第二章 死する狼のための鎮魂歌

狩り

 夜明けを告げる鳥の声が、静まり返った森に響き渡る。

 木の葉から滴る朝露を頬に受けて、ゼノは目を覚ました。数回まばたきを繰り返し、朝靄あさもやのかかるおぼろげな視界に目を凝らせば、砂利の敷き詰められた川縁かわべりに残された昨夜の焚き火の跡が目に入った。

 腕を伸ばして焼け焦げた木片に手をかざす。まだほんのりと熱を帯びていることから、少し前まで誰かが火を灯し続けていたことが窺えた。

 思い当たる人物など、一人しかいない。


「マリア……?」


 辺りを見回そうと身を起こすと、肩に掛けられていた布が地面にはらりと落ちた。慌てて拾い上げた少し厚手の亜麻色のマントは、マリアンルージュが普段から身に付けているものだった。

 交代で火の番をしていたはずなのに、マリアンルージュと番を代わった記憶がない。ゼノが眠りこけていることに気が付き、彼女が気を利かせてくれたのだろう。

 マリアンルージュを守るなどと、あの男オルランドに大口を叩いておきながら、実に情けない。

 眉を顰めて額に手を充てると、ゼノは大きく溜め息を吐いた。


 マリアンルージュは何処に行ったのか。夜が明けるまで火の番をしていたのだから、そう遠くへ行っているとは考え難い。

 思考をめぐらせて項垂れたまま座り込んでいると、砂利を踏みしめる足音が微かに耳に届いた。

 ゼノが咄嗟に目を向けると、川縁に沿った茂みの向こうから、マリアンルージュがひょっこりと顔を覗かせた。


「おはよう、ゼノ。良く眠れた?」


 屈託のない笑顔でそう言って、彼女は小走りにゼノの元へ駆けてきた。

 川で水浴びでもしたのだろうか。

 薄手の白い襯衣しんいを一枚身に付けただけの彼女の髪はしっとりと濡れており、白い肌を幾筋もの水滴がつたっていた。張り付いた布が薄っすらと肌を透かしているのがなんとも艶かしい。

 

「なっ……なんて格好してるんですか!」


 思いがけず大声をあげ、ゼノは慌てて目を背けた。

 まずは謝罪と感謝の意を伝えるつもりだったが、それどころではない。

 ゼノ自身、性的感情に関しては疎いほうだと思っているが、あられもない姿のマリアンルージュを前に平然としていられるほど達観しているわけでもない。

 近付くなと言わんばかりに両手を突き出すゼノを見て、マリアンルージュがぴたりと足を止める。小首を傾げ、そのまま自身の姿を確認した彼女は、たちまち頬を紅く染め上げると、慌てふためいてゼノに背を向け、脇に抱えていたローブを頭からすっぽりと被った。


「すまない、野宿が続くと臭うと思って、水浴びを……」


 しどろもどろになりながら装いを正して向き直り、マリアンルージュがおずおずとゼノの顔を見上げる。


「見苦しい姿を見せてしまって、その……ごめん」


 まるで叱られた子供のように呟いて、しゅんとして肩を落とした。

 謝るべきなのは、火の番もろくに果たさずに眠りこけてしまったゼノのほうであり、臭うのもおそらく、血塗れの上着を何日も着たままのゼノのほうだ。

 マリアンルージュの先程の行動は迂闊すぎるとは思うが、謝られるようなことではない。ゼノも歴とした男であり、マリアンルージュのように容姿に恵まれた女性の際どい姿であれば、目にして嬉しいと思うことこそあれ、不快な気分になることなどないというものだ。

 

「いえ、貴女は女性なのですから、こちらが配慮するべきでした。昨夜のことも本当に申し訳ありません。それに、野宿が続くと臭うと貴女は言いますが、どちらかといえば良い匂――」


 早口で捲し立てたところで、ゼノは慌てて口を閉じた。

 思わず本音を口にするところだった。

 きょとんとしてゼノを見上げるマリアンルージュの視線が痛い。


「……要するに、謝るべきなのは貴女ではなく、俺のほうだと言いたかったんです」


 軽く咳払いしてゼノが前言を誤魔化すと、マリアンルージュははにかむように表情かおを綻ばせた。


「ありがとう。相変わらずきみは優しいね」


 そう言って、くすりと笑みを溢す。

 初めて言葉を交わしたあのときも、彼女は「きみは優しいね」と言ってくれた。

 それならば、イシュナードがいなくなった今でも、皆に忌み嫌われる闇色の髪の自分を「好きだ」と言ってくれるだろうか。


 感傷的になりつつあったゼノだったが、その思考は唐突に遮られた。


「あっ……!」

「どうかしましたか?」


 何事かと身構えるゼノに、マリアンルージュは無邪気に笑って言った。


「大事なことを忘れていたよ。朝ごはんはどうする?」



***



 法と秩序の国レジオルディネの国土の東端は深い森に覆われており、王都から続く石畳の街道が森の奥にそびえ立つ要塞――軍事国家ベルンシュタインとの国境へと続いている。

 その要塞までの道中に、アーチ状の石造りの橋が架けられた、北から南へと流れる比較的大きな川がある。

 レジオルド憲兵隊第十七隊と別れたゼノとマリアンルージュは、その川縁に沿い、三日程かけて森を北上していた。ベルンシュタインに向かう前に、ゼノには行かなければならない場所があったからだ。

 ふたりの旅は順調に思われていたが、野宿が続いた昨夜、遂に深刻な問題が発生した。手持ちの食糧が底を尽きたのだ。



「魚でも捕まえられたら良かったんだけど……」


 濡れた髪に手櫛を通しながら、マリアンルージュがぽつりと呟いた。

 何気ない愚痴とも取れたけれど、その言葉から、ゼノは今朝の彼女の行動をなんとなく把握できてしまった。

 おそらく、マリアンルージュが朝から川に出掛けた理由は、水浴びのためだけではなかったのだ。昨夜の話を気にしてひとりで魚を捕まえようと四苦八苦しているうちに、川に落ち、結果的にをする羽目になってしまったのだろう。

 眠ってしまったゼノを起こすわけでもなく火の番を代わっていたことも含め、彼女は何かと気を遣い過ぎている。食糧のことも火の番のことも、一度しっかりと話をするべきだ。

 そう考えはしたものの、差し当たり、今すべきことは決まっていた。

 

「空腹のままでは移動の効率が落ちますし、万が一道に迷ったりしたら取り返しが付きません。茸か木の実でも探しながら川沿いに移動しましょう」


 ゼノが提案すると、マリアンルージュは大きく頷いて同意した。



 実のところ、ゼノは茸や野草に関してはあまり詳しくなかった。

 元々部屋に篭りがちで必要最低限の狩りしか経験しておらず、その数少ない狩りの経験では必ずと言っていいほどイシュナードの協力があった。

 言ってみれば、里の外で遊び暮らせていたのはイシュナードの助けがあったからこそのことだったのだ。

 幸いにも、竜人族の身体は大半の毒を受け付けない。アルコールの類がそうであるように、それらは体内で無害な状態に分解されるため、万が一、毒のある茸や木の実を口にしてしまったとしても、何ら問題はないのだ。

 味や見た目を気にしなければ適当なもので空腹を満たすことができる。なんとも便利なその身体は、今のふたりにとって、この上なく有難いものだった。

 道に迷うことのないように川の位置を気にかけながら、ふたりは森の中へと歩を進めていった。


 あかや黄に色付いた木の葉が降り積もる森の中では、落葉に隠された獣道が無数に枝分かれしていた。

 静まり返ったその空間で、木の葉を踏み締める乾いた音だけが耳に届く。高みから響き渡る鳥のさえずりに耳を澄ましながら、ふたりは時折辺りを見回した。

 木の穴蔵から顔を覗かせる小動物や、堅い殻に覆われた木の実など、食べられそうなものは何度か目にしたものの、今の空腹を満たすには、それらはどれも微妙なものだった。


「本当は、食糧が無くなる前に次の街に着けるはずだったんだよね?」


 不意に、マリアンルージュが口を開く。


「街に着く前に、わたしに人間の言葉を教えようとしたから、それで予定が狂ってしまった。そうだよね?」


 いつものマリアンルージュらしからぬ弱気な物言いだった。

 振り返ったゼノの目に、しゅんと肩を落とすマリアンルージュの姿が映った。親に叱られた子供のように、彼女は肩を落とし、ゼノの顔色を窺っていた。

 確かに、ゼノは道中、彼女に人間の言葉を教えようとした。けれど、それは精々、歩きながら交わす日常会話を人間の言葉に置き換えた程度のことで、特別に時間を割いたわけではなかった。必要最低限のことしか教えていないにも関わらず既に日常会話が可能なほど、マリアンルージュは物覚えが良かった。

 予定が狂ったのは、単純にイシュナードが先導していたあの頃とはペースが違っていた、ただそれだけのことだ。食糧が足りなくなったことに関しても、ひとりならどうとでもなると高を括り、外の世界を甘く見ていたゼノにも落ち度があった。


「貴女が俺に気を遣っている理由は、それですか?」


 歩みを止め、ゼノはマリアンルージュに訊ねた。

 火の番のことも、食糧のことも、ふたりで協力すれば負担は減る。マリアンルージュが居ることで、ゼノが不利益を被ることはない。それは彼女にとっても同じはずだった。


「マリア、俺は貴女とは対等でありたい。余計な気遣いは必要ありません。何かあれば二人で協力する。それではいけませんか?」


 優しい言葉でもかけることができれば良かったが、生憎ゼノは気の利いた言葉が思い付かなかった。

 気を遣わないで欲しい。むしろ頼って欲しいのだと、そうマリアンルージュに伝えたかった。それなのに、絶望的なまでに、彼は言葉選びが下手だった。

 胸の内の想いを伝えられたかどうか不安を覚えながら、ゼノはマリアンルージュと向き合った。


「……うん。それで良いよ」


 ほっと表情を綻ばせ、マリアンルージュが頷いた。ふたたび獣道を進み始めた彼女の足取りは、心持ち軽くなっているような気がした。



***



 流石に里の男衆に紛れて狩りに出ていただけはある。

 足場の悪さに四苦八苦しながら後に続くゼノとは違い、マリアンルージュは軽々と道の先を進む。急な坂をしばらく登り、ふたりは微かに耳に届く川のせせらぎから現在地と川までの距離を確認した。

 大小の石や地表を這う木の根で歩き難かった獣道はいつの間にかなだらかになり、周囲の茂みは枝葉がられて拓けた道になっていた。それらの状況からは、何か大きな動物がこの辺りに住み着いていることが容易に想像できた。

 大樹の根元にしゃがみ込み、草のあいだを確認すると、マリアンルージュは顔を上げてゼノを手招いた。


「……これを見て。岩豚だよ。この辺りに生息してるんだ」


 マリアンルージュが指し示す草むらをゼノが覗き込むと、そこには異様な存在感を放つ動物の糞がこんもりと落ちていた。眉を顰めて息を詰めるゼノに、マリアンルージュが期待を込めた眼差しを送る。彼女は勢い良く立ち上がり、瞳を輝かせてゼノに詰め寄った。


「狩ろう!」

「狩ろう……って、道具はあるんですか? そんな大きな手荷物には見えませんが……」

「流石に弓は持って来れなかったけどね。でも、こんなときのことを考えて……」


 弾んだ声でそう言うと、マリアンルージュは背負っていた袋を下ろし、中から長い紐を取り出した。動物の毛を編んで作った丈夫な紐は中央が幅広くなっており、片側の先端が輪になっていた。


「なるほど、投石紐スリングですか」


 呟いたゼノに、マリアンルージュは大きく頷いた。


 スリング――片手で握れる程度の大きさの石や金属の塊等を遠くへ投げ飛ばす道具だ。

 射程距離が長く、鉄のやじりを必要とする弓矢に比べて弾の補給が容易なため、鳥や小動物の狩りの際に用いられる。だが、狙いどおりの距離・方向に投石するためには紐を放すタイミングを正確に見極める必要があり、実用できるほどの技を修得するのは難しく、暇を持て余した竜人族の中でも実用している者はまれだった。


 スリングの片端を手首に掛けてくるくると回してみせると、マリアンルージュは鼻歌を歌いながら、足元に転がる石を物色しはじめた。手頃なものを幾つか拾い上げ、岩豚の通った形跡を辿りながら、彼女は森の奥へと進む。

 延々と続くかに思われた木々の切れ目、陽の光の射す拓けた場所で、は悠々と草を食んでいた。ゼノの胸の高さほどあるその身体は、頭部のごく一部を除き、岩のような鱗で覆われていた。


 本来、岩豚の捕獲は非常に難易度が高い。

 頑強なその鎧を飛び道具で貫くのは非常に困難であり、竜の里の男衆は竜気を纏わせた近接武器で直接傷を負わせる狩猟法を用いていた。

 狩り人自身が危険に晒されるためか、率先して岩豚猟に出るものは少なく、岩豚の肉は非常に希少な食材とされていた。当然ながら、ゼノがその肉を口にできた試しは一度もない。


「すごく美味しいんだよ」


 ゼノを振り返って嬉しそうに告げると、マリアンルージュはひらりと茂みを飛び越えて、岩豚の前に躍り出た。

 唐突な自殺行為を目の当たりにして、ゼノの顔が一瞬にして青ざめた。


 大抵の草食動物は天敵を前にすると逃げ出すものだ。けれど、その身に強固な鎧を纏う岩豚はそこらの被食獣とは違う。狩猟者と対峙した際、真っ先に臨戦態勢に移るのである。

 案の定、マリアンルージュに気付いた岩豚は草むらから顔をあげ、鼻息を荒げながら蹄で地表を掻き毟りはじめた。力強く地面を蹴って勢いに乗り、前方のマリアンルージュへ向かって突進する。

 空回りする頭では何の対策もできず、ゼノは目を見開いたまま全身を強張らせた。対するマリアンルージュの表情は涼しいもので、迫り来る岩豚を前に余裕の笑みを浮かべている。

 片手でスリングを回転させながら、彼女は悠然と構えを取った。


 ――ひゅっ。


 空を裂く鋭い音と共に、放たれた石が岩豚の眉間に直撃する。猛進していた岩豚は身を仰け反らせ、空回りする足に踊らされるまま前方の大樹へと激突した。

 岩豚の突進をかわしたマリアンルージュは倒れ込んだ巨体に駆け寄ると、岩豚が気絶していることを確認し、呆然と立ち尽くすゼノを晴れやかな笑顔で手招いた。


「なんと言うか……、お見事でした」


 ひとこと口にするのがやっとだった。まさか彼女が、男でも苦労する岩豚狩りをいとも容易く成し遂げてしまうとは。

 ゼノが想像していたよりも遙かに、マリアンルージュは逞しかったようだ。

 岩豚の傍で手を振るマリアンルージュの元へ向かおうと一歩踏み出した、その刹那、ゼノは何者かの気配を察した。


 ――後方の茂みの奥に、誰かが居る。


 素知らぬ顔でマリアンルージュの側へと駆け寄ると、ゼノは彼女の傍らに膝をつき、こっそり耳打ちした。


「振り返らずに聞いてください。後方の茂みに何者かが潜んでいます」


 袋から取り出した縄で岩豚の前脚を括っていたマリアンルージュは、振り返ることなく平然とゼノの言葉に頷いた。


「うん。悪意は感じないけど、ずっとつけられてる」

「ずっと……ですか?」

「朝から何度か気付いてはいたんだ」

「朝から……」


 マリアンルージュの言葉に眉を顰めると、ゼノは足元の石を拾い上げた。そのまま上体を捻って大きく振り被り、後方の茂みに向けて思い切り石を投げつける。

 直線を描くように突き進んだその石は、茂みの中へと姿を消した。その直後、小さな悲鳴がふたりの耳に届いた。


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