羊の安らぎ亭
眼下にて繰り広げられる凄惨な殺戮劇を、男は満足気に眺めていた。
森に囲まれた山奥の名も無い村。
外界から隔たれたその集落は今、狂気に満ちた歓声と逃げ惑う人々の悲鳴で溢れ返っていた。
馬を繰り、剣を振るう殺戮者を前に、成す術もなく無惨に切り捨てられていく村人達。その姿は人間のそれと似ているが、獣の耳と長い尾から異種族で有ることが容易に判断できた。
「この国の法には感謝しなければならんな」
腕を組み直し、男は不敵な笑みを浮かべる。
法と秩序の国レジオルディネは、異種族との共存を
「この集落の
下卑た笑みを湛えるその顔の、頬に滲んだ一筋の傷痕に触れ、男は呟きを漏らした。
美しい人狼の娘に
例え正当防衛であろうとも、人間に危害を加えた異種族には極刑を下すことが許される。本来ならば公正な軍法会議の元に適用される法ではあるが、証人がいなければ正当性など意味はない。
外界との繋がりが薄い異種族の集落ならば、こうして気紛れに蹂躙したところで罪に問われることもない。
「最高の憂さ晴らしだな」
高笑いを堪え、男は集落の全貌を見渡した。
だが、集落と森の境界へ目を向けた次の瞬間、その顔から笑みが消える。
深い森へと飛び込む小さな人影を、男の碧眼が捉えた。小さく舌を打ち、傍に控えていた部下に合図を送ると、男は身を翻し、丘を降りた。
静寂が訪れた集落に、耳障りな呼び笛の音が鳴り響いた。
***
自由都市アルティジエの昼下がり。商業区にある多くの食堂は、昼食に訪れた職人や鉱山夫で溢れ返っていた。
『羊の安らぎ亭』は、元鉱山夫であるダニエル=ボルドとその妻ヴァネッサが営む、この街で唯一の宿屋であり、。食事時には一階の食堂を開放する。外部の人間を寄せ付けず宿泊客が望めないアルティジエの宿では、ごく普通のことである。この街に外部から旅人がやってくることなど、年に数回程度の稀なことだ。
だが、本来、大変稀有であるはずのその事象が、今まさに『羊の安らぎ亭』にて発生していた。
食堂を埋め尽くす職人や鉱山夫から僅かばかり距離を置いた食堂の片隅のテーブルに、一組の男女が座っていた。傷んだ黒いコートで身を包んだ青年と、ぼろを纏った女性の二人組――ゼノとマリアンルージュである。
ふたりは小さなテーブルを挟んで向かい合い、何やら話しながら、プレートに盛り付けられた料理を食べていた。
「あんな
意外そうに呟いて、マリアンルージュはスプーンを口に運んだ。
「あんな
「仕立屋さんで、愛想良く笑ってたじゃないか」
眉を顰めてとぼけた返事をするゼノに、マリアンルージュが間髪入れず追い打ちをかける。「あぁ……」と思い出したように手を打ち、カップに注がれたお湯を啜ると、ゼノは受け皿にカップを戻した。
「他人の信用を得るには、対象の考えに笑顔で同調してみせたほうが効果的なんですよ」
人差し指を立て、無知な子供に言い聞かせるようにマリアンルージュに説明する。真剣な、しかし、何処か嘘臭い瞳でみつめられ、マリアンルージュは一瞬言葉を詰まらせた。軽く咳払いをして視線を逸らすと、もの言いたげな上目遣いでゼノを見据えながら、不満気に口を開く。
「……それ、イシュナードに吹き込まれただろ」
「そのとおりです。よくわかりましたね」
マリアンルージュに指摘され、意外だと言いたげにゼノが答えた。
「やっぱりそうか。あの人、本当にろくでもないことばかり教えるんだから……」
軽く頬を膨らませて、マリアンルージュは椅子の背もたれに身体を預けた。イシュナードのことを語る、その口振りが気になったのか、ゼノが躊躇いがちにマリアンルージュに尋ねる。
「……その、マリアはイシュとは親しかったんですか?」
マリアンルージュがイシュナードに婚姻を申し込んだ事実がある以上、この質問は非常におかしなものだった。
人間社会の王侯貴族のあいだで政略結婚なるものが度々行われることを、ゼノは知っていた。だが、ふたりの故郷にそのような風習はなかった筈だ。
あの里では、婚姻相手を選ぶ権利は女性にあった。親しくもない相手に、わざわざ婚姻を申し込む筈もない。当然、肯定的な答えが返ってくるものだと、ゼノは思っていた。
けれど、ゼノの予想とは違い、マリアンルージュの答えは実に不確かな曖昧なものだった。
「どうだろう。あの人、気がつくと視界に入ってたんだよね。親しくないと言えば嘘になるけど……でも……」
宙を見つめ、マリアンルージュが呟いた。
しばらく思い耽ったあと、言葉の先を待ち侘びていたゼノに、彼女は全く別の話題を振った。
「そんなことより、これからどうするの?」
「……そうですね。マリアの新しい服が仕上がるのに七日ほどかかるようなので、その間に色々済ませておきたいところです」
仕立屋に手渡された紙切れを取り出して確認すると、軽く唸りながらゼノは後ろ髪を掻いた。
「色々って?」
「ベルンシュタインに入国する為には、精巧な身分証明書を偽造する必要があります。ですから、そういった裏稼業で仕事を請け負っている職人を捜さなければなりません。まぁ、その件に関しては心当たりがあるので、お任せしていただければ……」
「それって、結構なお金が必要なんじゃないの?」
マリアンルージュに話を遮られ、ゼノは動きを止めた。
マリアンルージュの指摘は尤もだ。懐にしまった貴重品袋の中身から換金で得られる金を計算してみたが、所持している貴重品を全て換金したとしても、その金額には限界があった。
イシュナードが里を出てから、ゼノは金になるような装飾品をほとんど作っていなかった。一番高額で取り引きできそうだった竜鱗のペンダントも、詫びの気持ちから人に渡してしまった。
とてもじゃないが、金銭的な余裕はない。
「そうなんですよね。宿代も馬鹿になりませんし……」
腕を組み、再びゼノは唸った。
身分証明書を偽造するのにどれほどの費用と時間が必要なのかはわからない。だが、仕立屋の件で、少なくとも七日はこの街に滞在する必要があるわけで。
「換金以外での収入が欲しいところですね……」
当惑して呟くゼノだったが、一方のマリアンルージュは実に楽しそうに妙案を口にした。
「だったらさ、ここで働いてみない?」
輝かんばかりの笑顔を見せてマリアンルージュが指差すその先の壁には、「従業員募集」と書かれた広告が貼られていた。
***
路地裏の階段を降りた先、薄暗い地下街の片隅で、ゼノは立ち尽くしていた。茫然と向けられた視線の先には、薄汚れた家屋が建っている。
あらゆるものを精巧に偽造するかつての裏世界の名匠の、その工房だった建物には、以前の面影は残っていない。傾きかけた木製の扉には鉄の錠が掛けられており、窓は埃に覆われて、人の気配も感じられなかった。
任せて欲しいと大見得を切った矢先にこれでは、まるで格好がつかない。マリアンルージュにも呆れられることだろう。
困り果てたように、ゼノは肩を落とした。
かと言って、いつまでもここで時間を浪費するわけにもいかない。『羊の安らぎ亭』でゼノの帰りを待つマリアンルージュに、早急にこのことを伝え、今後のことについて話し合わなければならない。
小さく溜め息をつくと、ゼノは商業区へ続く階段を登りはじめた。途中、ふと階下を見下ろすと、ぎらついた眼でゼノを見上げる薄汚れた姿の老人と目が合った。物言いたげな老人はおもむろに口を開き、しゃがれた声でゼノに話しかけた。
「もう三十年ほど前になる。二人組の旅人が、この路地裏を訪れた。……あんた、あのときの一人によく似ている。一体何者だい?」
老人の突然の問いに、ゼノが一瞬動きを止める。ややあって、その顔に苦い笑みが浮かんだ。
老人の濁った青い瞳を、ゼノは覚えていた。
老人のことを思い出したことで、ゼノはようやく全てが腑に落ちた。
人間――短命種とは不便なものだ。二千年を生きる竜人族とは違い、その命はあまりにも短すぎる。
三十年の年月は、名匠と呼ばれた一人の男が生涯を終えるには充分過ぎた。
老人の問いに無言で首を振ると、ゼノは階段を昇り、路地裏を後にした。商業区の舗装された道を、足早に通り過ぎる。夕闇に染まる街の片隅で、『羊の安らぎ亭』は暖かい明かりを灯していた。
「さて、どうしたものか……」
呟いて空を仰いだあと、意を決したように、ゼノは木製の扉を開いた。
***
「いらっしゃいませ!」
扉をくぐると、快活な若い女性の声が響いた。店内には、昼間には感じられなかった華やかな雰囲気が漂っている。
給仕服を着た若い女性店員が、胸の前で木製のトレイを抱きかかえるようにしてゼノの前に進み出た。彼女が足を踏み出すたびに、膝丈のフレアスカートがふわりと揺れる。
「……マリア?」
半ば呆然としてゼノが確認すると、マリアンルージュはにこやかに微笑んで、スカートの端をつまみ上げ、軽くお辞儀をしてみせた。
「どうかな? 似合ってる?」
浮かれた様子で問われたが、ゼノは返事ができなかった。
ヤンの村で再会したときからマリアンルージュはぶかぶかのローブを身に纏っており、ゼノと森で行動を共にするうちに、すっかり薄汚れてしまっていた。その姿に見慣れてしまったこともあってか、久しぶりに身なりを整え薄化粧を施した彼女は、元の容姿も相まって大変美しく見えた。
「やっぱり似合わない?」
言葉を詰まらせたままゼノが黙っていると、ちょっぴり気落ちした上目遣いでマリアンルージュが小首を傾げた。
「……え? いえ、その……良いと思います」
流石に「見惚れていた」とは言えなかった。けれど、ゼノの返事に満足したのか、マリアンルージュはにっこりと笑うと、元の浮かれた調子でゼノの手を取った。
「な、なんですか?」
「練習! ちょっと付き合って!」
戸惑うゼノにはお構いなしにマリアンルージュはテーブルへ向かい、ゼノを椅子に座らせた。
広告の件で宿の主人であるダニエルに話を持ち掛け、無事に雇われの身になったゼノとマリアンルージュだったが、即採用されたという訳ではなかった。
ダニエルには渋い顔をされたものの、あとから顔を出した女将のヴァネッサの口添えのおかげで無事に承諾を得ることになったのだ。
どうやらヴァネッサはマリアンルージュを気に入ったらしく、ふたりを住み込みの従業員として雇っただけでなく、利用客がいない客室を快く貸し与えてくれた。
働き口と滞在場所の両方が決まり安心したゼノは、その足で裏路地へ出掛けた訳だが、ゼノの留守中、部屋に居たマリアンルージュにヴァネッサから提案があったらしい。
「今日の夕食時、つまり、今から働いてみないかって。だから、お客様第一号ってことで、ちょっとだけ付き合ってよ!」
茶目っ気たっぷりに微笑まれ、ゼノは困惑した。練習と言われても、何をどうすれば良いのかわからない。
「じゃあ、何か、おすすめの飲み物を……」
ゼノが適当に頼むと、マリアンルージュは「かしこまりました」と軽く頭を下げ、踵を返して厨房の中へ駆け込んで行った。
僅かな間をおいて再び食堂へ姿を現した彼女は、酒の瓶とグラスが載ったトレイを手にしていた。
「この街特産の果実酒です」
ゼノにグラスを手渡して、マリアンルージュが酒を注ぎはじめた、ちょうどそのとき。
カランカランと小気味の良い音を響かせて店の扉が開いた。仕事を終えた職人と鉱山夫達がやってきたのだ。
「いらっしゃいませ!」
マリアンルージュの明るい声が食堂に響くと、仕事帰りの男達の視線が一点に集中した。新顔の、若い女性従業員を前に、そこかしこからどよめきが起こる。
「空いているお席へどうぞ」
大勢の客を相手に動じることなく、マリアンルージュはにっこりと微笑んで大人数の客を手際良くテーブルへと案内していく。とても初めてとは思えない、見事な立ち回りだった。
感心したゼノがふと厨房へ目を向けると、ダニエルとヴァネッサが顔を覗かせて食堂を眺め、満足気に頷いているのが目に入った。
ゼノの視線に気がつくと、ふたりはしたり顔で親指を立て、ゼノに上機嫌な笑みをみせた。
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