人ってわけじゃ……」
鬱陶しそうにダニエルの手を払いのけてゼノが言い返すと、まるで子供の相手をするかのように、ダニエルはおおらかに笑って見せた。
「まぁ、ああやって騒いじゃいるが、おっさん連中は単に華が欲しいだけだ。
そう言って、ダニエルは奥のテーブル席を指差した。
ちょうど気性の荒そうな風貌の若い男が、マリアンルージュを呼び止めているところだった。
「あの兄さんは、一昨日の夜うちでマリアを見てから昼夜続けて通い詰めてる。ありゃあ、明らかに下心があるぞ。今夜あたり、勝負に出てもおかしくねぇ」
顎に蓄えた髭を弄りながら、面白そうにダニエルが言った。若い男とマリアンルージュのやり取りを、ゼノは遠巻きに注視した。
要件を尋ねにテーブルへ向かったマリアンルージュに、男が何やら話しかけていた。
にこやかに微笑んで、マリアンルージュは男の誘いをやんわりとかわしている。常日頃から故郷の男達に好意を寄せられていただけのことはあり、異性をあしらうのも手馴れた様子だ。
だが、男は想像以上にしつこかった。ダニエルが言うように、今夜が勝負だとでも思っているのかもしれない。
幾度となく誘いをかわしつづけるマリアンルージュの態度に痺れを切らしたのか、男が急に腕を伸ばし、マリアンルージュの手を強く掴んだ。驚いたマリアンルージュが慌てて後退ろうとするが、男は握った手を放そうとしない。
無意識に、ゼノは拳を握り締めた。
「行ってやんな。お嬢ちゃんが困ってる」
促すように、ダニエルがゼノの背中を押す。
面白半分に煽られて、ゼノは釈然としないまま足を踏み出した。他の客を避けながら、つかつかと奥のテーブル席へ向かう。それに気付いた周りの客が、道をあけ、ゼノの向かう先へ次々と視線を向けた。
気に入った女を口説き落とそうとする男と、それを止めに入るもうひとりの男。
喧嘩騒ぎが大好物の鉱山の男達は、三人の男女のやり取りに興味津々だった。
「失礼ですが、彼女はまだ勤務中です。他のお客様に迷惑がかかりますので、お引き取りください」
淡々と言い放ち、ゼノは男の手首を掴んだ。明らかに機嫌を損ねた様子で、男がゼノに視線を向ける。
男の気が逸れた僅かな隙をついて、マリアンルージュが逃れると、「ちっ」と軽く舌打ちして、男はゼノに向き直った。
「なんだ? 誰だお前。俺は彼女に用があるんだが?」
喧嘩腰にそう言うと、男は勢い良く席を立った。鉱山夫らしい屈強な身体だ。身長だけでもゼノと頭ひとつ分の違いがあり、体格差は歴然としていた。
苛立ちを隠そうともせず、男がゼノを睨みつける。けれど、この程度のことではゼノも引き下がらなかった。
「口にしないだけで、彼女は迷惑しています。必要なら俺がお相手しますよ」
淡々とそう告げると、ゼノは男の眼をキッと睨み返した。
「ふん、良い度胸だ」
男が上着を脱ぎ捨てる。筋肉の隆起した雄々しい肉体を晒し、拳を構えた。
空いたグラスに残った氷が溶けて崩れ、乾いた音がカランと響く。
それが合図になった。
次の瞬間、汗臭い男達で溢れた食堂内に、熱気を帯びた歓声が湧き上がった。
***
「まさか兄ちゃんが、一発で伸されちまうとはなぁ……」
宿屋『羊の安らぎ亭』の一室で、ダニエルは腕を組み、肩を落として唸った。
目の前のソファには、見るも無残な姿のゼノが寝かされている。まぶたは青く変色し、腫れ上がった唇の端には血が滲んでいた。鉱山で鍛えられた男の拳には、想像以上の破壊力があったようだ。
床に膝立ちになり、心配そうにゼノの顔を覗き込んだマリアンルージュが、冷水で湿らせたタオルを痛々しい患部にそっとあてた。
「大丈夫?」
優しく声を掛けられ、ゼノは小さく頷きを返した。我ながら情けない、と溜め息が洩れる。
喧嘩は得意ではないけれど、あのような大振りの攻撃であれば、いつもなら簡単にかわすことができたはずだ。
「あまり気落ちするんじゃないよ。体格差からして結果は目に見えていたじゃないか。……まぁ、取り敢えず、あんたには明日から厨房に入ってもらうけどね」
マリアンルージュの後ろからゼノの様子を覗いていたヴァネッサがおおらかに笑う。慰めているつもりだろうが、ゼノはむしろ追い討ちをかけらた気分だった。
給仕の仕事に関しては、元々接客には向いていないのだから異論はない。ヴァネッサの判断は、先程の盛大な負け犬っぷりをネタに、ゼノが客に弄り倒されかねないことを考慮してのことだろう。
「すみません……」
ちからなくゼノが呟くと、ヴァネッサはやれやれと肩を竦めて微笑んだ。
そのまま暫く様子を眺めたあと、思い立ったようにポンと手を打ったヴァネッサは、食堂に残した客を気にしたのか若いふたりに気を遣ったのか、隣で唸り続ける夫を引きずるようにして、さっさと部屋を出て行ってしまった。
扉が閉まり、部屋の中に沈黙が訪れた。
「……出過ぎた真似をしました」
しばらくして、気怠げな声でゼノが呟いた。痛みを訴えるまぶたを薄すらと開いて、天井から吊り下げられた簡素なシャンデリアを見上げる。
「そんなことない、すごく助かったよ。あのお客さん、何を言っているのか良く分からなかったし、いきなり手を掴まれてびっくりしちゃったから」
負傷したゼノを労わっているつもりなのか、マリアンルージュが妙に明るく振る舞ってみせる。
片目の視界が霞んだままで、すぐ傍に居るというのに、ゼノにはマリアンルージュの表情が読み取れなかった。けれど今のゼノにとっては、それが救いのようにさえ感じられた。情けないと落胆されるのも辛いが、過剰に心配されるのは、それよりも更に辛い。
まぶたの上に乗せられたタオルを押し退け、ゼノは片腕で顔を覆った。
喧嘩で負けたことはどうでもよかった。問題は、もっと別のところにあった。
「ごめん」
唐突に、マリアンルージュが呟いた。怪訝に思ったゼノの視線が、自然とマリアンルージュに向けられる。
「さっきの……きみが殴られたあのとき、わたしはお客さんのほうを心配してしまったんだ。てっきり、きみは竜気を纏っているものだと思っていたから……」
そう言って、マリアンルージュはゼノに頭を下げた。
「……かまいませんよ」
むしろ、それは当然のことだとゼノは思う。
マリアンルージュは、ゼノが常に竜気で身を守っていたことを知っていた。その特性を理解している者なら、誰だってそうだろう。
例え圧倒的な体格差のある相手に本気で殴られたとしても、竜気を纏った状態であれば、ほとんど無傷でいられる。相手が力任せな殴り方をすれば、逆にその拳が粉砕してしまうのがオチだ。
以前のゼノであれば、躊躇いなく相手の自滅を誘発していだろう。
けれど、マリアンルージュと行動を共にしている以上、あれだけ多くの見物客の目の前で、そのような異常な光景を見せるわけにはいかなかった。
ゼノが異種族だと知られれば、当然、その疑惑はマリアンルージュにも向けられる。
異種族に対する人間の考え方は様々だが、ひとたび人間に怪我を負わせてしまえば、間違いなく畏怖と憎悪の対象にされるだろう。
避ければ良いのだと、すぐに気が付いた。
だが、その思考とは裏腹に、ゼノの身体は反射的に防御体勢に入ってしまった。纏いかけた竜気を慌てて解いたその瞬間に、思い切り左から殴られてしまったのだ。
「竜気を纏うの、やめたんだね」
囁くように告げて、マリアンルージュは顔を覆っていたゼノの腕を退かした。冷水で濡れたタオルを絞り、赤く腫れたゼノの頬を冷やす。
「どうしてやめたの? ……ってきいちゃダメかな?」
ぼんやりとシャンデリアを見上げるゼノの瞳を、マリアンルージュが覗き込んだ。流れ落ちた朱紅い髪から、ふわりと甘い香りがする。
もしも今、視界が晴れていたら、いくら無表情が
視界が霞んでいて本当に助かった。そう思いながら、ゼノは腫れ上がった唇を動かした。
「皆と同じ感覚でいたほうが
朧げに眼に映るマリアンルージュから視線を逸らし、ゼノは素っ気なく呟いた。
すでに、陽が落ちてだいぶ経っていた。月明かりに照らされた窓の外は思いのほか明るかったが、隙間から吹き込む夜の外気は肌に冷たい。
以前のゼノなら、このような感覚は覚えもしなかっただろう。
竜気を纏うのを止めた本当の理由。
そんなもの、言えるわけがなかった。
マリアンルージュと同じように、この世界に触れてみたい。ただそれだけのことなのだから。
「冷えてきたね」
そう言って、マリアンルージュは立ち上がり、部屋の暖炉に火を灯した。積み上げられた蒔が燃えて、火の粉がパチパチと爆ぜる音が、部屋のなかに小気味良く響いていた。
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