自由都市

「もう少しだよ」


 たびたび振り返り、後に続くゼノとマリアンルージュに声をかけながら、リュックがふたりの先を行く。歩きやすい小道を選ばずに、川沿いの繁みを掻き分けてでも真っ直ぐに北上するのは、誤って森の奥に迷い込むことを避けるためだ。

 ゼノもマリアンルージュも、繁みの小枝で互いの髪や衣類が傷つくことを気にしてはいたが、リュックが選ぶ道に文句を付けることはしなかった。

 やがてひしめき合っていた樹々が開け、平坦な山の頂きが目に入ると、リュックは川を離れ、ふたりを森の外へと導いた。

 一歩森を出れば、木の葉に遮られていた陽の光が容赦無く降り注ぐ。眩い光に照らされたその場所には、目を見張る光景が広がっていた。


 火山の噴火口と見紛う巨大な穴。強い陽の光に照らされても尚、底の見えない深い穴の中央に、それを堀に見立てるようにして造られた、城壁に囲まれた街があった。


 自由都市アルティジエ――三つの国の国境を跨ぎ、どの国にも属さない城塞都市である。

 知識人と職人の街とも呼ばれ、歴史上の重要文献を遺す図書館が存在する他、様々な道における名匠が工房を構えるこの街は、三十年前、ゼノがイシュナードと共に最後に訪れた場所でもあった。


「変わってない、何も……」


 懐かしむように目を細め、ゼノがぽつりと呟いた。

 縦穴から吹き上げる風が黒いコートをはためかせ、隣に立つマリアンルージュの長い髪を揺らした。

 今、隣に居るのが親友のイシュナードではなく、まともに口を利くようになって間も無いマリアンルージュだということが、ゼノには不思議に思えていた。


 三十年前、イシュナードは初めて訪れた森の中で、迷うことなくゼノをこの街へ導いた。

 それだけではない。どんなときでも、どんな場所でも、彼が道に迷うことは一度たりともなかった。

 里の外では常に彼と行動を共にしていたゼノにとって、それは当然のことだったけれど、おそらくそれはイシュナードに備わった特殊な能力の成せる技だったに違いないのだと、ゼノは感じていた。

 実際に自身の記憶と感覚のみで森の中を歩いてみたことで、改めて、イシュナードがあらゆる意味においてだったことを思い知ったのだ。


「すごいね! 本当に街があったよ」


 はしゃぐようなマリアンルージュの声に、ゼノはハッと我に返った。

 街を指差してゼノを見上げ、瞳を輝かせる彼女に頷いてみせる。


「それじゃあ、オイラはこれでお役御免ってことで」


 黙ってふたりの様子を眺めていたリュックは、満足気にそう言うと、ひらひらと手を振ってふたりに背を向けた。遠ざかるその背中に、マリアンルージュが慌てて声をかける。


「本当に良いの? 街まで行けばお礼もできるのに」

「岩豚の燻製が貰えただけで充分だよ。滅多に御目にかかれるモンじゃないし。ねえちゃんはもう少し物の価値を覚えたほうが良いよ!」


 困惑するマリアンルージュに手土産の岩豚を見せつけて、リュックはけらけらと笑った。


「あ、それと……」


 それから思い出したようにポンと手を打ち、再びふたりのほうへ歩み寄る。おもむろにゼノの袖を引いてマリアンルージュから離れると、怪訝な顔で首を傾げるマリアンルージュを尻目に、リュックがゼノに耳打ちをした。


「お前さ、何を躊躇ってるのか知らないけど、マリアのことが好きならハッキリ言ってやりなよ。曖昧に誤魔化してばかりだとそのうち取り返しがつかなくなるぞ」

「……は?」

「街についたら何かプレゼントしてみろよ。絶対喜ぶから」


 間抜けな声を出すゼノをちょいと小突いて、リュックはマリアンルージュに大きく手を振った。満面の笑みで、マリアンルージュが手を振り返す。呆気に取られたままのゼノに勝ち誇ったような視線を向けると、リュックは颯爽と森の中へ駆けていった。


「……好き? 俺が、マリアを……?」


 茫然と森を見つめ、ゼノは暫し立ち尽くした。


「なんの話だったの?」

「なんでもありませんよ」


 小首を傾げて訊ねるマリアンルージュに素っ気なく返事を返し、再び城壁に囲まれた街へと目を向ける。

 底の見えない深い穴の上に、街へと続く長い橋が架けられていた。



***



「これ、落ちたら死ぬかな?」

「どうでしょうね。なんなら落ちてみましょうか?」

「じゃあ、わたしも一緒に」

「やめてください」


 軽口を叩きながら、ふたりは橋の上を歩いていた。

 時折吹きつける強風に煽られて、衣類がばたばたと音を立ててたなびく。街へ近付くにつれて、風は徐々に勢いを増していった。

 目を開けていることすら困難な強風の中、ふたりが橋の中間地点に差し掛かったときだった。

 唸るような轟音と共に一陣の風が穴の底から吹き抜けて、ふたりの身体を掬い上げた。バランスを崩した身体を繋ぎ止めるように、ゼノが欄干へ手を伸ばす。咄嗟に、もう一方の手でマリアンルージュの手を掴み、欄干の側へと引き寄せた。


「大丈夫ですか?」

「うん、びっくりした」


 頬を上気させ、マリアンルージュがゼノを見上げる。驚きと興奮を隠せない、子供のような高揚した笑顔が眩しく見えて、ゼノはぐっと言葉を詰まらせた。

 欄干を握り締めたままふたりはその場にしゃがみ込み、風が止むのを待った。渦を巻くように唸りをあげた突風は、砂埃をさらうようにして上空へと吹き抜けていった。

 

 自由都市アルティジエはどの国にも属さない。それにも関わらず、大国が喉から手が出る程欲する貴重な文化遺産を保有している。

 街への出入りに使われる巨大な堀に架かる三本の橋は、外敵から攻められる可能性を考慮して造られたものだ。細い橋を渡り、軍を率いて攻め入ることは、事実上困難である。それに加え、穴底から吹き上げる風の壁が余所者の侵入を阻む防壁となるのだ。

 事実、古い文献にはアルティジエを訪れるために命を落とした者も多いと記されていた。



「ここまで来れば大丈夫そうですね」


 細心の注意を払いながら、ようやく橋を渡り終え、ゼノはほっと胸を撫で下ろした。


「途中のあれ、すごかったね。まだ胸がどきどきしてるよ」


 興奮収まらぬといった様子で、マリアンルージュは目を輝かせている。

 突然身の危険に曝され、さすがの彼女も恐怖に駆られてしまったのではないかと心配していたが、どうやらそれも杞憂に終わったようだ。

 橋を振り返り、一息つく。ふと手元に視線を向け、ゼノは思わず後ずさった。急に手を引かれたマリアンルージュが、面食らったようにゼノの顔を見上げて言った。


「どうかした?」

「い、いえ……」


 突風に煽られたあのとき、ゼノは咄嗟にマリアンルージュの手を掴んだ。振りほどくわけでもなく自然に握り返されたものだから、橋を渡り終えるまで、その手を握ったままだったことを忘れていた。マリアンルージュも同様に、ゼノの手を握ったままだと気付いていないようだった。


「もう、手を放しても大丈夫ですよ」


 ゼノが一言告げると、マリアンルージュは数回瞬きして手元に視線を落とし、慌ててゼノの手を放した。


「あっ、……ごめん」

「いえ、咄嗟に手を掴んでしまったのはこちらですから……」


 頭を下げるマリアンルージュを見て、それに倣うようにゼノも頭を下げる。やがて顔を見合わせると、ふたりは互いに表情を綻ばせた。

 橋の中央で荒れ狂っていたのが嘘のように、ふたりのあいだをそよ風が通り抜ける。アルティジエの街区へ続く市門は目の前だ。


「行きましょうか」


 マリアンルージュを促して、ゼノは閉ざされた門へと歩き出した。



***



 自由都市アルティジエの市街区は、石造りの城壁に囲まれており、市内に入るには堀に架けられた三つの橋の終着点にある市門を通る必要があった。

 自警団と思われる数人が見張りについていたが、滞在予定日数と街の利用目的の確認を簡単に済ませると、すんなりと門を通ることが出来た。



「わぁ……」


 石畳の敷かれた急な坂道を登っていく途中、道の脇に並ぶ手入れの行き届いた花々を見て、マリアンルージュが感嘆の声をあげた。弾むように坂道を駆け上がる彼女のあとを、ゼノも歩調を速めて追いかける。

 坂道の傾斜が緩やかになると、その先には市街区が広がっており、色鮮やかな赤い屋根と白い石造りの壁の家が道の両脇に規則正しく建ち並んでいた。


「綺麗な街だね」


 登り切った坂の上でマリアンルージュがくるりと振り返り、にっこりとゼノに笑いかける。

 イシュナードと里の外を遊び歩いたゼノとは違い、マリアンルージュは人間の街を知らない。ふたりが生まれ育った里では木造の小屋が大半であり、道中立ち寄ったヤンの村もふたりの故郷と似たようなもので、景観を考慮して造られたこの街アルティジエの風景は、マリアンルージュの瞳にはさぞかし美しく映ったことだろう。

 眼下に広がる市街区を見下ろして、子供のようにはしゃぐマリアンルージュを眺めていると、ゼノの表情も自然と和らぐようだった。


 石畳の道に沿って市街区を通り抜けると、やがて街の様子に変化が現れた。行き交う人々の数が増え、通りが賑やかになっていく。道の両脇に並んでいた民家がなくなり、代わりに様々な専門店が並び始めた。店先のテントで買い物客を呼び込む店主の声が、あちこちで飛び交っている。


「凄い人だね……」

「外部との交流が少ないとはいえ、アルティジエは一国の首都と同等の人口の街ですからね」

「気のせいかもしれないけど、すごく注目されてる気がする……」


 そう言って身を縮こまらせるマリアンルージュを見て、ゼノは周囲を見回した。確かに、すれ違う人々が物珍しそうな目でふたりを見ている。

 旅人が珍しいというのも一因だろう。事実、黒づくめのゼノの姿は、通りを行く人々の中でも浮いていた。だが、それ以上に注目されているのは、薄汚れたぶかぶかのローブを身に纏って歩くマリアンルージュのほうだった。田舎と違い、洒落た衣服で着飾るこの街の人々の目には、さながら奴隷のように映るのかもしれない。

 道の中央で立ち止まり、僅かに考え込むと、ゼノは改めて周囲を見回した。人混みの向こう側の店先に提げられた看板に目を止めたると、ゼノはマリアンルージュの手を取り、足早に歩き出した。


「ど、どうしたの?」


 人混みを掻き分けて進むゼノのあとを、マリアンルージュが慌てて追いかける。辿り着いた先に、軒下に仕立屋と書かれた看板を掲げた店があった。木製の扉を軽く叩くと、ゼノはマリアンルージュの手を引いて店に入った。



 全ての窓にカーテンが掛けられた薄暗い店内は、外の賑わいとは打って変わり、しんと静まり返っていた。広間には煌びやかな装飾の施されたドレスや、希少な生地で作られたコートを着た等身大の人形が並んでおり、その奥にカウンターが設置されていた。呼び鈴を鳴らしてみたが、人がやってくる気配は無い。


「すごいね。お洒落な服がたくさん……」


 無言で店の奥へと向かうゼノを余所に、マリアンルージュが感嘆の声を洩らす。何度も足を止め、着飾った人形を食い入るように見つめては、瞳を輝かせていた。

 全ての住人が同色同素材の衣類を身につけていた故郷のことを考えれば、マリアンルージュの反応にも頷ける。あの里の衣装は、祝い事で着飾るときでさえ髪の色に合わせた装飾を施す程度のもので、人間の服とは比べるまでもないほど地味なものだった。

 

「店主を呼んできます。どんな服が良いか決めておいてください」

「えっ? ちょっと待って、ゼノ! 決めるって……」


 あたふたと狼狽えるマリアンルージュを広間に残し、カウンターの裏側に回り込むと、ゼノは奥の部屋へと続く扉を開けた。


 店の奥に位置するその部屋は、こじんまりとした作業部屋になっていた。壁際には整然と収納棚が立ち並び、部屋の隅には袖のないコートを着た等身大の人型が置かれていた。床には糸くずと端切れが散らかっており、足の踏み場がない。

 窓から差し込む陽光の中で、針と糸を手にした男が入り口に背を向けて座っていた。


「人の仕事場に無断で入るもんじゃねぇ」


 後方を振り返りもせずに、男は低い声で呟いた。手を止めることなく、作業台に置かれた上質の布地に金の糸を通していく。狗鷲をモチーフにした刺繍が襟に施されたその衣装は、王侯貴族が身に纏う礼服のようだった。


「呼び鈴を鳴らしたのですが、返事がなかったものですから」


 ゼノが言うと、男は作業の手を止めて振り返った。白髪混じりの頭髪に顰めっ面が良く似合う中年の男だ。


「ベルンシュタインのお偉いさんから注文が入っててね。仕立てが終わるまでにあと二、三日はかかる。今日のところはお引き取り願いたいね」


 頭頂から爪先までゼノの身体に視線を巡らせ、溜め息を吐くと、男は一息にそう言って、再び作業台に向かった。

 どうやらこの男がこの店の主のようだが、ゼノの話を聞く気はないらしい。


「では、他に仕立てを請け負って貰えるような店を教えていただけませんか? 他所の土地から来たもので、この街に詳しくないのです」

「そんなもん、見りゃわかるよ」


 仕立て屋の男は作業の手を止めることなく言い返した。とりつく島もない、とはこの状態を言うのだろう。

 軽く息を吐くと、ゼノは広間に戻り、飾られた衣装を見て回っていたマリアンルージュに声を掛けた。


「お待たせしました。立て込んでるようなので別の店を探しましょう」

「服のことなら気にしないで良いよ」

「そうもいきません。俺と違って、貴女は女性なんですから」


 遠慮するマリアンルージュを説得しながら、ゼノが店を出ようとした、そのときだった。けたたましい足音を響かせて、奥の作業部屋から仕立て屋が飛び出してきた。


「ちょ、ちょっと待て!」

「なんでしょうか」

「その、用件と言うのは、そのの服を仕立てることで良いのか?」


 勢い良く詰め寄られ、ゼノが無言で頷くと、仕立て屋はゼノの腕を掴み、店内へと引きずり戻した。熱意の篭った視線を向けられ、思わず後ずさったゼノに、仕立て屋が熱く語りはじめる。


「恋人へのプレゼントに服を選んだその心意気が気に入った! 最近の若い連中は、プレゼントとくればやれ指輪だやれ首飾りだと、宝飾類しか眼中にねぇときた。一昔前なら、嫁入り前の娘は婚姻衣装を自分で作るのが当たり前なくらい、身に纏う衣装には想いが込められていると考えられていたのにだ。だが、あんたは違う。あんたは仕立てのなんたるかを理解してる。用件を聞こうじゃないか」


 熱弁を奮い、仕立て屋はゼノの手を握り締めた。

 なにやら話が飛躍しているが、マリアンルージュの服を仕立てる気にはなったらしい。恋人だのプレゼントだの、完全に誤解されているようだが、それはこの際どうでもいいだろう。

 愛想の良い笑顔を作り、ゼノは快く頷いた。


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