狼と花と肉
茂みの裏側へと素早く回り込んだゼノは、目の前の光景に目を丸くした。
頭のてっぺんを押さえ、涙目でゼノを見上げていたのは、まだ年端もいかない少年だった。
「
少年はゼノと顔を合わせるや否や、怒涛の勢いで文句をまくし立ててきた。
赤墨色の髪の毛と同じ色のふさふさの尻尾を逆立て、怒りを露わにゼノを睨み付ける。髪のあいだから覗く丸みを帯びた三角形の獣の耳は肉厚で、イヌ科の動物のそれだとわかった。
「
呆気にとられたままゼノが溢すと、頭のてっぺんをを押さえたまま、少年は一瞬にして顔を青褪めた。ふらふらと目を泳がせて、「え、あー、ん……?」などと声を洩らしている。
「人の後をつけるような真似をして、一体何を企んでいたんです?」
口籠る少年にゼノは詰め寄った。
尾行していただけではない。朝からずっと見られていたのだとすれば、当然この少年は
冷たい光を湛えた紅玉の瞳を、ゼノがすっと細める。
蛇に睨まれた蛙のように少年が縮こまった、そのとき。
「なんだ、子供じゃないか」
茂みの向こうからマリアンルージュがひょっこりと姿を現した。
「終わったよ。早く川原に戻ろう?」
片手で紐をくるくると弄びながらにっこりと微笑んで、マリアンルージュがゼノを急かす。
少年を見下ろす瞳はそのままに、ゼノは言った。
「マリア、今大事な話をしているので、少しだけ向こうで待っていていただけませんか?」
「それは構わないけど、はやく絞めないと岩豚が目を覚ましてしまうよ?」
「えっ……」
茂みの向こう側、締め上げた岩豚を指差してマリアンルージュが肩を竦める。岩豚と少年のあいだで何度か視線を行き来させたあと、口を開きかけたゼノの言葉を遮るように珍妙な音が鳴り響いた。
足元で顔を背けてぷるぷると震える少年の腹が、なんとも情けない悲鳴をあげていた。
「その少年にも手伝ってもらって、……ね?」
くすりと笑んで、マリアンルージュがゼノを促す。
やれやれと肩を竦め、ゼノは少年へ手を差し伸べた。
***
岩豚の四肢を括った紐を握り、三人はその巨体を引き摺って獣道を降った。川原まではそう遠くはなかったけれど、それでも岩豚を運び終えるころには三人とも汗だくになっていた。
川縁に岩豚を寝かせ、砂利の上に座り込んで小休憩を取っていたところで、マリアンルージュがゼノに尋ねた。
「それ、借りてもいいかな?」
マリアンルージュが指差したのは、ゼノの腰ベルトに提げられた護身用のナイフだった。
目を丸くしてゼノが動きを止めると、マリアンルージュは軽く謝るような仕草を取り、茶目っ気たっぷりに笑って言った。
「ごめん、解体するのに肝心の刃物を持ってきてなくて」
「あぁ、そういうことでしたら……どうぞ」
「ありがとう」
ベルトから鞘ごと取り外したナイフを手渡すと、マリアンルージュは一言礼を述べて立ち上がり、ひとりで岩豚の元へと向かった。離れていく後ろ姿と岩豚の巨体を見比べて、ゼノが慌ててマリアンルージュを呼び止める。
「手伝いましょうか?」
「ひとりで大丈夫だよ」
くるりと振り返ってそう言うと、マリアンルージュはゼノの隣で肩を上下させている人狼の少年を指差した。
「それよりも、ふたりで焚き木を集めておいてくれる? 火の準備もしておいてもらえると助かるな」
***
再び森の中へと戻ったゼノと少年は、足元に散らばる枝木と落ち葉を拾い集め、川原と森を何度か行き来した。それが終わると、ゼノは少年に、川原に転がる石のなかから大きめのものを選んで集めるように指示を出した。
「そういえば、きみの名前をまだ聞いていませんでした。毎回少年と呼ぶのもどうかと思うので名前を教えてもらえますか?」
石を拾い集めながらゼノが少年に尋ねると、少年はそっぽを向いたまま名を名乗った。
「リュックだよ」
「では、リュック。集めた石でかまどを作りますから手伝ってください」
空腹で肉を食べたい気持ちからか、本来素直な性格なのか、少年は従順な姿勢でゼノの指示に従い、石の組み上げを手伝った。
行動を共にしたのは僅かな時間ではあったものの、少年に対してゼノが抱いていた不信感はすぐに消えた。むしろ人間の支配が強いこの世界では、異種族というだけで近しい立場の存在に感じられた。
ゼノは少年に細かいことを尋ねようとはしなかった。ただひとつだけ、気に掛かることがあった。
どう切り出そうかと考えていた、ちょうどそのとき、かまどに目を向けたままリュックが話しかけてきた。
「さっきの、ねえちゃんさ」
「マリアのことですか?」
ゼノが確認すると、リュックはこくりと頷いて話を続けた。
「……言葉遣いは女らしくないし、岩豚とタイマン張ったりしてとんでもないヤツだなって思って見てたけど……優しいよな」
呟いて、その表情を綻ばせる。先程までの不貞腐れた様子は欠片もない、穏やかな笑顔だった。
「そうですね」
「美人だし」
「……そう。それに良い身体をしていたでしょう?」
「良いっつーか、あれは相当の
そこまで言って、リュックは慌てて口を塞いだ。怯える視線が向かう先には、ゆっくりと頷くゼノの笑顔がある。顔に貼りついたその笑みは、背筋が凍りつくほど冷ややかだ。
「嵌められた」と後悔するも時すでに遅く、リュックは朝方抱いた出来心をちょっとばかり後悔することになったのだった。
***
石造りの簡便なかまどが組み上がり、焚き火の準備が整ったころ、岩豚の解体を終えたマリアンルージュが新鮮な肉を両手に戻ってきた。
上機嫌でゼノとリュックに肉の塊を差し出した彼女は、ふたりの微妙な空気に首を傾げると、リュックの頭頂の大きなコブに目を見張った。
「これ、どうしたの? どこかにぶつけた?」
心配して説明を求めるものの、当の本人であるリュックは気まずそうに視線を逸らすだけだ。
「なんでもありませんよ、ね?」
何事もなかったかのように冷静に、ゼノがリュックに頷いてみせる。
不自然な笑みを浮かべるふたりの様子に、マリアンルージュは只々首を傾げていた。
ゼノとリュックが組み上げた石のかまどは、マリアンルージュの想像を遥かに上回る出来だった。
気不味そうに顔を背けるリュックの手を取って礼を言うと、マリアンルージュは大きめの木の葉を川で洗い、その上で肉の塊を丁寧に切り分けた。
「それは、どこの部位にあたるんですか?」
「お腹から背中にかけた、脂ののってる柔らかい部位だよ。調理器具さえ揃っていれば、どの部位でも食べられたんだけどね」
隣で手元を覗き込んでいたゼノに、マリアンルージュは上機嫌で答えた。
一般に、岩豚の柔らかく脂ののった肉は、街の高級料理店でしかお目に掛かれない一級品だと言われている。本来ならば、多彩な香辛料で味付けをしたステーキや、香草を使った煮込み料理などの本格的な調理法が望ましいものの、材料も道具も揃わない森の中では精々肉そのものの素材の味を愉しむしかないだろう。
ゼノとリュックが集めた枝の中から手頃なものを串代わりにして、マリアンルージュがかまどの上に肉を並べようとしたときだった。
「ちょっと待ったぁぁぁぁ!」
張り上げられたその声に、マリアンルージュは目を丸くした。慌てて手を止め、リュックのほうを振り返る。
「目の前の高級食材がただの焼いた肉になるのをみすみす見逃すわけにはいかない! どうせ人間じゃないのはバレてるんだ! オイラが一肌脱いでやるよ!」
希少な食材に目を眩ませ、
空腹に荒ぶる人狼の少年を見上げ、ゼノは胸の内で呟いた。
――高級食材恐るべし。
***
ゼノとマリアンルージュを追い立てるように川原に座らせると、リュックは手のひらを上にして両手を合わせ、祈るように目を閉じた。
僅かな沈黙が訪れ、木の葉が掠れ合う音と川のせせらぎが耳に届く。
リュックが何をしようとしているのか、ゼノとマリアンルージュには見当もつかなかった。おとなしく並んで座ったまま、ふたりはじっとリュックの様子を眺めていた。
異変はすぐに起きた。
リュックの手のひらにぼんやりと光が灯る。と同時に、瞬く間に様々な植物が光の中から溢れ出した。
多種多様な植物が薫り高い花を咲かせ、次々とその実を実らせていく。
「すごい! これ、全部香草だよ!」
感嘆の声をあげ、マリアンルージュがリュックの周りに広がる小さな繁みへと駆け寄った。
「村の外では使うなって言われてる
マリアンルージュが予想外に喜ぶので気を良くしたのだろう。リュックが得意げに自身の特殊な能力について説明する。
けれど、マリアンルージュはそれどころではなかったらしい。興奮して大はしゃぎしながら、彼女は次々に香草の香りを嗅いでいた。
「ちょっと、話聞いてる?!」
「聞いてますよ、一応」
ちょっぴり涙目のリュックの肩に手を置いて、憐れむようにゼノが囁いた。
***
不貞腐れながらもマリアンルージュの要求に応え、リュックは様々な草花を咲かせた。
料理に使用する香草や草葉が揃うと、マリアンルージュは再びリュックの手を取って、上機嫌で礼を述べた。
「ありがとう! こんなに良い素材が揃うとは思いもしなかったよ!」
直接好意を向けられることに慣れていないのか、リュックは僅かにたじろいでいたが、ほんのりと頬を染めるその様子から満更でもないことが窺い知れた。
「べ、別に礼なんていらねぇよ。せっかくの高級食材なんだから。さっさと調理して食べようぜ」
特殊能力を使ったことで余計空腹感が増したのだろう。リュックはマリアンルージュに調理を促した。だが――
「ごめん、もう限界だ。取り敢えずお昼は串焼きにしよう」
真上に位置する太陽を指差して、マリアンルージュ平謝りしてみせる。
ゼノとリュックも限界だったのだろう。反論もなくその提案に頷いた。
かまどとは別に焚き火を
脂ののった岩豚の肉は火で炙るとたちまち肉汁を滴らせ、度々火の粉を舞い上がらせた。
「もう焼けたんじゃないですか?」
「まだダメだよ。我慢だよ我慢!」
「ちゃんと火を通さないと腹くだすぞ」
口々にお互いを牽制しながらも、三人の胃袋は既に我慢の限界だった。
暫しの沈黙をおいて、零れ落ちた肉汁で火の粉が跳ねた、その瞬間。三人は同時に串へと手を延ばし、程よく焼き色が付いた岩豚の肉へとかぶりついた。
芳ばしい薫りが三人の鼻腔を擽り、口内を満たしていく。咀嚼するたびに溢れ出す肉汁で火傷しそうになりながらも、まだ熱さの残る肉片を競うように喉の奥へと流し込んだ。
切り分けた分の岩豚の肉があらかた片付いた頃には、ゼノの胃袋はすっかり満たされていた。腹をさすりながら川原に寝転がるリュックの顔も満足そうだ。
早々に食事を切り上げたふたりを他所に、マリアンルージュは焚き火の傍にしゃがみ込み、残りの肉を焼いていた。一口肉を頬張るたびに満面の笑みを浮かべる彼女の様子は、まさに幸福を体現している。
「よく食べますね」
あぐらに頬杖をつきながらゼノが呟くと、マリアンルージュがはたと動きを止めた。ぎこちなくゼノのほうへ目を向けたその顔が、みるみるうちに紅く染まる。
「……
消え入りそうなか細い声がゼノの耳に届く。数回瞬きを繰り返し、ゼノは特に表情を変えるでもなく、その問いに答えた。
「いえ、本当に美味しそうに食べる
「……っ!」
真っ赤に茹で上がった顔を両手で覆い隠し、マリアンルージュは勢い良くゼノに背を向けた。
「い、嫌味じゃありませんよ!? 本当に、無邪気と言うか、ずっと見ていて飽きないと言うか、食べてる姿も愛らしいと――」
「もういい! わかったから! きみが嫌味を言うような人じゃないのは知ってるから……!」
必死に顔を背けながら、マリアンルージュが
焚き火を囲んで大騒ぎするふたりの珍妙なやり取りを冷めた目で傍観していたリュックは、ゆっくりと川原に身体を横たえて、やれやれと溜め息を吐くのだった。
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